初めて頭に角が生えたのは、高校二年の時だった。鉛色に鈍く光る、三角錐の角だ。表面は滑らかで、いかにも重そうに、くぐもりながら輝いている。
 もちろん外から見ても分からない。それは僕の脳味噌の中に生えるのだから。
 角が生え始めたのは、なぜか三宅にごちゃごちゃ言われるようになった、その時からだった。
 三宅は、同じクラスの嫌な奴だった。いつでも自分がグループの中心でなければ気の済まない、幼稚な男だった。そして自分の考えを人に押しつけて、それが通って当然だと思っているような、最低の性格だった。
 その三宅がどういう訳か、僕にからみだした。三宅ばかりでない。彼を取り巻くグループが、休み時間ともなると僕の机の回りにやって来て、くだらない文句をつけるのだ。初めは僕の教科書を隠したり、ノートに落書きする程度だったのが、段々ひどくなり、弁当をむりやり開けて、中に唾を吐いたりするようになった。なにかで僕が側を通る度に、鼻をつまんで、「臭せぇ」と顔をしかめたりした。僕がこんなひどい目にあっているのを知っているのに、クラスの皆は、誰もなにも言わず、ただ見て見ぬ振りをしているだけだった。巻き込まれたくなかったのだろう。
 ある日、三宅達が、僕の鞄を取り上げ、上に乗って、替わりばんこにどんどんと跳んでいる時だった。
 ピチリ。
 そう、音がして、小さな、針のようなものが、僕の脳味噌に生えた。ちょうど目と目の間、鼻の奥深くに、にゅうと芽を出したのだ。
 それが、角の始まりだった。
 以来、角はいつでもそこにあった。頭を振ると、角も一緒に傾いた。そして、三宅達がなにかする度に、初めは針のようだった角が、少しずつ大きくなっていった。銀色とも鉛色ともつかない、三角錐の角が、僕の頭の中で、育ち始めたのだ。
 二か月もすると、角は随分と大きくなり、底辺が後頭部から目の後ろまで、頭の中一杯に広がり、先端はとうとう頭蓋骨を下から押し上げるまでになった。鏡で何度も頭の形を確かめてみたけれど、髪の毛で隠れているのか、よく分からなかった。けれど、手で触ると、僅かだけれど頭のてっぺんが尖ってきた様な気がした。
 何をするにもとにかく角のことが気になって、集中できなかった。眼球を回せば、どうにか角を実際に見れる様な気がして、知らず知らず寄り目がちになったし、ひょっとして先端が突き出てはしないかと、つい手が頭に行った。
 そんな僕の様子に三宅達の嫌がらせは、一段とひどくなった。
「こいつ、ちょっとおかしいぜ。いつも頭のてっぺんなぜやがってさ。気味悪い目つきでよ」
「誰も誉めてくれないから、自分でいい子、いい子ってやってるんだろ」
 角は成長を続け、僕の、本当の脳味噌が、その影で小さくなっていった。何も考えられない時間が多くなった。何か考えようとしても、角が邪魔するのだ。僕の考えを吸い取ってしまうのだ。挙げ句の果てには、僕は、ただ、もう目や耳から入った情報を角に伝えているだけの様な気すらした。脳を乗っ取られたみたいで、それがとても嫌だった
 そして、ある日ついに角が喋り始めた。
 耳を塞いでも、聞かないでいようとしても、脳の中にあるのだから、頭の中に直接話し掛けてきて、どうしても止められない。うるさくてかなわなかった。
 例えば、誰かと話していても、横からその会話に潜り込んで邪魔をして、話にならなくなったりした。角が、言葉の意味を勝手に変えてしまうのだ。僕が言おうと思ったことが、角に捩じられて口から出てくる。友達の言った言葉が、裏返されて耳から入る。
 思わず、目をぎゅっとつぶって、角を追い出そうとするのだけれど、いつもそれは無駄な努力だった。角に勝つ方法が見つからなかった。
 朝起きてから、夜寝るまでの間、ずっと僕は角と戦い続けなければならなかった。でも、もう脳味噌を乗っ取られているので、いつも僕は負け続けていた。へとへとに疲れ、地面にへたばり込んでしまいそうな毎日だった。
 ある時、学校から帰る途中、駅で電車を待っていると、突然後ろから背中を突かれた。もうちょっとでホームから落ちそうになりながら振り返ると、三宅だった。
「おめぇなんか死んじまえばいいのによぉ。どうせ、生きてたってろくなことねぇんだしさ」
