峠を登りきった所で、車を停め、切りたった崖から身を乗りだすようにして見下ろすと、その湖はある。周囲を低い山に囲まれ、少し歪んだハート型に暗く、蒼い水が広がっている。高校の校庭を二つ並べたほどの小さな湖だ。対岸の山から一本の川が注ぎ、湖を満たした水は、峠の見晴らし台の下で、細い滝となって狭い谷に溢れだしている。
 湖に行くには、峠をさらに少し下る。湖から流れだした川にかかる橋のたもとに、登山道があり、それを辿る。急峻な坂道を三十分も歩いて丘を越えると、ようやく水辺に出られる。
 湖には、浜辺がなく、水際まで深い木立が迫っている。岸沿いの木が、長く大きな枝を張り出し、水面に暗い影を作っている。
 登山道は、木立の間を縫って、湖を半周して流れ込みの川まで続いているが、そこから川に添って丘の上を目指して登り始めてしまう。だから登山道と反対側の湖岸には、全く道がなかった。
 欝蒼とした森から延びた大きな手のような枝が邪魔している上に、急に深くなっているので立ち込むこともできなず、しかも残りの半周は行くことすらできない。とても釣りづらい湖だった。それに車から三十分以上も山道を歩かなければならないのが災いして、魚がいるにもかかわらず、ここを訪れる釣り人はほとんどいなかった。
 ようやく辿り着いた水辺に立ち、ザックを降ろして、先ず顔を洗った。吹き出した汗が流されると、ひんやりした、夏の朝の空気が頬をなぜた。一休みした後でザックから、小さく折り畳んだフロートチューブを出す。そして足踏み式のポンプで空気を入れる。これなら、これがあれば、岸からでなく、湖に浮かんで逆に岸に向かって釣りをできる。道があろうがなかろうが関係なく、湖のどこにでも行ける。
 ネオプレーンのウェーダーを履いて、足ヒレを付け、チューブの中に立つ。そして後ろ向きにしずしずと水に入る。チューブを水面に置き、真ん中に腰を降ろす。お尻まで水に浸かりながら、水面に浮かぶ。なんとも奇妙な安定感。「トイレに座って釣りしてるみたいだ」そう言った友達がいるけれど、まさにそんな感じだ。
 ゆっくりと足踏みをするようにヒレを蹴って、後ろ向きに湖の中に漕ぎだした。
 登山道とは反対回りに、張り出した枝のさらに沖十メートルほどをライズを求めてゆるゆると滑って行く。
 時間的にちょっと遅いせいもあり、水面で餌を獲っている鱒はそれほど多くなかった。けれど、こことおぼしき所にフライを投げると、可愛らしい岩魚が出て挨拶をかえしてくれた。
 湖を三分の一ほど回ったろうか、ふと気づくと、辺りが異様に暗い。それまで、水面からの照り返しでちりちりとあぶられていた首筋が寒々とする。振り返ると、空一杯に真黒な雨雲が広がり、山の頂きはみな隠れていた。釣りに夢中になっていたので、全く気がつかなかった。すでに灰色の帳が対岸を被い隠し、それが見る見るうちにこちらに近づいてくる。低い、腹の底を揺さぶるような轟音が鳴り響いた。雷雨が来るらしい。
 何の障害物もない湖面に、カーボン製の竿を突き立てていたのでは、避雷針そのままだ。慌てて、近くの岸を目指して進む。
 せり出すように生い茂った草を掻き分け、ようやく岸に上がったところで、ばちばちと激しい音を立てて、大粒の雨が降り出した。白い光りが走り、しばらく間をおいてから、雷鳴が山々にこだました。随分と近い。家を出る時にあまり良い天気だったものだから、雨具も持っていない。太い木の下で雨宿りをしようか、ちょっと迷って辺りを見回すと、十メートルほど先に、岩肌の露になった斜面が見えた。いくらかオーバーハングしているらしく、下に潜り込めそうだ。竿や、金属類のガチャガチャ付いたフィッシングベストを木の根本に置いて、薮をこいで斜面まで辿り着いた。
 高さ五メートルあまりの一枚岩で、斜めに傾いでいる上に、地面から一メートルほどが深くえぐれ込んでいる。しゃがんで岩を背に座ると、身体がすっぽり入ってちょうど良い雨よけになった。
 湖面は雨を叩き付けられ、小さな水しぶきで真白に変わった。青白い光が一瞬辺りを明るく照らすのと同時に、ベキッと鋭い音が走り、直後に低い地鳴りが腹に響いた。雷がすぐ近くに落ちたようだ。当分、ここから出られそうにない。
