薄暗い部屋に僕はいた。自分のアパートだ。
 夜中に、突然、目が覚めたのだ。それまでぐっすり眠っていたとは信じられないほど、しっかりと眼を見開いていた。眼ばかりか、意識も澄み渡り、覗く場所さえ教えてくれれば、世の中の物事を結んでいる細い糸まで感得できそうなくらいだった。
 カーテンの隙間からぽつんと小さな街路灯の明かりが見え、その背後には滑らかな暗い空が広がっている。窓は閉め切ってあるのに、夜の街の騒音が遠い呟きとなって部屋に忍び込んでくる。僕はベッドに横になったまま、揺れ動く低い音の波の中で、なぜ目が覚めたのだろうと不思議に思い、それから身体の違和感に気づいた。
 左胸が妙にへこんでいる気がするのだ。ちょうど心臓があるあたりに、まるで小さな真空が生じたかのようだった。そして、その回りの肉体が吸い込まれ、中へ内側へと落ちてゆく。僕の中のマイクロブラックホール。そこから生まれるのは、痛みでも重みでもない。やるせない溜め息のような負圧。
 僕はそっと右手を左胸に乗せてみた。
 何も変わらない。もちろん窪んでいるわけでもない。いつものようにあばら骨があるばかりだ。
 指で胸を強く押した。
 骨は硬く持ちこたえ、指が皮膚の中へ沈むようなことは決してなかった。
 けれど、胸の違和感もかたくなに残り、弱まるわけでも消えるわけでもない。
 胸の異変に意識をこらすうちに、ふと、心臓が動いていないのではないかという考えが浮かんだ。
 そんな馬鹿なことはあるはずがない。けれど、心臓が止まったとしても、脳がすぐに活動を停止するわけでもあるまい。心臓が血液を送らなくなり、酸素の不足から脳細胞が死ぬまでの間の、ごく僅かな執行猶予。今はその希有な隙間なのではあるまいか。
 僕は左手を首に当て、頚動脈を探した。顎のちょうつがいを中指と薬指でなぞり、人さし指に感じるはずの鼓動を求めた。
 耳のすぐ下から喉仏の脇まで、くまなく指を這わせたにもかかわらず、柔らかな皮膚の感触があるばかりで、脈打つ血管はどこにもない。
 探し方が悪かったに違いない。
 そう思って、今度は右手の四本の指で左手首を軽く押さえ込んだ。手首の真ん中、脇、親指の付け根の下。あちらこちら試してみるのだが、しかし、そこにも心臓の動いている証拠を見つけることはできなかった。
 心臓が止まるなんて、まさか、そんな。
 僕は右拳を握り、力を込めて左胸を叩いた。一回では足りない気がして、二度、三度と繰り返す。次第に腕にこもる力が強くなり、拳が胸にぶつかるたびにバンバンと大きな音が部屋に響いた。
 打ちながら期待していたのだ。ドックン、と耳を内から押し上げるような高まりとともに心臓が鼓動を再開することを。
 しかし、聞こえるのは夜の低い騒音ばかりで、僕の体は死んだままだった。首にも手首にも、脈は蘇ってこない。
 どうやら、本当に心臓は動いていないらしい。
 このまま意識が薄れ、そして終わりとなるのだろうか。これが死ぬということなんだろうか。
 が、それにしては現実感があまりにもなかった。痛みも苦しみも恐怖も不安すらもない。いつものように明日の仕事のためにベッドに入り、そのまま静寂の世界に流されていく。盛り上がりも、派手な展開も、看取る人もなく終わる。そう思うと、何となく情けなかった。あまりにもつまらなくて、馬鹿らしくすらなる。
 いっそのこと外に出て、歩いてみようか。
 そう考えたら、その突飛な思いつきに少し嬉しくなった。想像しただけでも頬が緩む。
 夜の街を歩き回る死体。
 平凡な最後を飾るには相応しいジョークじゃないか。
 幽霊でも怪談でもなく、ただ、他にこれといってすることもないので、所在なさげに街を徘徊する死体。
 どうせこれきりなのだから、そのくらいの悪戯は許されてもいいはずだ。
