実は、私は秘密諜報部員だ。
 そう言いだしても誰も信じてはくれまい。それくらい、目立たない生活を送っている。けれど、それでこそ真の諜報部員と言えるのだ。007のような派手なスパイは、映画の中だけのもの。ごく普通の一般市民になり切ってこそ秘密裏に諜報活動ができる。もちろん妻も子も、私の正体を知らない。いつどこで秘密が漏れるかわからないから。知らなければ、情報が漏れようもない。
 表向きの私は、市役所に勤める公務員だ。日のあまり当たらない、市史編纂室に回されているおとなしい中年サラリーマンだ。あまり有能でも、また無能でも、人の注目を集めてしまう。そこそこはできるけれど、あまりパッとしない。それが私の隠れ蓑だ。
 諜報活動と言っても、私が担当しているのは、政府公安室の中でも実際地味な部分で、あちこち歩き回っては地道に情報を拾い集めてくるだけだ。市史編纂のために土地の古老から話を聞きに行くという名目で、勤務時間中に外を歩き回れるのが好都合だ。おかげで普段の勤務中にほとんどの諜報活動を済ませるようにしているので、休みの日はもっぱら家族サービスか、好きな釣りに出かけている。諜報部員だって、趣味くらいは持っている。もちろん、決して入れ込んではいない。いや、いけないのだ。なぜなら、何か一つのものにとっぷりは入り込んでしまえば、人間どこで弱みを握られるか分かったものではないから。お付き合い程度に、いつ辞めても惜しくない程度にたしなむだけ。だから、妻も喜んで送りだしてくれる。
 久しぶりに出かけた川は、秋の気配で一杯だった。山の頂から麓まで、赤や黄色、色とりどりに染まっている。この間この川に来たのは、もう一ヶ月も前のこと。まだまだ暑さが残っている時分だった。
 ウェーダーを履いて河原に立つと、日差しが背中に温かい。竿にラインを通し、フライを選ぶ。しばらく川面を見ていたけれど、水面に羽虫も流れていず、魚も波紋を残さない。まずは、ニンフを静めて様子を見ることになりそうだ。
 とりあえず、野兎の毛でモジャモジャに巻いた、ヘアズイヤーを結ぶ。フライから五十センチほどのところに、小さい赤い毛糸を目印に付けた。これが変な動きをしたり、引き込まれたら、魚がフライを食った証拠だ。
 バスケットボール大の石が転がる河原を、水が浅い瀬を作って縒れながら流れている。
 幅は十メートルもないだろう。小さな、忘れ去られたような川だ。
 流れの中に足を踏み入れると、水圧でふくらはぎ辺りが、きゅうっと絞まる。それがなんとも心地よい。対岸にある黒ずんだ古い護岸の下がえぐれていて、ちょうど良い魚の隠れ家になっている。流れを三分の一ほど渡り、リールからラインを出す。二度、三度、竿を前後に振って狙いを付け、フライを投げる。目印とフライが一直線になると、せっかく対岸ぎりぎりに落ちたフライが手前に引きずられて、えぐれの下には入り込まない。力を抜いて投げれば、目印とフライの両方が同じ流れに落ち、そのままフライはすっと護岸の下に吸い込まれる寸法だ。
 もっともこれはあくまでも目論見で、そうそううまくその通りに投げられる訳ではない。月に一度行けるかどうかのサラリーマン釣り人は、とにかく頭でっかちなのだ。
 何度か投げ直した後で、ようやく狙ったポイントに目印が落ち、そのすぐ横にフライの波紋が広がった。頭の中でフライが真っ直ぐに沈む様子を思い浮かべながら、目印を注視する。手前の流れに乗って下流に引きずられたラインをそっと竿であおって持ち上げ、上流側に投げ直す。空を反射させて銀色に輝く水面を、赤い毛糸が滑るように流れていく。
 もう一度ラインを上流側に投げようとした時だった。毛糸が一瞬、真横にほんの僅か動いたのだ。
 おっ。