 何気なく、横を見ると小さな水たまりがあり、そこから一条の水が流れ出ていた。澄んだたまりの底で、砂が上に下に踊っている。湧き水のようだ。誰かが置いたのだろうか、苔むした石が回りに敷かれ、水が溜まるようになっている。それとは別に、向こう側に一つ、こちら側に一つ、筆箱ほどの細長い石が寝かせてあった。手に取ってみると、これまで下になっていた面に、何か彫られているらしかった。土を手で払ってもよく判らないので、水たまりで洗ってみた。人の顔とも、文字ともとれるものが彫ってある。試しにもう一つの石も洗ってみると、似ているけれど、ちょっと違うものが現われた。何か、昔の人の信仰の名残りなのだろうか。
 元通りに戻しておこうかと思ったけれど、せっかく洗ったのをまた土に伏せるのは何となく気が引けたので、それぞれ彫り物が見えるように、水たまりの向こうとこっちに、岩に立てかけるように置いた。
 雨は、一向に止む気配がない。雷は、先程のように近くないとはいえ、まだ時折光っている。とても湖を渡って帰る気になどなれない。時計を見ると、ちょうど昼だった。デイパックからお握りを出して、頬張る。それを食べ終わったら、何もすることがなくなってしまった。腹が満たされたら、朝からの疲れが出たのか、眠くてならない。どうせ釣りにもならないから、昼寝をすることにした。抱え込んだ膝に顔を埋めて、目を閉じた。

 顔ははっきり見えないが、どうやら、男のようだった。年も若いのだか、老けているのか、判別しかねた。若いと思えば、そう見えたし、老人と思えば、そんな気もした。
 白く長い着物を纏っているのだが、せせらぎに映る雲のように、形を定めることなく、柔らかに揺れ続けている。黒く豊かな髪を頭の後ろで縛り、胸の前で両手を上向きに揃えている。その上では、紫色の水晶と思える珠が光っていた。
 足元にはもう一人、黒々とした衣に身を隠し、うずくまるようにして、じっとこちらを見ているものがいた。イモリのように這いつくばっている。あるいは異様に背が低いのかも知れなかった。目がはっきりと判るばかりで、あとの姿は芒洋として、あてどなく歪んだり霞んだりして、一向に捕えどころがなかった。
 そのうち、黒い衣がするすると延びて、私の方に向かってきた。それは衣というより、触れば手にこびり付いてしまいそうな、闇そのものだった。手で払いのけるのより早く、闇の触手が私の額に刺さった。そしてずんずん中に入ってくるのが判った。
 と、突然、太い男の声が頭の中で大きく響いた。
「わがなは、フカフチノミヅヤレハナノカミ。こちらにおわすは、クニノミクマリノカミなるぞ」
 二人の姿が、その声に合わせるかのように、ふわふわと宙を漂い始めた。もう目で実際に見ている姿なのか、それとも私の頭の中にあるものなのか、判らなくなってしまった。
「そもそも、あめつちはじめてひらけしとき、たかまのはらになりませるかみのなは、、、」
 朗々と、歌うかのごとく、さながらコーランのように、男の声が延びてゆく。よく聞いてみると、天地創造の物語だった。たくさんの神々が次々に現われては、絵巻物を繰り広げてゆく。ある神は火から生まれ、言葉を知らず、またある神は、美しい女を求めてはるばる遠国まで出向き、正妻に嫉妬される。神というより、喜怒哀楽に溢れた人間そのままの物語だ。
 長々と語られ続け、ようやく至った最後の幕で、目の前にいる二人の話が始まった。クニノミクマリノカミというのは、水の分岐点にいて、水の配分を司る神らしかった。フカフチノミヅヤレハナノカミは、クニノミクマリノカミの友達で、たまたま遊びに来ていたところを、地元の人に捕えられ、ここに一緒に祭られているということだった。はっきりとは言わなかったものの、どうやら、神様の格としては、クニノミクマリノカミの方が上で、フカフチノミヅヤレハナノカミは、彼の手足となって動いているようだ。
 物語が一段落し、男の歌が静かに消えてゆくのと同時に、それまで、浮かんでは消えしていた二人の神が、急に手を延ばせば届くほど近くに迫ってきた。二人はそれでも止ることなく、さらに向かってくる。あわやもう少しで私にぶつかるというところで、今度は垂直に空高く舞い上がった。見上げていると、これまでの謡うような調子とは違う、凛とした声があたりに降り注いだ。
