陽は、もうすっかり真上だ。 時計を見ると、もう五時間も経っている。明け方に谷に入り、ほとんど休みもせずに釣り上がってきたのだ。 ちょっと一休みしよう。 デイパックを降ろして、中からストーブを取り出す。谷の水を汲んで、コーヒーをいれる。そして彼女が作ってくれたサンドイッチにかぶりついた。 流れは、目の前で細長い淵となっている。両岸とも切り立った岩壁だ。 サンドイッチを食べながらも、目はいつの間にか、ほの暗い淵の奥、崖下の流れに注がれ、ライズでもありはしないかと探している。我ながら、卑しいものだ。 淵の中ほどには、大岩が一つ、でんと座り、流れはそこで小さな渦を巻いている。 その渦の上流で、わずかだけれど、不自然な波が起きた様な気がした。ライズと呼ぶには定かでなく、流れのよれにしてはしっくりこない。そんな水面の揺れだった。口を動かすのを止めて、しばらく凝視する。 あっ。 今度のは、はっきりとライズだった。しかも、結構いいサイズの魚に違いない。緩やかな波が同心円上に、広がってゆく。 へっへっへ。いただき。 サンドイッチを慌てて口に押し込み、竿を掴んだ。フライを新しいものに結び替えて、流れの脇に立つ。が、なんとしたことか、ここからでは、位置が低くなってしまい、ちょうど大岩が邪魔してフライを投げられない。水際から、数メートル後ろに下がると、どうにかライズしたあたりが見える。けれど、今度は、背後の斜面から張り出した木が邪魔をする。流れを遡って、大岩のところまで行こうとしたが、ものの数歩も進まないうちに、深すぎて足が届かない。その間に、魚は、もう一度ライズした。しかも今度は、鼻先を水面から突き出し、ゆっくりと何かを吸い込むようにして食べた。 大きいですよ、これは。 なんとしてでも釣りたくなった。が、どう考えても、大岩に立って釣るより他に方法はなさそうだ。よく見ると、崖は、ほぼ垂直に切り立っているけれど、どうにか割れ目を伝って、下に降りられそうだ。幸い何かの時のためにと、細引も持ってきているから、これをザイル代わりに使えばいい。 まずリールを外して、ベストの後ろポケットに入れ、竿は袋にしまった。それから獣道のような踏み跡を登りだす。潅木につかまって、急な斜面を一歩ずつ進んでゆく。左右から飛び出した枝で歩き辛い。すぐに汗がどっと吹き出し、息が切れる。それで休み休み高度を稼いでゆく。ふと気づくと、さっきまで耳の中で鳴り響いていたせせらぎの音が、もう遠く下から聞こえてくるばかりだ。 この辺だろうと見当を付け、踏み跡から外れ、薮の中に突入した。立ち枯れした小枝が、幾層にも重なり、なかなか進めない。 ようやくのことで、崖っぷちに近づく。陽が木立を抜けて、顔に眩しい。数歩さらに進むと、急に足元に暗く長い淵が横たわった。予想がぴたりと当たって、大岩の真上だ。高さは大体十五メートル位あるだろうか。傾斜はかなりきついけれど、気を付けていけば大丈夫だろう。デイパックから、細引を取り出して、近くの木に結び付けた。ザイルのように太くはないので懸垂下降はできないが、バランスを失った時に掴める物があるだけで大分違う。手に持っていた竿をパックに縛り付けて、降り始めた。 思ったより崖はでこぼこしていて、手掛かり、足掛かりが沢山ある。簡単に下まで行けそうだ。 そう思って、次の足を置く所を見ようと、崖から身を離した時だ。体重をかけた左手の岩が、いきなりぼろりと剥がれた。バランスを失って、後ろ向きに倒れそうになる。 慌てて細引を掴もうとする。 が、その手が、空を切った。左足も離れ、右手と右足を中心に、身体がぐるりと外向きに反転した。対岸の崖が目の前にある。 右足が岩からずり落ちた。 右手に痛みが走る。 次の瞬間、両足に衝撃を受け、青い空が一杯に広がった。そしてその真青な空が、両側の木立に押されて、急激に狭くなっていく。 暗い谷の向こうに、雲が遠く輝いている。 何を、、、。 ここは、、、。 ゆっくりと意識が戻ってきた。 ああ、落ちちゃったんだ。 遥か上の崖から、赤い細引が一本垂れ下がっている。 あそこからやったのか。ひでぇな。 ゆっくりと身体を起こしてみる。どこも痛くない。