 すかさず竿を上げると、目印が水中に消え、小さいけれど堅い手ごたえが伝わってくる。細く柔らかい竿先がその度に頷いて返事をする。
 流れの中から顔を出したのは、二十センチあるかないかの、かわいい山女魚だった。今にも切れそうな位細い糸を頼りに、ゆっくり魚を寄せてくる。何度か流れに乗って下流に走られながらも、どうにか手網に入れることができた。
 魚をなるべく傷つけぬよう、鉤を素早く外し、流れに戻してやった。河原に戻って、鉤を確かめ、次のポイントに足を進める。
 一日かけて、こんな調子でのんびりと上流の堰堤下の溜まりまで釣り上がった。夕方まで、まだしばらく時間がある。このままここで待って、夕マズメもやっていこうかどうしようか迷った。けれど、家で待っている妻や子供のことを考えて、車に向かって林道を歩き始めた。家庭不和は、ただでさえ心理的ストレスの多い諜報部員にとって、一番避けたいものだ。遊びもいいが、あくまでもほどほどに。本業に差し支えるようでは、本末転倒も甚だしい。
 それからしばらくして、暮れも押し迫ったある日、職場から自転車で帰ってくると、一枚の葉書が届いていた。”大学時代の友人”の”深谷”から送られてきたもので、近況報告の最後に、「娘の美和も随分と大きくなり、今では、私ともう同じ背丈です」とあった。
 一見当たり前の、どうと言うことのない葉書だが、これが本部からの指令を伝えるものなのだ。この最後の一文を解読すると、十六文字からなるパスワードになる。これをさらにインターネットでとあるページに接続した上で掲示板に書き込むと、メッセージが三十秒間だけ表示される仕組みになっている。時間が過ぎるとこのメッセージは、二度と出てこない。
 メッセージは、伝令役の人間と会う場所と時間が書かれていることが多い。今回もそうだった。
 待ち合わせ場所には、真っ直ぐ行かず、たいがい電車、バス、タクシーなどの交通機関を乗り継ぎ、尾行されていないか確認する。それもただ無闇に乗り継ぐと、私は怪しい者でございと触れ回るようなものだから、それぞれ行った先でちょこちょこ買い物や食事をして、不自然でないようにする。半日かけて、ようやく指定の場所についた。
 いつもなら、簡単に連絡、こちらからの報告で済むところが、今回は少し違っていた。そのままタクシーに乗せられ郊外に出た。しかも途中で目隠しをされた上にサングラスをかけさせられ、さらに耳にはイヤホーンを入れられた。どこに行くのか私に知られないためだ。あるいは、ひょっとして敵側の罠に嵌められ、拉致されるのかという疑問も頭をかすめた。しかし、これと言って重要な情報も持っておらず、さしたるポストにいるわけでもないから、それはないだろうと自分に言い聞かせるしかなかった。イヤホーンから流れてくるのが、昔懐かしい荒井由美だったことで、少し気が紛れた。
 四十分も右に曲がり左に折れして走ったろうか、ようやくタクシーは停り、ドアの開く音がした。腕を抱えられ、車から降ろされる。両側からがっしりと腕を握られたまま、前に進む。
「階段です。下に降ります」
 男が、イヤホーンの上からそう囁いた。
 いつもの連絡係の男の声とも、タクシーの運転手とも違う、低いかすれた声だった。
 用心しながら足を探るように踏み出す。数段降りたところで、また右から声がした。
「踊り場です」
 かすれた声の向こうには、あまり感情が感じ取れなかった。しかし、よく気がつくこと、そして随分と手慣れている事は確かだった。
 かすれ声に細かく指示されながら、階段を降り、廊下を抜け、しばらく歩いたところで、ようやく止まるように言われた。辺りに人の動く気配がして、そこでイヤホーンと目隠しを外された。
「すまなかったな。分かると思うが、ここがどこなのか誰にも知られたくないのでね」