「くさむし、すておかれしわれら、いま、ながきねむりより、めざめん。なんじは、えらばれし、はふりのたみなり」
 二人の姿は、どんどん遠くなり、ついに見えなくなった。

 自分がどこにいるのか、思い出すまで、しばらく時間がかかった。岩の下にもぐり込んで、膝を抱えた姿勢のまま、ぐっすりと眠ってしまったらしい。
 それにしても随分と変な夢を見たものだ。
目や耳は現実の世界に立ち戻っているのに、気分だけがまだ夢の残りを引きずって、居心地が悪くてならない。
 湧き水の横には、私が洗った小さな石が、眠る前と同じように立てかけてある。多分、この石のせいで、あんな変な夢を見たのだろう。あるいは普段と違う場所で、しかもおかしな格好で眠ったのもあるかもしれない。
 そんなことを考え、いま見た夢を思い出そうとしたけれど、ほとんど何も出てこない。二人の神様が出てきたのを覚えている程度で、あらかた忘れてしまっている。引きずっていた気分もどこかに綺麗さっぱり消えてしまった。いつものことながら、夢が指の間を擦り抜け、遠い忘却の世界に隠れてしまう素早さには感心させられる。
 雨はもうすっかりあがり、山の向こうに青空が広がり始めていた。一度、二度、低いくぐもった遠雷の響きが湖を渡った。
 梢から、枝から、葉から、無数の雫が滴り落ち、森の中はまだ騒がしい。湖面も、張り出した枝の下で、無数の波紋が広がっている。
 こんなに激しい雨のあとじゃ、魚も沈んだかな。
 岩の下からよっこらしょと起き上がり、岸辺まで薮を漕いで出る。木の根本に置いたフィッシングベストを着ながら、何気なく湖面に目をやっていると、雨垂れの波紋に混ざって、いきなり激しい水しぶきが上がった。
 おっ!
 注意して見ていると、そこからさほど遠くないところで、今度は、水面に魚体を横ざまに出して、餌を捕った奴がいた。
 いいサイズじゃん。
 慌てて、竿を手に、フロートチューブに乗り込んだ。一旦沖に出て、外側から狙った方がいい。岸から一四、五メートル離れたところで、向きを変えた。
 この季節に羽化があるとするなら、これだろうか。小さめのオリーブ色のカゲロウを模したフライを結び、いま、魚が跳ねたあたりに投げてみる。ドキドキしながら見守っていると、フライのすぐ横で、水しぶきが上がった。けれど、フライには何の反応もない。
 フライを羽化前の、ニンフに替え、ゆっくりリトリーブしてみる。
 だめ。
 なら、小魚か。
 だめ。
 フライをあれに替え、これを結びして、色々やってみるのだが、どうしても出てくれない。その間にも、あちらでドボリ、こちらでバシャリと、鱒達は盛んに何かを食べている。焦る。悔しい。腹が立つ。そして、それをどこかで楽しんでいる自分がいる。
 もちろんこれがこの釣りの面白さだとはいえ、釣れないより、釣れたほうがはるかに楽しい。
 一体何を食べているんだ。ちくしょう。
 ベストのポケットから、フライボックスを引っ張りだし、と見こう見するが、こうなるとどれも釣れそうな気がしない。何か、ヒントはないか。
 もう一度、魚が盛んに波紋を広げているあたりに目をやる。先程雨宿りをした岩が、薮のあいまからほんのちょっとだけ顔をのぞかせていた。
 こうなったら、神頼みしかないか。お願いですから、神様、釣らせてくださいな。
 そう祈ったそばから、また鱒が水しぶきを上げた。ふと、その2メートルほど横で、小さな波紋が広がっているのに気づいた。雨垂れのような一回限りの波紋でなく、微細な皺のような波が、尽きることなく湧きあがっている。その中心には、黒い消しゴムほどの固まりがあった。
 なんだ、ありゃ。
 じっと目を凝らす。黒消しゴムから数本の細いものが突き出し、むにょむにょ動いている。
 あっ、セミだ。
 途端に、大きな三角形の鼻先が水面に現われ、ぽこりという音と共に、セミを飲み込んだ。
 そうか、そうだったのか。
 そう思って、もう一度湖面をよく注意して見ると、同じようにひっくり返しに落ちているセミがあちらこちらにいた。さっきの雷雨に打たれて、ごっそりと落ちたようだ。
 こりゃ、いい御馳走だわな。
 早速、フライボックスをあさったけれど、セミそのもののフライはない。それで、形はともかく、とにかく大きさだけでも代用できそうなやつを選んで結んでみた。今までに使っていたフライでは、余りにも小さすぎて、鱒に訴えるものがなかったのじゃないか。そう考えてのことだ。
