ある晩、酒を呑みながら釣り雑誌をぱらぱらとめくっていた時である。小さな囲み記事に目がとまった。アメリカの魚類学者の研究についての紹介だった。その記事によると、ブラウントラウトが三十五センチ以上に育つためには、水棲昆虫がとてつもなく豊富でない限り、小魚を餌として取らなければならないらしい。
 ほう。これまで、ドライやニンフばかりで釣りをしてきたけれど、ストリーマーもやってみたほうがいいかもしれないな。
 さっそくパターンブックをあれこれ見て、自分なりのフライを巻いてみることにした。
 ルアーと違って、フライをふらふらと泳がせるのは難しい。それで、なるべく柔らかい素材を使ってよろよろ感を表現してみた。尻尾も胴体も頭もマラブーにして、しかもオリーブグリーンと茶色を適当に混ぜ、まだら模様になるようにした。頭の部分には重りを巻き込んだ。これで、ラインを引けば上向きに泳ぎ、止めれば頭から沈んでゆくはずだ。小刻みに動かせば、上下に悩ましく腰を振ってくれるに違いない。色と大きさを少しずつ変えたものを、幾つか巻いてみた。
 その週末に、さっそくいつもの川に出かけた。一つ大きな淵があるので、そこで試してみようと思ったのだ。
 まだ、明けきらぬ川原に立つと、準備ももどかしく淵を目指した。いつもなら竿を出すポイントも軽く端折り、真っ直ぐ川原を登ってゆく。きつい曲がりを抜け、淵尻が見えるところまで来て、足が止ってしまった。
 誰かいる。先行者だ。
 なんてこった。折角ここまで来て、先客がいるなんて。ぶつくさ言いながら、仕方なくもう結んであった小魚のフライをドライに替え、一つ下の瀬で時間を潰すことにした。
 ちらちらと様子を伺っていると、若い男で、どうやら全くの初心者らしい。むちゃくちゃに竿を振り回しているだけで、ラインは一向に飛んでいかない。それで、余計に力を入れるものだから、竿の振り方がひどくなり、なおのことラインが飛ばなくなる。完全に悪循環に陥っている。
 なんでまた、あんなど素人が、こんな奥のポイントにいるんだろう。早くどこかに行ってくれればいいのに。
 そう思いながら、瀬脇の小さな淀みにフライを落とした。フライは、水面からほんのちょっとだけ顔を出している岩のすぐ上流に着水し、岩ぎりぎりを舐めるように流れていく。岩の後ろのよれまで来ると、いつものサイズの可愛い鱒がフライに飛び付いた。一端は早い流れにのった鱒を、竿でうまくかわして手元に寄せる。光る魚体に薄青のパーマークが鮮やかな山女魚だった。
 鉤を外して流れにそっと戻してやり、ふと上流に顔を向けると、こちらを見ていた男と目があった。軽く会釈して、そのまま釣りを続ける。今度は少し上流に歩いて本流脇のよれを狙ってみる。が、残念ながらなんの反応もない。となると淵の下流にはもう他に狙えるようなポイントがなく、それで仕方なく淵尻へとゆっくり移動した。男は、それでも淵の中ほどから動こうとせず、相変らず竿を振り回している。
 淵が瀬に変わる直前の浅い流れで、しきりに小さな波紋が広がっている。その少し上流の水面に、そっとフライを置く。一投目で、ちび山女魚が飛び出てきた。
 鉤を外すと、飛沫を残して流れに消えていった。また、男がこちらを見ている。ちょっと、いい気分である。
 まぁ、ストリーマーは来週でもいいか。そう思い、追い越して上流に行ってもよいかと聞こうとした矢先に、男が口を開いた。
「あ、もし、よかったら、ここで釣ってください。僕、後ろで見てますから。」
 そう言いながら、男は水から上がり、川原を数歩さがった。
「いいんですか。どうも。じゃ、すみませんね。」
 若い割には、しっかりしたやつだ。折角譲ってくれたんだから、やらないのも損だ。それに、男のラインは、足元より遠くには飛んでいない。まだ釣りになるかも知れない。
 よし。まず、リーダーを外し、ティペットだけを四メートルほどラインに結んだ。それからフライを小魚パターンに替えた。ポイントに充分届くだけのラインをリールから引きずり出し、足元にたらす。淵の頭を目掛けて、フライを投げる。最後にわざと力を抜いて、ラインのすぐ横にフライを落とした。これで小魚は糸の抵抗もあまり受けず、頭から真っ直ぐ下に沈んでゆくはずだ。