 そこは、薄暗い、コンクリートが剥き出しの部屋だった。男が二人いた。一人は部長だ。彼と会うのはこの仕事をするようになって以来二度目だ。地味なスーツに紺のネクタイをして、さえない中小企業の部長そのものに見える。貫録、威厳、緊張感、そう言ったものを、全て綺麗に消し去っている。見事と言うよりない。もう一人は初めて目にする男だった。
「まあ、かけたまえ」
 勧められるままに、椅子に座った。
「実は、ちょっと込み入った仕事を頼まなければならなくなってね」
 部長は部屋の隅から折畳みの椅子を出すと、私の前に引き出して自らも腰を下ろした。男は立ったまま、こちらをじっと見ている。
「ある男を探し出して欲しいんだ」
 部長は男から封筒を受け取ると、それをそのまま私によこした。中には小さな写真が入っていた。目と眉毛のはっきりとした、色の濃い男が写っている。
「ある国立大学の理学部のアブレ研究員でね。博士号は取ったものの、就職先が見つからず研究室に残ったクチだ」
 話を聞きながら、写真の男の顔を見据え、特徴を分析、分類し頭の中にしまいこんだ。漠然と見ていたのでは覚えられるものではない。
 写真を返すと、男が部長から受け取り、その場で燃やしてしまった。
「小人閑居して何とやらでね、研究室にあるコンピュータを使って色々とやったらしいんだ。初めのうちは自分の大学の大型コンピュータに忍び込んだりしていたのが病みつきになってね。それで、そのうち一般企業のコンピュータにも悪戯するようになった。いわゆるハッカーだ。もっとも、悪戯と言っても銀行の口座をどうにかするような警察沙汰は全く起こしていない。銀行のコンピュータにもちゃんと潜り込んでいるんだけどね。とにかく、一部の隙もないとされているシステムのどこかに穴を見つけ、入り込めればそれで満足していたようだ。自分の専門分野じゃ大した成果も挙げられなかった代わりに、こっちの方ではかなりの腕前だった」
 脇の男が別の封筒を取り出すと、直接私に渡した。中には、私が探すべき男の住所、氏名、年齢、家族構成、交際していた彼女など、全てのデータが詳細に記されていた。それを注意深く読みながら、一つ一つ頭の引き出しに入れていく。
 名前、津田篤。カチャン。
 身長、一八一センチ。カチャン。
 体重、七二kg。カチャン。
 読み終わって書類を返すと、やはり先程のように男は手際よく燃やしてしまった。

 タクシーから降ろされ、目隠しを取ると、そこは私が住んでいるところから三十分ほど離れた郊外だった。通りを歩いていると、程なくバス停があったので、ちょうど来たバスに乗った。
 部長から聞かされた話をもう一度繰り返す。
 男は、日本の会社のみならず、アメリカの大会社のコンピュータにもハックするようになった。あまりにも手際がよく、しかも、データもソフトも何もいじらないので、誰もハックされていることに気づかない有り様だった。名だたる大会社の、厳重にハッカーから防御されているはずのコンピュータですら、彼には全てを許した。
 より困難な目標を求めて、彼が次に狙ったのはFBIだった。さすかに簡単にとは行かなかったものの、それでもどうにかハックすることに成功した。そして、とうとうCIAにまで手を出し、なんと言うことか、ここでもうまうまと忍び込んでしまったのだ。
 万全のコンピュータとは言え、人間が作ったものである以上、どこかに欠点がある。それを見つけるのは、理論的思考もさることながら、直感的な部分によることが大きい。彼はそこに隠された才能、それも飛びきり切れるやつを持っていたらしい。
 けれど、どんなに才能豊かでも、優れた腕の持ち主でも、ミスが犯すものだ。彼はこともあろうか、CIAでそれをやってしまった。もと来た道を引き返す際に、ファイルの保存の手続きをうっかり一つ間違えた。それがもとで、今までの所業がばれることとなったのだ。