 さっき鼻先が突き出したあたりを狙って、いつもより強めに投げる。勢い余ったフライは、小さな水音を立てて湖面に落ちた。
 おいで、おいで。
 心の中でそう呟きながら、一心にフライを見つめる。
 と、黒い三角が突然現われ、フライが消えた。
 やった。
 竿を立てるのと同時に、銀色の砲弾が湖面から飛び出した。竿がのされ、ラインと一直線になる。慌てて、ラインを弛めながら、体勢を立て直す。鱒はまたぐんと竿を曲げて突っ込み、それからもう一度水面から高く宙に舞った。大きな水しぶきが湖面に飛び散る。鱒が走る度に、フロートチューブごと引きずられる。
 これじゃまるで「老人と海」じゃん。
 嬉しくてならない。
 やっぱり釣りはこうじゃなきゃ。
 ようやくのことで寄ってきた鱒は、五十センチは軽く越える、でっぷりとした虹鱒だった。小さな頭の後ろに、菱形の銀色に輝く魚体が続いている。
 ランディングネットに苦労して納め、鉤を外してやる。こんなに大きな鱒を釣ったのは、初めてだ。ネットに入れたまま写真を撮る。持っているところも撮れたらよかったのだが、一人で釣りをしているのだから、仕方ない。ネットから出してやると、鱒は暗い深みに消えていった。
 それからも、同じフライで、似たようなサイズの鱒を、三尾も釣ることができた。まるで夢のような時間だった。驟雨の後の、束の間の楽園だった。
 けれど、いいことは長続きしないの定め通り、三尾目をリリースした頃には、湖は落ち着きを取り戻し、波紋はどこを見渡してもなかった。セミも見当たらなかった。
 それでも夢よもう一度と、しつこくフライを投げ続けたのだが、やはり何も起こらなかった。仕方なく、もうこれは潮時だろうと、引き上げることにした。
 対岸の登山道に向かって、後ろ向きにゆっくりと湖を渡ってゆく。少しずつ小さくなる木立を見ながら、あそこの神様にお願いしたのがよかったのかな、そんならお礼を言わないとな、と思い、いたずら半分の軽い気持で、「どうも」と頭を下げた。

 急ぎの仕事が突然飛び込んできて、休みはおろか、平日も半分徹夜のような日が、二週間余りも続いた。釣りどころではない。やっとそれが一段落したと思ったら、今度は季節外れの台風が上陸した。雨台風で、数十年に一度の大雨が降り、近郊の川は、みな大増水の濁流と化した。私の住んでいる町はそれほどでもなかったものの、実家は床上まで水に浸かり、河川敷に停めてあった伯父の車は、泥流の下に埋もれてしまった。その後片付けやら掃除の手伝いに行ったりしているうちに、丸々一月も釣りに行けなかった。もっとも、時間があったところで、あれだけの大雨だったから、水量が多すぎたし、それにポイントもすっかり変わってしまって、釣りにならなかったろう。
 行き付けの釣具屋で仕入れた情報だと、川はしばらく駄目だということだった。なによりも最後に行った時のいい思いがどうしても忘れられなくて、また例の湖に出かけることにした。
 久しぶりに訪れた湖は、あたりの緑が一層深い色合いに沈み、季節の移ろいを感じさせた。もうしばらくすれば、暗さが向こうに突き抜けて、明るい赤や黄色の秋の彩りになる。いまは、そのちょうど境目だった。
 真っ直ぐに、この間のポイントに向かった。
 が、今回は、まるで駄目だった。大鱒はもちろんのこと、フライにいたずらをする可愛い岩魚すら出てこない。フライをあれこれ取り替えても、何の効果もなかった。竿を置き、水面をしばらく観察していたけれど、波紋も何も起きない。油を敷いたように、湖面は滑らかなまま眠り続けている。前回の大釣りがまるで嘘のようだ。
 折角ここまで来たのに、これはないよな。お願いだから、何か釣らせてよ。
 何の気なしに、そう呟いた。
 と、突然、梢がざわざわと鳴り、木立の合間から白い霧が湧きだした。そして、霧の中から、黒い闇に包まれた二つの目が光った。 あ、これ、前にも見たことがある。
 デジャブ感覚に襲われながら、はっと思い出した。
 夢の中の神様だ。
 黒い闇は、夢で見た時と同じように、細い触手をぐんぐんこちらに延ばしてきた。あっと言う間に湖を渡り、額に侵入してしまった。