 下流に大きくカーブしたラインが、流れに引かれてゆっくりと延びてゆく。ラインの先端が淵の中ほどに来たのを見計らって、左手で細かく、鋭くラインを手繰り寄せ始める。頭の中で、小魚が、上に下に踊りながら、よろよろと泳ぐ様を思い浮かべる。
 と、左手に重い感触が伝わるのと同時に、ラインの先端が流れの下に消えた。すぐに左手の力を緩めて、右手の竿を立てる。ラインが水面から持ち上がるよりも早く、水中に引き込まれてゆく。手のすぐ上から、竿がぐんにゃりと曲がり、それも魚の重さで引きずり倒されそうだ。一直線に延びた白いラインが、水に突き刺さったまま、淵の中を縦横に走り回る。リールからラインがどんどん出てゆく。魚は一向に姿を見せない。
 一端は対岸まで延びたラインが、今度はこちらに向かって走ってきた。急いでリールを巻くけれど、スピードが追い付かない。弛みを取りきれない。慌てて左手でラインを手繰り寄せる。
 もっと、もっと早くだ。もっと、もっと。 ふう、大丈夫。まだ、魚の重みはある。
 何度か、冷汗をかきながら、それでもラインを少しずつリールに巻き取っていった。
 ラインの先端が見えるかどうかの時に、ついに魚が水面近くに姿を現した。岩魚だ。でかい。団扇のような尾鰭だ。
 さすがに疲れたのか、走りのスピードが落ちている。重いだけの、鈍い引きだ。そろそろと御機嫌を伺いながら、岩魚を岸に寄せにかかった。うねうね身体をくねらせて抵抗するが、竿を曲げるだけで、ラインを引きだすだけの力はもうない。引きずられる様に寄ったところを、ランディングネットですくいあげた。
「うわぁ、でっかいすねぇ。」
 振り返ると、男がすぐ横に立っていた。感心し切った表情で、岩魚を見つめている。私とて、こんなに大きな岩魚を釣ったのは、これが生まれて始めだ。膝ががくがくと自分でもおかしいくらいに震えている。
 背中のポケットからカメラを取り出し、岩魚と竿を並べて写真を数枚撮った。あまり大きいので、尾鰭がネットからはみ出ている。それから男にカメラを渡し、シャッターを押してくれるよう頼んだ。ネットから岩魚を出し、両手で持とうとするが、ぬるぬるしてうまくいかない。水からちょっとだけ上げたところで、急いでシャッターを押してもらった。口の脇に深々と刺さった鉤を外し、水に戻してやる。疲れ切ってしまったのか、口を時折ぱくつかせるだけですぐには泳いでいこうとしなかった。
「かっこいいすねぇ。すげぇっすよ。いいすよ、いいっすよ。」
 男は、まるで自分が釣ったかのように興奮している。私も、まんざらではない。川原にどっかと腰を降ろしても、まだ心が高ぶったままだ。
「あ、すんません。僕、江原いいます。」
 男が突然改まって、挨拶をした。
「いや、僕、フライフィッシングって始めたばっかで、全然わかんないんすけど。でも、やっぱ、かっこいいすねぇ。」
 近くで見ると、随分と背の高い男だった。目がぎょろりとし、鼻も大きく、やたらと目立つ顔だちをしている。
「あのぉ、こんなこと、なんか突然で失礼やないか思うんですが、もし、よかったら、フライフィッシング、教えていただけませんか。」
 いつもなら、見知らぬ男からこんなことを言われたら、何かと理由を付けて逃げていただろう。人にものを教える様な柄じゃないし、第一とても面倒臭い。それが、あの大岩魚を釣ってしまったせいで、舞い上がっていたに違いない。二つ返事で引き受けてしまったのだ。
「ほんとにいいんすか。ありがとうございます。いやぁ、自分一人でやってるんすけど、全然わかんないんで困ってたんすよ。助かります。」
 江原がぺこりと頭を下げた。とりあえずキャスティングの初歩を教えれば、あとはどうにか自分でできるだろう。
「じゃ、まずキャスティングからいきますか。さっき見てたら、大分苦労してたみたいだから。持ち方だけど、、、。」
 そう言って、江原の持っている竿を見て驚いた。バンブーだ。急にとても嫌な気分になった。
 なんだ、こいつ。訳もわからんで、格好ばっかりに憧れて、いきなりこんな高そうな竿、買いやがって。金だけはあるってことか。
 やっかみ半分、心の中で舌打ちをした。
 バンブーを見ている私の目に気づいたのだろう。江原が竿を軽く振った。
「やっぱ、こんなボロボロの竹竿じゃ駄目すか。やっぱ、ちゃんとした奴、買わないと。いや、死んだ親父のがらくた、がちゃがちゃひっかき回してたら、こんなんが出てきたんで、ま、使えるやろ、そう思って使ってんですけど。やっぱ、あきませんか。」