 僕は、ベッドの上に起き上がった。立ち上がってから、ひょっとして僕は霊魂となり、霊体遊離でもしているのではないか、そう思って振り返ってみたけれど、そこに僕の死体はなかった。ただ、めくられた掛け布団としわくちゃのシーツがあるばかり。
 やっぱり死んでいないのだろうか。
 念のために、もう一度、顎と首の間を探ってみるけれど、何度試しても脈はない。
 街に出るのに服を着替えるべきか一瞬迷ったけれど、もし、服を着替えている最中に身体が動かなくなってしまったのでは、それこそ洒落にならない。部屋の中に死体が倒れていては、面白くも何ともないのだ。それはごくありきたりの突然死だ。僕の死という大切なドラマをそんなことで終わらせたくない。どうしても死体の僕が夜の街を歩かなければならないのだ。それで、パジャマのまま僕は部屋を出た。
 蛍光灯に照らされた薄暗いコンクリートの廊下で、自分の部屋の表札を見る。これを見るのも最後かと思うと、色々あったなあと感慨深くなる。しかし、こんなところで貴重な時間を無駄にしているわけにはいかない。
 死んでいることを実感するために、脈のない首に手を当てたまま、ゆっくりと足を進めた。
 薄暗い廊下を歩きながら、誰かとすれ違わないか、そればかり願っていた。
 誰でもいいから、人と会わないだろうか。せっかく死体が歩いているのに。こんなことは滅多に見られることではないのに。それに、誰も見ていなかったら、歩いている最中に心臓発作か何かで死んだと思われてしまうかも知れない。それではあまりにも残念ではないか。僕の心臓は、もうしばらく前から停まっているのだ。脳はまだ働いているにせよ、ある意味、僕はもう死んでいるのだよ。死体がこうして歩いているのだよ。死人の努力を無駄にするなんて、ひどいじゃないか。まぁ、でも通りに出れば、誰かいるに違いない。
 僕は、階段をゆっくりと下に降り始めた。早く通りに出たかったけれど、急いで激しい運動を強いたりすれば、肉体が崩れ落ちてしまうようで恐かった。それで、手すりにつかまって、一段一段、慎重に転ばぬよう足を踏み出す。
 街路灯に照らされた狭い路地には、人の気配もなく、どの家の窓も明かりが消され、暗いままだった。車の音も途絶えている。そういえば、今は何時なんだろう。時間を確認しなかったことが少し悔やまれた。あまり遅い時間だとしたら、表通りまで行かなければならない。それでも誰にも会わないかも知れない。はたして僕の身体はもつだろうか。
 焦る気持ちを抑え、ようやく階段を下まで降り、コンクリートの台からアスファルトへと足を踏みだしたときだ。硬い地面に降り立つはずが、僕の足はアスファルトを抜け、その中へと潜り込んで停まった。もうちょっとでバランスを崩し、倒れるところだった。
 え?
 驚いて足下を見る。すねの辺りまで足がアスファルトに突き刺さっている。そして、まるで湖に立ち込んでいるかのように、アスファルトに丸いさざ波が起こり、ゆっくりと広がっている。波の行く方を目で追うと、コンクリート塀にぶつかり、弱々しくこだまが返っている。こだまとこだまが重なり合い、溶け、滲み、そして消えた。
 僕は、もう片方の足で、アスファルトに触れてみた。
 足の裏には何も感じなかったのに、足の影から波紋のささやかな隆起が、一斉に四方に走っていく。
 不思議なこともあるものだ。けれど、死体が夜を歩くような街なのだから、このくらいのことがあっても文句は言えない。
 僕は、差し出した足をアスファルトの海へと沈めてみた。
 足は、一歩めよりさらに深く突き刺さり、膝の辺りまで入ってようやく硬いものにぶつかった。二度、三度確かめてから体重をかける。そして次の足。今度は太股までずぶりと地面を通り抜けた。どうやら、アパートの階段がそのまま続いているようだ。
 恐る恐るつま先で確かめながら地面の深みへと降りていく。五歩も進んだところで、とうとう地面が僕の顎の下まで来てしまった。
 どうしようか。このまま進もうか。それとも帰ろうか。