 CIAとしては、何としても彼を早く捕らえ、侵入防御ソフトの欠点を書き直さねばならない。できるなら彼の存在そのものが他国に知られる前に、対処しなければならないのだ。しかし、K国の情報網がいち早く彼のことを嗅ぎつけてしまったらしい。もうちょっとでK国に拉致されるところを、彼は辛くも逃げ出し、どこかに身を隠してしまった。そして、その彼を私の住んでいるこの町で見かけたという情報が流れたらしい。
 私の任務は、彼を捕らえ、潜入経路の情報を得ること。
 世界情勢が以前の二大国間の抗争でない現在、あたかも全てが友好裏に進んでいるように見える。しかし決してそうではない。敵、味方という単純な二元論では律しきれない渾沌というのが実態である。つまりそれが誰であれ、相手の欲しいものを所有している国が、関係を有利に運べるのだ。資源然り、情報然りである。だから、我が国としても、CIAに自由に忍び込めるノウハウは、実際に使うというより、これを米国に渡すことを条件に、関係交渉をうまく展開できる価値が大きい。もっともそれにはまず何より、誰よりも早くこの情報を手に入れなければならない。二番手、三番手では全く意味がないのだ。特に米国が手に入れてしまったあとでは、一文の価値もない。
 まず、津田の学歴から、小学校、中学校、高校、大学の同窓会名簿を手に入れ、誰かがこの町に住んでいないかを探した。残念ながら、というより予想通り、この町に知り合いはいなかった。もし、誰にも見つかりたくなければ、知り合いの住んでいる町は避けるだろう。もう一度頭に叩き込んだ資料を元に、私が津田ならどうするだろうと考える。
 たかが大学研究室のアブレ研究員だ。貰える給料など雀の涙だ。一人暮らしだったとは言え、貯金がそうそうある訳もない。失踪からもう二ヶ月が過ぎている。あちこち転々としながら暮らすには、いかんせん金が必要だ。働くよりあるまい。バイト、バイトだ。
 コンビニの店員のように、不特定多数の人間と顔を合わせる様な商売は選ばないだろう。あまり表に出ることはなく、それでいてある程度貰いのいいものだ。できればれっきとした履歴書などなくてもいい仕事。
 昭和三十三年、十一月二十五日生まれ。私より一つ上の四十歳か。雇ってくれるところも限られてくるだろう。
 この二ヶ月間に出たバイト情報誌を図書館で漁り、該当しそうな仕事を書き出してみた。これだけでも結構な数になる。それに、口コミで入ってくる仕事を考えに入れたら、とんでもない数になるだろう。だからと言って、何もしない訳には行かない。片っ端から、電話をかけて探りを入れてみる。
「あ、もしもし、大黒レストランですか。あの、そちらの厨房で働いている、えぇっと、名前なんってったけかなぁ、ほら、こう、ひょろひょろと背が高くて、くりくりっとした眼の。四十歳くらいのさ。ひどいな、近頃、ド忘れが。ここまで出てるんだけど。えぇっと、つい最近お宅で働き始めたって、連絡貰ったんだけど。彼、います?」
「そんな人、うちにはいませんよ。」
「え、ほんと?あれ、変だな。」
「他所じゃないですか。うちで働いているのは、シェフの佐藤さん以外、みんな女性ですから。」
「あっりゃぁ、間違えたみたいですね。御免なさい。」
 ガチャン。
 ひたすら、電話をかけまくる。津田が本名を使うとも思えないので、極力名前を出さずに訊ねる。百近くはあろうかというリストを上から順番にかけてゆく。その結果わかったのは、五ケ所の職場で津田の風体にマッチする男が働いていることだった。自動車部品組立工場。印刷屋。貸し倉庫。ホテルのボイラーマン。それにパチンコ屋店員。それを今度は、一件ずつ自分の足と眼で確かめてゆく。