 そう言いながら、三宅は、僕の鞄を蹴飛ばした。
 急に角が重くなりだした。どうにも頭を支えきれなくなり、首を垂れてしまう。見えるのは自分の足元と、前に立つ三宅の足だけになった。ちょうど入ってきた特急電車の音が、頭の中で鳴り響いた。
 角はどんどん重くなり、顎を手で支えないと、立っていられないくらいだった。そればかりでない。角が大きくなって、頭が張り裂けそうに痛んだ。
 急に、世界が暗くなり始め、自分の足がすごく遠くに見えた。音は小さくなり、特急の音ですら重みを消し、エアコンの呟きほどになった。
 ああ、これは、角が命令を出しているのだ。
 なぜか、そう分かった。そして、内容もはっきりと理解した。
「殺セ」
 三宅を殺せ、そう角が命令しているのだ。
 僕は、抗った。角が僕の手を使おうとしている。そして、前に立っている三宅をホームから突き落とそうとしている。
 駄目だよ。そんなことやっちゃ駄目だよ。
 できる限りの力を振り絞って、手を使わせないようにした。腕がぶるぶる震えている。
 角が強大な力で、身体を支配しようとしている。
 僕は目を硬く堅くつぶって、必死にそれに対抗する。ぎりぎり歯軋りの音が聞こえてくる。
 脳の神経が張り詰めて、いまにも引き千切られそうだ。
 と、突然、何もかもが急に軽くなり、緊張が一瞬にして消滅した。
 ゴトンと言う音とともに、角が揺れた。

 気がつくと、病院の一室に寝かされていた。頭がずきずきと痛い。
 警察の人間が入れ替わり来ては、色々と聞いていった。
「何も覚えていません」
 それしか繰り返せなかった。実際、何が起こったのか、記憶が全くないのだ。
 その場に居合わせた友達や、他の目撃者の話を総合すると、僕は三宅にこづかれるうちに、気を失ったらしい。膝をがくりと落とし、崩れるようにホームに倒れた。びっくりした三宅が二歩、三歩後ろに下がる時、たまたまそこにあった僕の鞄につまずいて、仰向けに転んだ。運悪く、特急の最後尾がちょうど走り抜けるところで、後頭部を車両の角で強打した。辺り一面に血しぶきと脳漿が飛び、頭蓋骨ごとごっそりえぐられる傷だったようだ。そればかりか、首の骨も折れ、ひどい角度で頭が捩じれていたらしい。誰がどう見ても助かる術はない惨状だった。
 三宅が死んだと聞かされて、ひょっとして僕が押したんじゃないかと危惧したけれど、それはないようで、ちょっと安心した。
 それに、いつの間にか、角が消えていた。頭の中は、僕の脳味噌だけで、どこにも角の影すらなかった。目を閉じ、隅々まで神経を探っても、どこからどこまでも、僕の頭だった。嬉しくて、思わず、深呼吸をした。随分と久しぶりに、僕は僕に戻れたのだから。
 それから、もう角は現われなかった。
 卒業後は、実家を離れ、アパートを借りて、専門学校に通った。僕が直接手を下したのではないにせよ、僕が三宅の死の一因であったし、また僕が三宅にいじめられていたことを知っている人達が、なにかと影で言っているのを、僕は判っていた。だから、どうしても町を出たくてならなかったのだ。
 誰も僕のことを知る人のいない、新しい町での生活は、気が楽で心も軽くなった。楽しい学生生活だった。
 けれど、専門学校を出る間近に、また角が生えてしまった。今度は、アパートの隣室の男だった。どうにも我慢できない軽薄な男で、よく女の子を連れ込んでは、一晩中騒いでいた。
 それがなぜか、僕と顔を合わせるとせせら笑うようになり、ゴミをわざと僕の部屋の前に捨てたりした。
 安アパートだったので、壁は薄く、隣の物音は筒抜けだった。
「隣のあいつよぉ、すっげぇ、むかつくんだよな」
「いいじゃないの、なんだって」
「顔見てると、いらいらすんだ」
「確かに暗そうな顔してるけどね」
「爬虫類みたいな目、しやがってさ」
「いいじゃない、それよりぃ」
「なんだよ。さっきしたばっかりだろう。このすけべ女」
 そんな会話が聞こえてくる度に、僕の角は大きくなっていった。前回と全く一緒だった。とうとう僕の頭一杯に広がり、頭蓋骨を突き破らんばかりになった。まともに学校に行く事もできなかった。角に押し潰されないよう、頭を抱えたまま、部屋に閉じこもる日が続いた。ふと、我に帰ると、壁に向かって角を罵っていることもあった。