 いきなり、頭をぐいと引っ張られた。フロートチューブがひっくり返るのではないかと思うほど、強い力だった。チューブごと、どんどん岸に吸い寄せられる。足ヒレにすごい水流を感じて、膝を曲げずにはいられなかった。
 岸に打ち上げられても、黒い触手の力は弱まることなく、頭をぐいぐい引っ張る。前のめりに半ば踊るような形で、薮を漕いだ。身体中ひっかき傷だらけになりながら、ようやく薮を抜けると、雨宿りをした岩の前に、どすんと放り出された。黒い触手が額から抜け、するすると戻っていった。
 目の前には、白い衣に身を纏った男と、黒い闇に包まれた男がいた。
 クニノミクマリノカミ。
 フカフチノミヅヤレハナノカミ。
 二つの名前がはっきりと頭に浮かんだ。なぜか、それがこの神様たちのことだとすぐに判った。
 どちらの神様も、この間夢で見たときと違って、険しい顔をして、睨み付けている。身体全身に怒りが溢れている。思わず、ひれ伏してしまった。
「そは、はふりのたみとして、えらばれしを、なんとおもうか」
 荒い男の声が頭を貫いて響いた。
「わがことばかり、のぞみをねがいて、よのこと、たみのことをおもわぬか。われらをことほぎせず、すておきし、そのつみ、ふかきこと、いかばかりなるか、しるがよい」
 クノミクマリノカミが胸の前に抱えている紫水晶の珠が、急にずんずんと大きくなり、視界一杯に広がった。薄紫色の壁が、目の前に立ちはだかったかとおもうと、急に前のめりになり、身体がふわりと浮いた。私は珠の中に飲み込まれていた。
 水晶の中には、もう一つの世界が広がっていた。私は、空高くに浮遊したまま、それを見下ろしていた。よく見れば、それは私の住む街のあたりだ。
 町外れを流れている川が、まっ茶色の濁流となり、普段の三倍くらいの幅で流れている。何台もの車が、浮きつ沈みつしながら、下流に押し流されていく。今にも堤防を越えて、川が街に暴れ込もうとしている。何十人もの人達が、土嚢を忙しく積み、少しでも堤を高くしようとしている。
 ああ、これはこの間の台風の風景だ。
「あめ、わざわいし、つち、わざわいす。このあらし、そがために、われらがよびよせしものなり」
 なんてこった。私が彼らへのお参りを怠ったから、それを罰するために、この間の台風を呼んだというのだろうか。
「もし、また、はふりせぬことあらば、みよ、おおあらしぞ」
 それまで眼下に見えていた街並が、雲に隠れるようにして見えなくなった。黒い、厚い雲だった。それが、さっと吹き抜けるようにしてなくなると、また、街並が現われた。さっきと同じように、川は濁流と化していたが、今度は、易々と堤を越え、街になだれこんだ。白く波だった流れが、凄まじい勢いで街を飲み込み、茶色の海に変えてゆく。家々が、何の抵抗もなく、ひしゃげ、潰れ、押し流されてゆく。慌てて屋根に登って避難した人が、家ごと濁流をかぶり、二度、三度、手を振って助けを求めたものの、そのまま姿が見えなくなった。材木につかまって流されていた子供が、材木もろとも橋の下に流され、それっきり出てこなかった。
 悲惨な光景が、次から次へと繰り広げられてゆく。
 ひどい。もし、私がまたお参りをさぼったら、今度はもっとひどい台風を呼ぶつもりらしい。
「よいか、こころして、はふりせよ」
 その声が終わるかどうかのうちに、ドンと額を押された。
 いつのまにか岩の前に、尻餅をついて座っていた。二人の姿はなく、岩も森もごく当たり前のものだった。
 横の水たまりには、例の筆箱石が、二つ立て掛けてある。
 元はと言えば、この石を洗ったのがいけないのだ。それで、そんなつもりはないのに、勝手に、「祝の民」なんかにされてしまったのだ。それなら、この石を元あったように、土に寝かせたらどうなるのだろう、と一瞬思った。ひょっとしたら、また神様は眠ってくれるかも知れない。けれど、それよりももっとひどい仕打ちをされそうな気がしたので、その考えは諦めた。
 仕方ない。毎週、ここに出向いてくるよりほかなさそうだ。それにしても、なんて了見の狭い、嫉妬深い神様たちなんだろう。
 そう溜息をつかずにはいられなかった。

(初出 フライフィッシャー誌1998年12月号)

 

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