怪我もしてないのだろうか。そのまま立ち上がった。ふと、後頭部に手をやる。ざっくり割れている。ひどい怪我だ。それにしちゃ、痛みがないなと振り返って驚いた。 大岩の上に、男が倒れている。こちらを睨んだ頭の後ろから、真っ赤な鮮血があとからあとから流れ出ている。 私だった。 慌てて、自分の手を見る。確かにそこにある。もう一度、岩の上の男を見る。目をかっと開けた顔は、どう見ても私だ。 自分の身体に目をやり、それからまた岩の上の男を頭の先から足の下まで見る。背中の下から、ひしゃげて折れた竿が顔を出している。着ている服も間違いなく自分のものだ。 一体、これはどうなっているんだ。 戸惑いながら、ふと足下に目を降ろして、自分の足が、岩に着いていないことに気づいた。三十センチほど、宙に浮かんでいるじゃないか。何が起こっているのか理解できぬうちに、それがさらに一メートルあまりするすると高く上がり、ゆっくりと後ろへ動き出した。そして今朝がた登ってきた渓筋を、段々スピードを加えながら、そのまま後ろ向きにさがり始めた。大岩の上の「自分」が、谷の淵が、瞬く間に遠退いてゆく。 速度はぐんぐん増し、やがて、木も、岩も、山も、一つ一つを判別できなくなり、いくつもの色が重なり合って、ただの光の束となった。目まぐるしく揺れ動く光の帯が、視界の端から湧き上がり、あとからあとから中心に吸い込まれてゆくばかりだ。 光の帯は次第に赤くなり、遂にあたり一面真っ赤な渦となった。渦の向こうに、赤い帯が次から次へと消えてゆく。始めは小さな点でしかなかった中心の闇が、次第に大きく口を開け、じわじわと渦全体を飲み込み、こちらに迫ってくる。赤い帯は、視界の隅に追いやられ、薄くなり、ついになくなった。 私は真暗闇の世界に放り出されてしまった。 何も見えない。 何も聞こえない。 何も考えられない。 何もない世界だった。 どれくらい時間が経ったか、それすら分からなかった。 うぉんうぉん。 最初に戻ってきたのは音だった。遠くで、唸るように低く響いている。それが朧気に頭の中で形を伴ってくるにつれ、今度は匂いが鼻をこじ開けて入ってきた。生臭い、吐き気を催すような、腐臭だった。その頃には唸り声は、もはや遠くではなく、あたり一面から聞こえてきた。時折甲高い叫び声のようなものが混ざっている。 ドン、と背中をこづかれた。 「おい、いい加減で起きろや」 その声に、いつの間にか目を閉じていたことに気づいた。はっとして、目を開ける。 ここは、どこなんだろう。 黒々と輝く雲が、低く空を覆っている。赤い岩肌の山に、無数の細長いものがきらきらと輝き、その上で何やら沢山の生き物が蠢いている。よく見ると、それは人だった。 「こっちだ。そっちじゃねぇ」 また、こづかれた。 振り返ると、見上げるばかりの大男が、目の前に立っていた。赤茶けた髪を振り乱し、太い眉毛と、血走った目が光っている。上半身裸で、腕も、首も、丸太のように太い。右手に大きな鉄棒を持ち、それを時折振り回している。肌が異様に赤く、油でも塗ったかのように、ぬめりと光っていた。 男の後ろで、何人かがよろよろと歩いている。皆、どこか怪我をしていた。両足とも膝から下のない女が、地面に二本の赤い血筋を延ばして、這い進んでいる。右手が奇妙に捩じ曲がった男が、額から脳味噌を垂らし、左右にふらふら揺れながら歩いている。 酷い。なんてこった。これじゃ、まるで地獄じゃないか、そう思って、愕然とした。 まさか、ひょっとして、ここは。 「そうとも、地獄さ」 大男が、薄い唇を開いてげらげら笑った。並びの悪いヤニ色の歯が丸見えになった。 どうやら、私は、事故で死んだ人間が来る地獄に送られてきたらしい。そして、この大男は、鬼というわけだ。鬼にこづかれるまま、他の人のあとについて歩き始めた。 ぞろぞろと列をなして歩く人達の先には、一本の川があった。真っ赤な流れだ。その脇では、別の鬼が人の名前を確かめては、流れに放り込んでいる。投げ込まれた人は、泳ごうとするのだけれど、もがけばもがくほど沈むようで、苦しみに歪んだ顔が、浮かんだり沈んだりしながら流れてゆく。 川は、数百メートル先で、大きな滝となり、深い闇の底に落ちている。 