「え、いや、そういうつもりじゃ。」
「そやけど、なんか、この竿、いくらやっても飛ばんし、もうガタ来てるんとちゃうかなぁ思って。」
「ちょっと、見せてくれる?」
 差し出された竿を手に取って、思わず目を見張ってしまった。雑誌でたまに名前をみかけるとても高名な竿だった。もちろんこれまで写真ばかりで、実物を見るのは始めてだ。手入れがしっかりされていたのだろう、新品そのままの状態といっていい。半世紀以上も前に作られたとは思えない。傷一つないガイドの両側で、真紅の糸が濡れたように深く輝いている。手の平に、きめの細かいコルクグリップがしっとりとなじむ。軽く振ってみると、バンブー特有のゆったりとしたテンポで、優しいカーブを描いて揺れた。
 溜息が出そうになる。
 リールも、竿に劣らぬ逸品の誉れ高いものだった。その銘品を江原はなにも知らずに使っているらしい。
 それにしても一体、江原の父親は、何者だったのだろう。余程の金持ちか、道楽者だったか。
「やっぱ、あきまへんか、その竿。」
「とんでもない。これ、すごい竿だよ。そんじょそこらじゃ手に入らない、目茶苦茶すごい竿なんだよ。」
 私は、持っているだけの知識を全部さらけだして、いかにこの竿が優れているか、得がたいものであるかを、江原に説明した。安月給のサラリーマンで、おまけに妻子持ちの私などには、買おうという考えさえ起きない高嶺の花であることも付け加えた。
 けれど江原は、私の話に、はぁと頷きながらもどこか納得していないようだった。
「そんなにいい竿なんすかねぇ。」
「そうだよ。ちょっと、振ってみてもいいかい。」
 今、ここで振らなかったら、もう二度とこんな竿を手にする機会はないだろう。
 リールからラインを出し、そっと、竿にのせてみる。ゆっくりとしたリズムで竿がしなり、ラインが宙にふわりと浮かぶ。力まず、急がず、アダージョで。
 ラインを遠くに飛ばすだけなら、グラファイトの方がもちろんいい。あれは、そのための「道具」なのだから。しかし、バンブーは、無機質な道具ではない。一つの格とした生き物なのだ。釣り人と、竿職人と、竿が、三位一体となって、初めてラインに命が吹き込まれる。
 ラインはゆるやかに伸び、淵の中ほどに小さな波紋を残して、音もなく着水した。
 しばらく、ただ、ラインの流れる様をぼんやりと眺めていた。
「いやぁ、やっぱりうまい人が投げると、飛ぶもんなんすね。」
 江原の声に、我に帰った。
「もし、あれだったら、私の竿でやってみますか。」
「え、いいんすか。じゃ、ちょっと。」
 江原が、朝見たのと同じように、力任せに竿を振り始めた。ただ、バンブーと違って、今度は反発速度の早いグラファイトなので、それでもある程度は飛んでいる。
「うわぁ、投げやすいなぁ。やっぱ、新しい竿はいいなぁ。それに軽いや。」
 どうやら江原は、私の安竿が気に入ってしまったようだ。
 その日は一日、お互いの竿を交換したまま、江原にキャスティングのレッスンをしながら、一緒に釣り上がった。昼を過ぎた頃には、ある程度投げられるようになり、夕方前に遂にめでたく初めての一尾を釣り上げることもできた。すごく嬉しそうに笑ったのが、印象的だった。
「ほんま、今日はありがとうございます。おかげで、なんか、やっと釣りらしくなってきました。」
 林道を戻りながら、江原が丁寧に礼を言った。
「とんでもない。こっちこそ、こんなすごい竿を使わせてもらって、いい体験をさせてもらいました。」
「あの、こんなこと、言うの、なんかあれなんすけど、また教えてもらえませんやろか。来週、またここに来られますか。」
「ええ、まぁ、いいけど。」
「ほんまですか。嬉しいですわ。いや、そのお礼ちゅうたらなんですけど、そんな竿でよかったら持って行ってください。」
 自分の耳を疑った。
「いや、なんか、僕みたいなんが持ってても、いいんだかなんだかちっともわかりませんし、それにラインもぜんぜん飛んでかんし。」
「でも、それじゃ、、。」
 躊躇していると、江原が付け加えた。
「そのかわりって言ったらなんですけど、この竿、貸しといて貰えませんやろか。この次来た時には、必ずお返ししますんで。」
「とんでもない。そんな竿でよかったら、どうぞ、差し上げますよ。」