 ここまで来たのだから、とりあえず行けるところまで行ってみよう。
 僕はそう決心すると、足で更なる深みを探った。地面が鼻先まで湧き上がって、やっとつま先が次の段に届いた。一思いに体を預けると、するりと地面の裏側に頭が入り込んだ。
 頭の少し上に地面が波紋を残して広がり、そのさらに上空にはコンクリート塀や家並みや街路灯が揺れている。僕はしばらくその見慣れたはずなのになんとも奇妙な風景を見上げていた。
 視線を少し下げると、そこには地面の裏側が見渡すかぎりどこまでも広がっていた。端の方は暗闇に溶け込んで消えてしまい、地面なのか空間なのか境目すら判然としない。階段も数段先まではかろうじて見えるものの、その先がどれだけ続いているのか、見当もつかなかった。
 僕は薄暗い中、目を凝らしながら、ゆっくりと階段を下り続けた。時折立ち止まって地面を仰ぎ見ると、そのたびに町並みが遠くなっていく。それも、いつの間にか霞んでぼやけ、雲とも夜空ともつかない濃い灰色の塊の中にうずもれて、どこにあるのか区別すらつかなくなってしまった。
 それで僕はもう足を止めることも街を見上げることもなく、ただ下降を繰り返した。
 地面の下の世界は、どこから光が入ってくるのか定かではないけれど、漆黒の闇ではなかった。しかし、なにかが見えるというほど明るいわけでもない。どちらに視線を向けても、ぼんやりととりとめのない灰色の空間が僕を取り囲んでいた。出っ張りもへこみもなく、茫洋とした渾沌。時間も空間も見境なく崩れ落ち、下降という行為だけがあるようだった。
 ひたすら続く階段に、僕は機械的に足を差し出した。
 もういい加減歩き疲れ、どこかきりのいいところがあったら休もうとしばらく前から考えていたのだが、階段はどこまで降りても同じ階段で、なかなか足を止める踏ん切りがつかない。
 いっそのこと、くるりと向きを変えて、町に戻ろうか。
 そう迷っていて、下の方からなにか音が聞こえてくることに気づいた。
 たくさんの光の呟きが集まったような、柔らかで、軽いさざめき。
 それが、川の音だと思い当たるのに、さほど時間はかからなかった。一段降りるたびに、せせらぎは次第に輪郭をはっきりとさせ、それから程なく、僕は川のほとりに立っていた。
 川幅は十メートルほどだろうか。薄明の中を、白く泡立った瀬が、大きな淵へと流れ込んでいる。淵の対岸は黒い崖が壁となってそびえ立ち、こちら岸はごろた石のなだらかな河原だった。
 その河原の真ん中に、女の子が一人しゃがんでいた。
 白いワンピースがくっきりと浮き上がって見える。
 僕は、その姿になぜこんなところにいるのだろうと首を捻りつつ、彼女を驚かさないようにゆっくり河原を歩いていった。
 そばまで来て、なんて声をかけようかと躊躇っていると、女の子が顔を上げた。五歳くらいだろうか。髪をお下げにして、じっと僕の方を見つめている。それから、ニコリと笑った。
 どこかで見たことがある。僕は彼女を知っている。頭の片隅に浮かび上がるものがあるのだけれど、誰だか思い出せない。
 誰だっけ。どこで会ったんだろう。
 その女の子が誰なのか分からないまま、とりあえず僕も彼女に笑いかけた。
 女の子の屈託のない笑顔からして、どうやら彼女は僕のことを知っているらしい。彼女が顔を上げたときに見せた穏やかな表情は、初めて会う人間に対するものではなかった。
 せめて名前くらい分かれば、記憶の小さな切れ端でも掴めるかも知れない。
 ねぇ、君の名前は、なんていうの。
 そう、訊ねようとするのだけれど、どういうわけか言葉が一つも出てこない。口がパクパクと動くばかりで、言葉どころかどんな音も発することができない。
 女の子はそんな僕の様子に戸惑うふうでもなく、すたすたと歩いてくると傍らに立ち、僕の手を取った。
 小さく、柔らかく、そして温かい手だった。