 ある冬の夜更け、部屋の電気を消し、暗闇の中、一人で悶々としていると、窓にシャワシャワと何かが降りかかる音がする。カーテンを開けると、目の前に、男の股ぐらがあった。酔って帰った隣室の男が、わざわざ僕の部屋の窓に向かって、小便をしているのだった。
 途端に世界が遠く、暗くなった。あの時と、三宅の時と一緒だった。けれど、今回は、僕が抗う間もなく、角の命令が、僕の身体をやすやすと貫いてしまった。僕の脳味噌は、完全に角に屈服してしまった。僕は、ただ、角が僕の身体を動かす様を、見ているだけだった。
 左手で窓を開けざま、男の顎を右手の平で下から突き上げる。酔っ払って、しかも無防備な股間に気を取られていた男は、あっけなく膝を着いた。地面に倒れた男を表の道路まで引きずって行き、ドブにうつ伏せに落とす。しぶきと共に灰色のヘドロが、男の頭を覆った。
 部屋に戻り布団に潜り込む。目を閉じると、角の基底部がじわじわと溶け、崩れていくのが感じられた。金縛りにあったように身動き一つできない。頭だけが冷たく冴え渡ったまま、角が崩壊する様をじっと見ている。
 明け方、窓が白むころ、角はすっかり消えてなくなり、それと共に深い睡魔に襲われ、気を失うようにして眠った。
 男は、朝方散歩していた近所の人に発見されたらしい。警察は、酔っ払った男が小便をするのに、足を滑らせてドブに落ちたと思ったようだった。僕の部屋にも警察官が話を聞きに来たけれど、本当におざなりの形ばかりの質問だった。
 専門学校を卒業した僕は、就職でまた別の街に移り、そこで新しい生活を始めた。

 仕事を始めてから、三年くらいは順調だった。専門学校で覚えた知識をそれなりに活かせる職場だったし、何よりも景気がよかった。会社全体に活気が溢れていた。仕事を覚え、できるようになると、ちゃんと評価されて給料やボーナスもまあまあの額が出た。
 同じビルに入っていた別の会社の女の子と付き合うようになり、一年後には結婚もした。
 それが、バブルがはじけ、銀行の倒産が相次ぐ頃には、仕事の回転が悪くなった。もちろん僕の会社だけの話ではないのだけれど、特にうちはひどかったような気がする。
 僕が入社してからずっと配属されていた課の課長は、とても頭が切れ、仕事もばりばりこなせる人だった。僕を何かとバックアップしてくれ、下で働いていても、とても気持がよかった。しかし会社の業績が落ちると、別の会社から声がかかり、あっさりと移ってしまった。それだけできる人だということだったし、また、彼がうちの先行きに不安を感じたということでもあった。
 後任は隣室の係長だった岡島が持ち上げとなった。
 僕の直属の上司ではなかったけれど、とても嫌な奴だという噂は聞いていた。
 実際、下で働くことになると、とんでもない奴だいうことがすぐ判った。
 人がまだ話している最中に、「分かった、分かった」を連発して、途中で遮る。まるで、自分は頭がいいから、全部聞かずともお前の言うことは分かる、そんな態度だった。そのくせ、本当はちっとも理解できてなくて、後でとんちんかんなことを言ったりした。それくらいならまだいいけれど、おかげで仕事の上でも的外れな決定をするので、その穴埋めのために僕たちが走り回らなければならないことも再三あった。
 だいたい岡島が課長になれたのは、上の者にゴマをするのがうまかっただけの話で、何かと部長の機嫌を取ることばかり考えていた。なんでも遠い親戚筋に当たるらしい。
 岡島の評判が悪かったのは、無能ぶりのせいばかりではない。岡島は、部下の些細なミスを、いつまでもしつこくいびり続けるような陰湿な性格だった。
 ほんのちょっとした書き間違いをしたばかりに、ねちこく嫌味を言われ、とうとう泣き出した女子社員もいる。書類の提出が遅い社員がいると、机の横に立って、覗き込むようにし、わざと溜息をついたりした。岡島が課長になったせいで辞めた人間を、僕は少なくとも三人は知っている。
 ある日、僕はちょっとした思い違いから、見積もりに入れるべき数字を一つ抜かしてしまった。家に帰り、ベッドに入ってもう寝ようという時に、突然そのことを思いだしたのだ。