「え、ほんま、いいんですか。」
 江原の大きい眼が、一周り大きくなって輝いた。そして嬉しそうに、二度、三度、竿をびゅんびゅんと音がするほど早く振った。けれど、嬉しかったのは、江原よりも私だった。大岩魚を釣った上に、こんなとんでもない竿まで手に入れてしまったのだ。とても現実の出来事とは思えなかった。
 翌週、約束どおり同じ淵に出かけると、江原はもう竿を振っていた。私の安竿だ。私は江原に貰ったバンブーを持っていった。一日、また同じようにあれこれ教えながら、釣り登った。勘がいいのか、江原は教えられたことをすぐに覚え、ぐんぐんと上達していった。
 次の週も、その次の週も、請われるままに同じ川に出かけ、江原に釣りを教えた。
 その翌週末も、江原にフライフィッシングを教えることになっていた。けれど、金曜日に、仕事の上で大ポカをやったおかげで、週末も出勤しなくてはならなくなってしまった。江原に連絡をと思ったのだが、電話番号も住所も聞いていないことに気づいた。どの辺に住んでいるのかも知らない。どうにもならない。もし必要なら、江原の方から何か言ってくるだろう。そう思って、うっちゃっておくことにした。
 土曜日に出社し、誰もいないオフィスで見積やら何やらを一からやり直し始めた。が、途中で、ふと何も全部やり直さずとも、一部を変えてコンピュターに入力すればいいはずと気づいて、やってみると、思いのほか簡単に進み、土曜日一日で済んでしまった。
 そうなると、釣りの虫がまたぞろ騒ぎだす。日曜日はいつも家族サービスの日と決めてあるのだが、妻に頼んで、夕マズメだけ行かせてもらうことにした。いつもの川とは反対方向にある、もう少し近場の川に出かけた。このところ同じ川ばかりだったので、違う川で釣るのは、新鮮で面白かった。ライズもそこそこあり、それに何よりも、あのバンブーで魚と遊べることが嬉しかった。
 その夜、ベッドに入ってから、釣りに行かさせてくれた礼を妻に言った。面と向かって言うのは照れ臭いが、暗くて顔が見えなければそれほどでもない。
「いいのよ、それくらい。だって、お休みなのに土曜日もお仕事をしたんだし。」
 妻は、軽くキスをしてくれた。それが、段々エスカレートして、いつしか、いつものことへと進展していった。だが、どうしたことか、私の身体が全く反応しないのだ。まるで、駄目なのだ。二人で、あれこれ努力し、色々やってみたのだが、なんともならない。
「多分、お仕事や何かで疲れてるのよ。」
 妻はそう慰めてくれたが、私はうろたえてしまった。今まで、一度だって、こんなことはなかった。そりゃ、いつかはくることだけれど、まだそんな歳じゃない。四〇にもなっていやしないんだ。仕事や家庭で悩みがあるわけじゃなし。なぜなんだ。
 いや、たまたま何かの拍子で今晩は駄目だったのだろう。あまり考え込むと、それが原因で本物になることもあるらしいじゃないか。忘れてしまえ。
 すがるようにそう思い、まずは眠ってしまうことにした。
 けれど、その晩だけの事故ではなかった。数日後、また機会があったのだが、同じようにうんともすんとも言わない。湧き上がるものも、漲ってくるものもない。
 そして、その数日後に訪れた三度目も、しおれたままに終わった。ショックと絶望の暗い気持に打ちひしがれてしまった。妻の慰めの言葉が逆に心に突き刺さる。
 一週間経っても、事態はなんの変化もなかった。いや、悪くなりさえした。昼間、会社で忙しく働いていても、ふとした心の隙間に、あのことが入り込み、暗澹たる気持になぎ倒されて、何もできなくなる。人と会って話すことが億劫になり、家に帰っても、酒ばかり呑むようになった。素面のままでベッドに入れなくなった。
 妻とも色々話し合った結果、まずは医者に診てもらうことにした。このままでは、どうしようもない。
 同じ街の病院に行くのは、気がすすまなかったので、わざわざ車で三時間ほど離れた病院まで出かけた。血液やら、尿やら、あれこれ採取し、医師の細かい質問にも正直に答えた。もう、藁にもすがりたい気持だった。
 数日後に検査の結果を聞きに行くと、どこも異常はなく、心因性のものではないだろうかということだった。精神科のカウンセリングを受けることを勧められると同時に、効くという話題の薬の処方戔も書いてくれた。