さっきの両膝から下のない女が、軽々と鬼に抱えられ、放り込まれた。くすんだ赤い飛沫が、流芯の向こうで上がる。一呼吸置いて水面に女の顔が浮かび上がった。手を振って助けを求めている。けれどすぐに沈み始め、水面を手でバシャバシャと叩いていたかと思ったら、ブワァと、叫びともなんともつかない声を最後に、赤い流れの下に消えていった。溺れたのだろうか。しかし、しばらくすると、また女の頭が浮かび上がってきた。ゴホゲホと苦しそうに咳こみながら、弱々しく手を振っている。そして、そのまま流れに揉まれて滝の向こうに落ちてゆく。か細い悲鳴が、轟音に混じって耳に届く。 と、その同じ悲鳴が、川の上流からも聞こえてきた。見ると、上流に百メートルほどの大きな滝があり、さっきの女が今まさに真っ逆様に落ちてくるところだった。川は下流が上流に繋がり、果てしなく循環しているらしかった。 低い地響きのような大音声をあげて、どす黒く赤い流れが女もろとも滝壷に落ちてゆく。悲鳴が轟音にかき消された。 随分長い間見ていたけれど、女は姿を現さない。さすがにあの滝壷に入ると、二度と浮かび上がってこられないのだろうか。血の流れに飲まれて、沈んでしまうに違いない。 しかし、もう諦めようかという頃、滝壷から大分離れた所に、女の頭がポコリと顔を出した。さっきよりも更に一層ひどく噎せ込んでいる。苦しさのあまり、目は堅くつぶられ、激しい咳のために、胃の内容物まで吐き出してしまっている。見ているだけで辛さが伝わってきて、こちらがへたり込みそうだ。咳と嘔吐の合間に、もう、ほとんど意味をなさない叫び声をあげながら、沈んでは浮かび、浮かんでは沈みして、流れてゆく。 そして、また、滝に落ちる。 なんて、こった。これが無限に続くのか。 非道い。一体、俺が何をしたってんだ。確かに人に誉められるようなことはしていない。けれど、地獄に落ちるようなこともした覚えがない。なのに、どうして、、、。 そう、逡巡していると、先ほどの鬼と同じくらい大きい、青い肌の鬼がずんずんと川に向かって歩いてきた。青鬼は、脇に、長さ十メートルあまり、太さが子供の胴ほどの鉄棒を抱えている。川の横に立ち、それをドンと置いた。鉄棒の先端には、青黒い縄が結ばれている。縄はやはり十メートルほどあるだろうか。縄の先には、鉤型をした錨のようなものが付いている。青鬼は、鉄棒をブンブンと音をさせて振り回し、錨を川に向かって放り投げた。錨は派手な音を立てた割りには沈むでもなく、赤い水面にぷかぷかと浮いている。錨と思ったのは、そうではなくて、浮きのようなものだったらしい。落ちたのは、やはり女のように先ほどから浮き沈みして流れていた男の目の前だった。男は、慌てて浮きを掴み、それにすがって息をつごうと、胸に抱え込んだ。 「よっしゃー」 突然、青鬼がそう叫んで、腰を落とした。そして両手で掴んでいた鉄棒をぐいと振り上げた。男の重みで鉄棒が弓なりに曲がる。 「うりゃぁ」 青鬼は、体を反らして鉄棒をさらに後ろに撥ね上げる。折れんばかりにしなった鉄棒が、ワンテンポ置いて一直線に伸びる。 浮きにつかまっていた男は、ずぼりと水面から引き抜かれ、赤い飛沫をあたりにとび散らしながら、大きな弧を描いて宙高く舞い上がった。 ちょうど男が頭上に来たあたりで、青鬼は鉄棒をくいっと捻るように素早く振り戻した。急に向きを変えて振られたので、それまで、やっとどうにかつかまっていた男の腕から、浮きがすぽりと抜けた。浮きは、うまい具合に青鬼の足元にふわりと落ちる。その間にも、男はさらに高く上がって遥かかなたに向かって飛んでゆく。行く先には、私が初めに見た赤い岩肌の山があった。無数の針が、白く光っている。この距離だから小さな針にしか見えないが、実際には人の背丈ほどもあるだろう。男が落ちるところをどうにも見ていられなくて、顔を背けた。 次の瞬間、どさりという音と共に、咽喉を割くような細く鋭い叫び声があたりに響いた。 青鬼はそれを聞くと、太く笑った。それから鉄棒をまた振り回し、浮きを流れに投じた。今度は、さっきの女の目の前に落ちた。 女は、一瞬躊躇した。もがきながら、苦しみながら、浮きを掴もうかと迷っている。