 翌朝慌てて、岡島にそのことを告げた。先方に提示するのには、まだ時間があり、今から書き直せば、問題はどこにもないはずだった。
 しかし、岡島は、いつもの調子で嫌味をたらたら言い始めた。
「ええっ?それじゃ、うちが大損する見積もりなんか作ったのぉ。これだけの額、君に払えったって、払えないだろう?」
「すみません。でもまだ先方には提示してないんですから、大丈夫かと。すぐに数字を入れ直してちゃんとしたものを作りますので」
「ちゃんとしたぁ?じゃ、これはちゃんとしたものじゃなかったんだね。ちゃんとした給料貰ってんだから、ちゃんとした仕事をしてくれよな」
 岡島はそう言うと、手にしていた見積もりをごみ箱に落とした。
 その時から、僕の脳味噌にまた角が生え、日に日に成長するようになった。

 ある朝、どういうわけか、岡島と部長と僕の、三人だけがエレベーターに乗り合わせた。
「岡島君、最近ゴルフの調子はどうかね」
「いや、部長、それが全く腕が上がらなくて、お恥ずかしいかぎりです」
「岡島君、もう、これからはゴルフばっかりではいかんよ。自然だよ、自然」
「自然と申しますと、、、」
「去年、吉田君、ほら、資材部の、彼に連れてって貰って、フライフィッシングに行ったんだけど、あれはいいよお、君。もうすっかり、はまってしまったよ」
「フライ、、フィッシングですか」
「うん、なんていうのかな、こう自然と一緒になって遊ぶってやつでね、心が休まるよ。どうだ、来週空いてないか。連れってってやるよ」
「え、本当ですか。それはありがとうございます」
「うん、あ、君はたしか岡島君のところだよな」
 突然、部長が僕の方に振り返った。
「うん、君も来るといいよ」
 僕はなにか言う前に、岡島が割って入った。
「え、そんな部長、私だけでも足手まといでしょうに、それは、申し訳ないです」
「なぁに、構やせんよ。いいから、いいから。一人連れてくも、二人連れてくも似たようなもんだ」
「いやぁ、こんな光栄なこと、ほんとに宜しいんですか」
 岡島のおべんちゃらはだらだらと続き、僕の都合も意見もなにも聞かないまま、いつの間にか週末の釣りに付き合わされることになってしまった。
 角がまた少し大きくなった。
 土曜の深夜、僕は、部長の車の後部座席に収まっていた。岡島は助手席に座り、相変らず調子のいいことを言い続けている。僕は、それを無視するように、見慣れぬ暗い風景をぼんやりと眺めていた。
 この二、三日で、角はもう大分大きくなり、時折、また喋るようになっていた。いつ、また僕を支配してしまうのか、不安でならない。思わず、耳を手で塞ぐことも多い。
 青白い街路燈に照らされた、誰もいない小さな村を抜けると、道は急に山の中に入っていった。砂利を跳ねる音が、床下から響く。右に左に、揺れながら、徐々に高度を上げてゆく。
 しばらくして、車が止った。
「さぁ、着いたぞ」
 部長が車から降りた。
「いやぁ、ここですか。うーん、さすが都会と違って空気が美味しいですなぁ」
 岡島が深呼吸をしながら、わざとらしく言った。
「じゃ、準備をして行こうか」
 部長がトランクを開け、僕たちにウェーダーを渡した。
 岡島と僕は、部長から借りた竿を手に、彼のあとに着いて川を歩き始めた。空はもうすっかり白み、川原の石が妙にのぺりと見える。
 生まれて初めて竿を握る僕と岡島に、部長はあれこれ細かく指示をする。岡島は、見かけによらず器用で、ものの一時間もしないうちに、まず最初の一尾を釣った。
「いやぁ、面白いですなぁ。こんなに面白いもんとは知りませんでした、部長」
「うん、うん」
 二十センチあまりの白く光る魚を自慢げにぶら下げて、僕に見せた。
「君も、一匹くらい釣らなきゃ。仕事だけじゃなくて、遊びもできないなんていうんじゃ、情けないよ」
 その頃から、角が急激に膨張しだした。陽の光が谷の中に差すころには、とうとう世界が、また暗く、遠くなってしまった。角が僕の頭の天蓋を突き破って、にょきにょきと延びていくのが感じられた。
 そして僕は、角の言いなりになった。