 女の子に引かれるまま、僕は流れのほとりへと導かれていった。近くで見ると、暗い淵は泡瀬を飲み込み、流れが揺れるに任せて盛り上り、あるいは渦を巻いたりして、思ったより動きがある。
 水際まで進んで女の子は僕の手を解き、静かにしゃがみ込んだ。
 僕は初めて女の子が裸足であることに気づいた。
 女の子はしゃがんだまま、自分のふくら脛を左手でそっとつかむと、悪戯っぽく小さく笑った。それからその手をゆっくり前に突き出した。
 そこには、白くて細長いものが乗っていた。それはふくら脛だった。どうやったのか分からないけれど、彼女は自分のふくら脛を外してしまったのだ。
 とても小さなふくら脛で、優しそうにぷるぷると震えている。そんな可愛らしいものを手にしていられるなんて、僕は彼女を少し羨ましく思った。僕にも持たせてくれないだろうか。
 けれど女の子は僕には渡してはくれず、その代わりにふくら脛を淵の中へそっと流し込むように放してしまった。女の子の手を離れ、ゆらゆらと沈みながら、ふくら脛はいつの間にか可憐な銀白色のヤマメとなり、淵の浅場を初めはゆっくりと、けれどしばらくするうちに目で追うのがやっとなくらいすばしこく泳ぎ出した。岩の脇を抜け、石の上で身を翻し、尾びれで水面を叩いてはあたりを走り続ける。
 女の子はその様子をしばらくの間、満足そうに眺めていた。そして再びしゃがむと、今度は足下の砂を掬い上げた。それを両手の間で揉むように、こねるようにしている。小さな手からこぼれた砂が水面にぱらぱらと微かな波紋を残してばらまかれる。砂は、水に入るや、小さな虫となってスイスイと泳ぎ始めた。あっと思う間もなく、それを見たふくら脛のヤマメが寄ってきて、白い腹をぎらりと反転させながら素早くついばんでいく。
 いいなぁ。
 僕は深い考えもなしに、自分のふくら脛を女の子がやったようにそっと掴んだ。するとほとんど力をいれてもいないのに、ぽろりと外れてしまった。
 手に取ってみると、僕のふくら脛は、大きくて、茶色くて、いかにも硬そうだった。女の子の素敵なふくら脛を見た後では、ちょっと悲しくなるくらい武骨だ。それでもせっかく取ったのだからと思い直し、水に入れてみた。
 ふくら脛は、ぼちゃんと無粋な飛沫を上げて水に潜り込み、そのまま真っ直ぐ底まで沈んでいく。石の上に静かに横たわり、やっぱり僕のでは駄目かと思うころ、ようやくぶるんと一つ大きく震えてからイワナとなって泳ぎ始めた。石の間を縫って、あたりを睥睨するかのようにゆっくりと回っている。
 僕も女の子に見習って、足下の砂をすくって両手でこねてみた。雨のような波紋が水面に広がり、何百何千もの虫があたりに散らばった。僕のイワナがそれを物憂さそうに大きな口を開けて飲み込む。
 イワナの口を逃れた虫は、そのままツイと水面に泳ぎあがり、背中を水から突きだす。それがぱくりと割れ、中からカゲロウがもがき出てきた。しわくちゃの羽根が見る見る内に伸び、まるで帆船のように宙高くに突き立てられる。それを下からイワナが大きな頭をもたげ飲み込もうとする。しかし、それよりも一瞬早く、ヤマメが横っ飛びに割って入って食べてしまった。
 僕はその様子に、女の子と顔を見合わせて笑った。
 それから、僕たちは飽きもせず、足下の砂を二人ですくってはこね、たくさんの虫を水に放してやった。僕は、イワナが虫を食べる様子が特に面白くて、夢中になって砂を揉み続けた。そして時には僕が女の子のヤマメに食べさせたり、僕のイワナが女の子の虫を口にしたりもした。
 どれくらいの間、二人でそうやって遊んでいたろう。
 ふと気づくと、女の子は淵から離れ、河原の真ん中に一人で立っていた。ニコニコと笑いながら、小さな手をバイバイと言いたげに横に可愛く振っている。
 え?どこに行くの。僕も連れてって。
 しかし、それを振りきるように彼女の姿はどんどん薄くなっていく。そして、とうとう何も見えなくなり、僕は淵のほとりに一人取り残された。
 あ、じゃ、ヤマメは?