 残念ながら、そのいずれも、確かに四十歳くらいの、ひょろひょろとした、くりくり眼の男が働いていたけれど、津田ではなかった。間違った方向から攻めようとしているのだろうか。もう一度考え直す。
 どこにいるのか。何をしているのか。私が津田なら、どうするか。
 一体いつまで、隠れられると思っているのだろう。どこかの組織に属しているという情報もないから、完全に孤立無縁で逃げ回っているはず。隠れている内に、忘れられて、安全に暮らしていけるとでも思っているのだろうか。確かに五年もすれば、抜け穴の価値などなくなってしまうだろう。そうなれば、誰からも狙われる心配もなくなる。それをじっと待つ積もりなのだろうか。
 けれど、もし捉えられたとして、どうやったら、自分の命の安全を保証できるだろう。逃げながら、津田はそう考えるはずだ。切り札は、コンピュータープログラムの抜け穴しかない。フロッピーやジップの様なディスクに入れておいたのでは、それを取られておしまいだ。自分なら、絶対にわからない所に隠す。しかも、たとえ自白剤を打たれて在り処を白状させられても、すぐには見つけられない場所に。
 もう一度、津田の履歴詳細を思い起こす。
 理学部環境生物室研究員。ここに何か隠されていないか。研究員なら、学会に出る。研究施設にも出入りする。そこから何か掴めないか。調べてみると、津田の専門領域は、環境生物学というより、遺伝子工学と呼んだ方がよい内容のものだった。関連する学会は、津田の失踪三か月前に開かれていた。出席者の名簿から、隣街にある国立大学水産学部の助教授が、研究発表していることが判明した。一度、近辺を探ってみてもよいだろう。
 訪れた大学構内は、試験も終わり、疎らにしか学生の姿はない。広々とした敷地に、枯れた立木がいよいよ寒々しい。
 水産学部の建物は、キャンパスの一番奥にあった。クリーム色の二階建てのビルで、すぐ隣にテニスコートがある。入り口を開けると、左に建物内の地図があり、どこに誰の部屋があるのか、表示してある。助教授の部屋はすぐ見つかったが、在室を示す赤いランプは消えていた。とりあえず場所確認をと、階段を上がってゆく。廊下を、あたかも何か用があるかのように、足早に歩く。助教授の部屋を、視野の隅で確かめ、そのまま前を通り過ぎた。角を折れ、研究室の前まで来た時に、ドアが開いて、中から男が顔を出した。
 津田だ。
 ちらと、私を見ると、視線を反らした。私はなに食わぬ顔で、そのまま津田の前を歩き続ける。そうして、津田が完全に部屋から出たのを見計らって、振り向きざまに飛び掛かるつもりだった。が、意に反して、津田はドアを慌てて閉めてしまった。
 しまった。気づかれたらしい。なぜだ。どうしてだ。
 ドアを開けようとすると、内側からロックされている。津田は、非常ドアから外に逃げ出すところだ。
 もと来た廊下を全速力で走り抜け、階段を落ちるようにして出口を目指した。外に出て建物を回ると、津田はテニスコートを抜け、裏門から構外に出ようとしている。五十メートル。なんとしても追い付かねば。
 しかし、遂に津田が狭い校門を抜けてしまった。その時、大型トラックが、右から視界に入った。
 あっ。
 甲高いタイヤの音に続いて、鈍い低い音が響く。津田が宙を舞い、対抗車のフロントガラスに突き刺さった。
 しまった。
 二歩、三歩勢いで出た足を、慌てて止める。あれでは助かるまい。巻き込まれては、面倒だ。踵を返して、建物に戻りながら、携帯電話で事態を公安室に知らせる。あとは、上の者が警察や病院に手を回して、処理をするはずだ。身の回りの持ち物など、その時に集められるだろう。それよりも今は、津田がいたあの研究室だ。