 ただ今回はちょっと状況が違った。これまでは僕は頭の隅に追いやられ、角が僕の身体を動かす様を見ているだけだった。関係ない者として、傍観している第三者だった。それが、どう角が回り込んだのか、僕の身体だけでなく、僕の意志すら角が操り始めたのだ。
 僕は、角のために考え、角のために身体を動かしていた。
 岡島ヲ殺セ。
 ウン、岡島ヲ殺ソウ。
 竿をいい加減に振りながら、岡島の後をついて歩く。背中を見つめ、どうやったらうまく殺せるかを考え続けていた。部長にもばれることなく、僕の仕業とも、もちろん知られずに。
 しばらく行くと、谷が急に細くなり、川は大きな石の間を落ちるように流れていた。そこを抜けるには、三メートルほどの岩壁に張り付いて、手探りで行かなければならなかった。
 そうだ。もし、またこんな所を通るなら、岡島の後頭部を殴って気絶させ、流れに落とせばいい。
 機会は、程なく訪れた。
 先程よりもさらに険しく切りたった崖の中ほどを、岩にへばりついて進む箇所があった。
 このまま僕が足を滑らせた振りをして岡島に飛び付き、殴る。一緒に流れに落ち、パニックに陥った僕が岡島にしがみついているように見せ掛けて、岡島を溺れさせる。
 よし。
 今だ。
 僕が右手を伸ばすのと同時に、先に行っていた部長が突然振り返った。
「おい、早く、早く。二人とも早く来なさい。凄いぞ、これは」
 不意撃ちを食らって、角がグラリと揺れた。
 仕方ない。次の機会まで待とう。
 崖を通り抜け、部長の指差す先を見ると、暗い淵の中ほどで、小さな水しぶきが上がっていた。
「君、君はまだ何も釣っていないんだから、君がやりなさい」
 部長に背中を押されて、淵の横に立った。部長が、ホウキのような毛が背中に付いたフライを手渡した。
 見よう見真似で、竿を振り始める。
「そう、そう、その調子」
 思ったほどには、フライは遠くに飛ばない。
「もうちょっと先だ。手首を使わないように投げなさい」
 今度はいくらか距離が延びたけれど、水しぶきの上がった所までは、まだ届かない。もう一度投げようとラインを引こうとして、部長に慌てて止められた。
「そのまま。そのまま」
 白いフライが、ラインに引かれて、暗い水面を滑るように進んでゆく。
 バシャッ!
 えっ?
 何が起きたのか判らなかった。竿がぐんぐん引っ張られる。しがみつくようにして、竿を握り締めた。リールがチーッと甲高い音を立て、逆転する。
 部長の声が、頭のどこかで響いている。無我夢中で、その声に従ってリールを巻いたり、手を放したりした。
 竿がぐんとしなって、水面から魚が飛びだした。暗い岩壁を背景に、白い魚体がくっきりと浮かび上がる。
 ようやく足元に寄って来たかと思うと、また淵の闇深くに逃げ込んだ。そんなことを何度か繰り返した末に、遂に魚は岸に横たわった。
 膝まづいて、魚をつかむ。
 あは、あは、あははは。
 自然に笑いが漏れた。
「おお、すごいなぁ。いい山女魚じゃないか」
 部長の声に、はっと我に帰った。
 こらえがたい気持の高まりが身体中に満ち溢れ、辺りを跳ね回りたいくらいだった。
 ふと、角が消えていることに気づいた。

 それから数か月後、また角が生えてきてしまった。
 ふと、思うところがあり、試しに釣りに出かけてみた。ひょっとして、あの時のように角が消えてくれはしないか、そう思ったのだ。
 はたして、魚がフライに食いつき、竿を震わせている瞬間に、角は消滅していた。私が竿と魚の間に溶け込み、頭の中から思考が飛び去る時、角も砕け散るのだった。
 以来、休みには、谷を攀じ、川を歩き、湖のほとりで竿を振るようになった。
 職場では、相変らず岡島の嫌味に耐えなければならなかったし、最近は妻の愚痴も増えた。やれ給料が少ないだ、もっと広い家に住みたいだと、愚痴を聞かない日はない。だから、あっと言う間に角が生え、ぐんぐん大きくなってしまう。
 けれど、もう、人は殺したくない。
 角の言いなりにはなりたくない。
 だから、また、出かける。

(初出 フライフィッシャー誌1999年4月号)

 

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