 慌てて僕は淵を覗き込んだ。けれど、もうヤマメもイワナもどこにも見当たらない。本当に僕だけしかここには居なくなってしまったようだ。
 もう一度女の子の消えていったあたりを確かめようと振り返ると、そこには僕が下りてきた階段があった。どうやら、僕はあのアパートに帰るよりなさそうだ。
 女の子と一緒に行けないのはとても残念だったけれど、しかし、僕はとても満ち足りた気分になっていた。僕と女の子、そしてヤマメとイワナで過ごした想い出が、いつまでもじんわりと胸の中で温かい。
 僕は、大きく息を一つ吸い、階段を登り始めた。
 階段の先は、見渡すかぎりに広がった灰色の空へと消えている。あそこまで辿り着くにはずいぶんと時間がかかるだろう。でも、僕は行かなければならないし、行く気力もある。大丈夫だ。僕は行ける。
 ずんずん弾みをつけて階段を登っていく。登りながら、ふと、脈のことを思い出し、首に手を当ててみた。
 指先にドク、ドクとリズミカルな動きが伝わってきた。
 生きている。
 僕は嬉しくなった。
 僕はまだ生きていて、そして歩いているのだ。
 胸の奥から熱い喜びが湧き上がり、言葉が口をついて出る。
 ヤマメ!イワナ!
 イワナ!ヤマメ!
 でたらめな節をつけ、大きな声で歌うようにして、どんどん階段を登っていく。
 そうだ、今日は仕事に行くのはやめて、釣りへ出かけることにしよう。魚は釣らなくてもいい。イワナとヤマメに会いに行くのだ。そうしよう。
 ヤマメ!イワナ!
 どこか澄んだ流れのほとりに座り、一日ゆっくりと眺め、戯れるのだ。
 イワナ!ヤマメ!
 アパートに帰ったら、さっそく出かけたほうがいいな。こんな気分が良いのに眠ってしまうのは勿体ない。
 ヤマメ!イワナ!
 そのうちに、あたりが少しずつ明るくなり、それにつれてそれまで一様に広がっていた灰色の空が、でこぼこと濃淡を現しはじめた。風に吹き寄せられて雲が湧き上がるような具合だった。
 なんだろうと思いつつ、相変わらずヤマメ、イワナと元気に登っていくと、曖昧模糊とした灰色の雲が次第にはっきりとした輪郭を持ち始め、何やら人の顔のようになってきた。
 イワナ!ヤマメ!
 それは柔らかい雲だとばかり思っていたのだが、段々と硬く乾いたものへと縮こまり、とうとう皺だらけの顔、老婆の顔になった。
 ヤマメ!イワナ!
 老婆の後ろには、中年の男が立ち、二人でじっとこちらを見ている。
 イワナ!ヤマメ!
 老婆は僕の手を両手で握り、ゆっくりとさすっている。白い部屋の中には花瓶があるばかりで、まるで病院のようだ。僕のアパートじゃないのか、ここは。
 中年の男が口を開いた。
「おとうさん、夢でも見てんだろうかね」
 ヤマメ!イワナ!
「もうほんとにこんな時にもなって、釣りのことしか口にしないなんて、この人は、、、」
「でも、いかにも父さんらしいな」
 ドアを開けて入ってきた白衣の男が、中年の男の横に並び、僕の腕を取り、脈を図り始めた。
 いや、僕の脈ならこんな立派にありますと、手を自分の首に持っていこうとするのだが、腕はだらりと垂れたまま動こうともしない。
 息が次第に苦しくなり、どこかでぜいぜいという音が途切れがちに聞こえる。
 消えてなくなったはずのあの真空がいつの間にか左胸に蘇り、僕はずるずると内側へ落ち始めた。
 老婆と中年の男、そして白衣の男の間を縫って、小さなヤマメと大きなイワナが泳いでいる。
 部屋をぐるりと回ってから、最初にヤマメが、それを追うようにしてイワナが窓から外に出ていった。

(初出 フライフィッシャー誌2001年11月号)

 

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