 非常階段を登って、中に入る。雑然と水槽やビーカーが並んでいる中から、めぼしいものを漁る。メモ、ノート、フロッピー、なんでも手当たり次第怪しそうなものを掴んでポケットに捩じ込む。のんびりはしていられない。人に見つかっては事がこじれる。棚に並んだ研究ノート、机の引き出しを片端から開けてゆく。
 ふと、足元のごみ箱に、津田が勤めていた大学の紋章入りの小さな手帳があるのに気づいた。中も確かめずに、ポケットに入れ、研究室を後にする。
 裏門はすごい人集りで、遠くで救急車のサイレンが響いていた。
 家に戻って、集めてきたものを一つずつ調べてゆく。どれも、津田とは関係のないものばかりだった。最後に拾った手帳だけが、ヒットだった。失踪するまでのページに書かれていたのは、どれも研究に関するもので、めぼしいものはない。失踪後は、ただ一ページを除いて、全て白紙だった。
 書かれていたのは、近郊のある養鱒場の名と、「山女魚」、そしてその後に「A」、「T」、「G」、「C」の四つのアルファベットが、順番も出鱈目にページを埋め尽くしていた。なにかの暗号に違いない。何を意味しているのか。暗号なら、公安室の専門家に任せた方が早い。そう考えた時に、津田の専門が頭をよぎった。
 そうか。そうに違いない。
 遺伝を司るDNAは四つの蛋白質からなる。アデニン、チミン、グアニン、シトシンだ。ページを埋め尽くしているアルファベットは、その頭文字だ。津田は、なんらかの方法で、情報をこの四つの記号に書き換えたのだろう。
 が、私の知識では、そこまでだった。後は、専門家に任せることにして、手帳を提出した。
 それから一か月後、私は、新しい使命を与えられた。
 津田のノートは、やはり暗号だった。それもとんでもない内容の。
 まず津田は、コンピュータープログラムへの潜り込み方を記した文書を、コンピューターに打ち込んだ。コンピューターの内部では、全ての文書は、0と1の二つの記号の羅列で表されている。二進法だ。津田は、この0と1の連なりをDNAに埋め込んだらしいのだ。DNAの蛋白質の組み合わせ方は決まっている。アデニンはチミンと、グアニンはシトシンと対をなす。津田はこれを利用して、アデニン=チミンの対が1、グアニン=シトシンの対で0を表すようにした。例えば、アデニン=チミン、アデニン=チミン、グアニン=シトシンと並んでいれば、110という具合だ。そして、例の文書を表す二進法の数字の順番通りに、DNAを並び替え、それを山女魚の受精卵に埋め込んだらしいのだ。
 公安室は、もちろん名前の書かれていた養鱒場の鱒を全て抑えたが、どうやら遅かったらしい。暗号入り山女魚は出荷された後だった。
 私の使命は、この養鱒場から放流された河川、湖沼に出かけ、ひたすら山女魚を釣ることである。釣り上げたら、すぐに口腔内の皮膚の一部をサンプルとして切り取り、次の鱒を釣る。毒でも撒いて鱒を捕獲すれば手っ取り早いのだが、それでは事が大きくなり過ぎてしまう。他の国に気づかれたくない。静かに、密かに事を運び、知られぬうちにDNAを手に入れなければならないのだ。しかも早急に。
 それで、近頃は休みともなると、早朝から川や湖、果ては管理釣り場にさえ出かけ、任務を全うしている。
 妻の機嫌が少しずつだが、悪くなってきた。が、それどころではない。他国も薄々気づいているのではないか、そう思われる節があるのだ。
 近頃やたら川で、何か、こう、英国風の格好をした釣り人や、妙にアメリカナイズされたフライフィッシャーマンを、見かけるような気がして、、、。

(初出 フライフィッシャー誌1998年12月号)

 

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