 カウンセリングには、私だけでなく妻も一緒に行き、これまでに誰にも言ったことのない小さい頃の体験やら、全てをぶちまけて話した。そして、心が晴れ晴れした後で、例の薬を飲んでみた。
 が、何も変わらなかった。
 気持だけが上滑りし、空回りするばかりで、身体は、かたくなに無関心のままだった。
 そして、その晩から、眠れなくなった。
 会社に行っても頭がぼうっとし、仕事が手に付かない。人の話を聞いていても、どこか遠くで起こっている出来事のようで、身が入らない。会社の連中も、私の身体の異変に気づいているように思えてならなかった。八方塞がりで、衰弱していくのが、自分でもわかった。妻もかなり疲れているようだった。
 しばらく経ったある朝、会社に行こうとする私を、妻が引き止めた。
「ねぇ、あなた。気分転換に釣りにでも行ったら?少しは気が晴れるんじゃない。最近ちっとも行ってないんだし。」
 そう言われてみれば、もう一月余りも川に出かけていない。
「一日くらい、休んでもいいんじゃない。」
 その言葉に励まされて、久しく行っていない大岩魚の淵に出かけることにした。会社には、風邪をひいたことにした。
 しばらくぶりで川原に立つと、瀬の音が耳に心地好い。木陰に腰を降ろして、釣りの準備をするうちに、身体の芯から疲れが溶けて溢れだし、いつの間にか横になってぐっすり眠り込んでしまった。
 目が覚めると、陽はもうすっかり傾いている。随分長い間、こんなふうに気持ち良く眠っていなかった気がする。
 起き上がった私は、夕マズメには早かったけれど、ぽつぽつあるライズで遊ぶことにした。
 小さめの黒いフライを結び、バンブーを振り始める。滑らかな曲線を描いてラインが伸び、フライとほぼ同時に、水面に静かに落ちた。ライズの上流、五十センチだ。
 よし、これならいいぞと思った矢先、背後から灰色の大きな物が飛んできて、川面でどぼんと派手な音を立てた。石だと気づくのに、ちょっと時間がかかった。
 振り返ると、江原がそこにいた。
「なんや、今ごろ来おって。ずっと待っとったんやぞ。」
 一抱えもあるような石を、真っ赤な顔をした江原が、もう一つ投げ込んだ。水しぶきが飛んできた。
「ここに来て、釣り、教えてくれる、言うたやんか。あれ、嘘やったんか。」
 すごい江原の剣幕に押されて、なにも言えない。それでも、しどろもどろで言い訳をすると、また一喝されてしまった。
「知ってんねんで。あの日、別の川に行って釣りしとったん。そんなに、わしに釣り教えるのん嫌か。」
 そう言うと、江原は右手をぐいと突き出した。手の平に、薄緑色の半透明の玉が乗っている。手が動く度に、表面が細かく揺れ、震えている。
「そやから、これ、預からせてもろたわ。」
「それ、一体、、?」
「なんじゃ、知っとうくせに。尻小玉じゃ。これ、なくて困ってんやろ。これ、なかったら、男になれんわ。それは、おまえが一番よう解っとうはずじゃ。返して欲しかったら、約束守れや、な。」
 尻小玉?確か、あれは、河童が引き抜くんじゃなかったろうか。しかし、目玉をぎょろつかせ、赤ら顔に大きな鼻の江原は、河童というより、、、。
 ん?
 こいつ。
 だとしたら、、。
 私は、江原に丁寧に詫びを言って、それから暗くなるまで、江原のすぐ横に立って、ポイントの見方からライン操作まで、丁寧すぎるほど丁寧に細かく教えた。その甲斐あってか、江原はすっかり機嫌を直してくれた。
「また、来週も、教えてくれや。尻小玉はもう返しといたで。」
 そう言うと、江原は、暗くなった山の奥にすたすたと歩いて消えてしまった。
 その夜、家に辿り着く前から、身体の内側から力が湧いてくるのがわかった。奥底で激しく生命が燃えているのだ。苦しいくらいだった。
 以来、悩みは消えた。妻も喜んでいるし、仕事もまたできるようになった。
 江原は、大分うまくなったとは言え、まだまだ初心者だ。彼もそれをよく知っている。だから江原の腕が上がり、私から学ぶことがなくなる時まで、川でのレッスンは続く。
 あと三年か、四年か。
 大事な尻小玉のためだ。仕方あるまい。

(初出 フライフィッシャー誌1999年1月号)

 

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