掴んだら、針の山に飛ばされて、串刺しになる。けれど、口から、鼻から血が流れ込み、息のできない苦しさにはもう耐えられない。掴んでも地獄、掴まなくても地獄。どこにも救いはなかった。 女がとうとう意を決して手を延ばした瞬間、浮きが、流れに押されて女から遠ざかり始めた。青黒い縄の中程が流れを受けて浮きを引っ張るのだろう。一端水面を走り始めた浮きは、あっと言う間に女の手の届かないところに行ってしまった。女は、半ば恨めしそうな、けれどどこか安堵した表情を浮かべた。 「ちっ」 青鬼が舌打ちする。 「下手糞だなぁ。なんでぇ、全然駄目じゃねえきゃ」 死人を投げ込んでいた赤鬼が、小馬鹿にしたように笑う。 「おめぇのおかげで、あっちは随分仕事が暇だってぇじゃねぇかよ」 顎で針の山を指しながら、からかう。 ちくしょうと青鬼は吐き捨てるように言って、もう一度、浮きを投げた。けれど、今度もやはり女が掴む前に、浮きは流れを受けて水面を走ってしまった。更にもう一度、女に向かって浮きを投げたけれど、どうしても女が掴む前に、流れ去ってしまう。青鬼がいらいらしているのが後ろ姿でも分かる。四度目に、これまでより勢いを付けて投げた浮きは、一直線に女に向かって飛んでゆき、顔面を直撃してしまった。ぼこりと鈍い音をたてて、女の額が割れる。 くっくっくっ。赤鬼が鼻で笑った。 どぁっ。短い雄叫びとともに、青鬼が鉄棒で地面を叩いた。肩を揺らして荒い息をしている。しばらくして、また女に向かって浮きを投げた。浮きが水面に着くのと同時に、青黒い縄が、流れを受けて下流側に膨らむ。 それを見て、私はふと思った。 これって、フライフィッシングと全く一緒だな。ここで、上流側に縄をメンディングすればいいんだよな。 途端に、青鬼が振り返った。 「おお、なんでぇ、オメェ。なんか言いてぇのかよぉ」 え?私は思っただけでなく、口に出してしまったのだろうか。それとも、鬼は人の心が読めるのだろうか。 「おい、おめぇの事だよ」 青鬼が、ずんずんと歩いてきて、私の胸ぐらを掴んだ。 「言いてぇ事があるなら、言ってみろよ」 もの凄い形相が、間近に迫る。恐怖が股間を駆け抜ける。 こうなったら、どうにでもなれだ。 それで、メンディングのことを恐る恐る話してみた。 初めのうちは、今にも食いつきそうな眼で睨み付けていたのが、途中から、何か納得するものがあったのか、ふんふんと頷きながら、私の説明を真剣に聞き出した。 「それじゃ、何か。こう投げた後にだ、この縄を、こうやって、鉄棒で上流側に回せばいいんだな」 「あ、それじゃ、浮きが引っ張られちゃうんで、もう少し、優しく」 「難しいなぁ。ちょっと、おまえやってみせてくれや」 「いや、ちょっと、それは。いくらなんでもこんな大きい鉄棒、私の力じゃ無理です」 そんなやり取りの後で、青鬼が浮きをまた流れに投じた。最初こそ乱暴に引っ張るものだから、浮きが動いてしまったが、二度、三度とやるうちに、浮きを動かさず、青縄だけを上流にうまく移動できるようになった。 青鬼は、ちょうどまた流れてきた女に向かって、浮きを投げ入れた。そして、すぐに青縄を上流側に弛ませる。 女は、咳き込み、のたうちながら、悲壮な目つきで浮きを見ている。これまで、手を延ばす度に離れていった浮きが、今、また目の前にあるのだ。迷っている。それを青鬼が、じりじりしながら見守っている。しかし、それも一瞬だった。女が、ゆっくりと手を延ばすと、浮きにつかまった。そして、体重を預けるように、胸に抱え込んだ。 「よっしゃぁ」 「うりゃぁ」 女が、黒い空に舞った。ふと、目が合う。哀しみと絶望の入り混ざった中に、微かな怒りが光っていた。 とんでもないことをしてしまったと思った。 青鬼は、調子に乗って、これまでうまく捕まえられなかった人の前に、浮きを投げ込んでは、引き抜き、放り上げている。 よっしゃぁ。うりゃぁ。 よっしゃぁ。うりゃぁ。 一渡り、引き抜くと、またこちらに歩いてきた。 「おい。お前のお陰で随分と具合がいいぜ。なんか、礼をせんとかんな。何がいい。言ってみろ」 「それなら、お願いがございます。なんとか、また生き返らせていただけませんでしょうか」 「おいおい、そりゃ無理だ。俺は、ただの一介の鬼、そんな力はねぇ。それに、おめぇだって見たろ。頭がぐっちゃり潰れちまってさ」 駄目か。溜息が出る。 「ま、そう、気落ちすんな。これが俺にせめてできるこった」 そう言うと、私の頭を、ごちごちに堅い大きな手で、ぞろりとなぜた。 ふと、手をやってみると、さっきまでバックリと割れていた頭が、綺麗に治っている。 青鬼は、また川に戻ると、引き抜きを始めた。 がっくりしながら、その後ろ姿を見る。地獄で五体満足になってもなぁ。余計に辛いだけじゃないだろうか。 青鬼は、これまでに増して、精を入れて、投げちゃ引き抜きを繰り返している。そのお陰で、川のこちら側半分は、流れてくる者がほとんどいなくなった。しかし、鉄棒と青縄の長さを合わせても、どうしても、流芯より向こう側までは届かない。腕を一杯に延ばし、なんとか、遠くに投げようとしているが、それにも限度がある。 鉄棒にガイドを付けて、長い縄を通せばいいのに。 そう思ったのと同時に、青鬼が振り返り、ずんずんとこちらに歩いてきた。相変らず凄まじい形相だが、先ほどのような鬼気迫るものがない。 「おい、お前。今の、ちょっと教えろや」 またか。もうこうなったら、仕方ない。人非人と言われようが、他の死人に恨まれようが、行くところまで行ったれ。それで、事細かに、説明した。 「ちょっと、ここで、待っとれや」 一声残すと、青鬼は、ずんずんと歩いていってしまった。暫くして帰ってきた青鬼の手には、どこから持ってきたのか、何本かの太い針金と、一巻の青縄があった。 そして、私が教える通りに、鉄棒に針金でガイドを付け、そこに長い青縄を通した。そして鉄棒を片手に持つと、後ろにふりかぶり、うぉぅという掛け声と共に、勢いよく振り降ろした。ざんと風を切って、浮きが飛んでゆく。足元にあった青縄が全て出切ってしまった。はるかかなたで、赤い水面に飛沫が上がる。こんなこともあるかと、縄の端を鉄棒に結んでおいたのが、幸いした。 「うぉっふぉっふぉっふぉっ。こいつぁ、いい。こいつぁ、いいぜ」 青鬼の顔が、笑いで崩れた。 ああ、私は、また余計なことをしてしまったらしい。 後悔の念でがっくり首を落としていると、青鬼が、ドンと両手を肩に置いた。 「そんなに、けえりてぇか」 私のしょげた姿を、青鬼は、どうやら勘違いしたらしい。 「約束を二つ守れるなら、けえしてやるぜ」 またとない機会だ。もちろん、もちろんと頷いた。 青鬼は、二つの約束を手短に説明すると、私の両足を持って、振り回し始めた。そして、黒い雲に向かって、思いっきり投げ上げた。赤い川が、大滝が、針の山が、血の池が、ずんずん遠くなってゆく。何もかもが小さくなって、とうとう見えなくなったと思ったら、私は、暗い淵の大岩の上に立っていた。足元には、血まみれの「自分」が倒れている。青鬼の言葉が、蘇ってきた。 「いいか。おめぇをけえしてやれるけれど、決して生き返らせられる訳じゃねぇ。死んだままだ。だから死体を隠せ。それを見つかったら、お仕舞いだかんな。見つかったら、ここにけぇってくんだかんな。それから、これはお釈迦さんのご機嫌とりなんだが、骸に花を絶やすんじゃねぇぞ。骸を疎かにしたら、やっぱりここに戻らされる。この二つだ。いいな」 慌てて、斜面に穴を掘り、自分の死体を隠した。そして、近くの花を一本手折って、お供えとし、山を降りた。 「最近、あなたって、冷たい」 ある日、ベッドの中で、そう彼女に言われ、ぎくっとした。 「だって、週末にちっとも遊んでくれないんだもの」 ほっとすると同時に、心が痛んだ。 わかってくれ。こうして、一緒にいられるだけでも幸せというものなのだ。少しでも長く君と一緒にいたいから、だから、毎週出かけては、死体が見つからないように確認し、新しい花を飾っているのだ。 これからどうなるのか、自分でもわからない。けれど、なんとか、この世にいる時間を延ばしたい。そのために、この週末もまた、例の淵に出かける。 まだ、誰も、私が死んでいることに気づいていない。
(初出 フライフィッシャー誌1999年2月号)
|
「釣り師の言い訳」に戻る