こんな風景だったけかなぁ。
 住宅の間をうねうね続いている道にそって、辺りを見回しながら僕はぶらぶらと歩いていた。
 この街を訪れたのは、十五年ぶりのことだ。大学を卒業し、就職してからは、一度もこの街に足を運んだことがなかった。その間に、何もかもがすっかり変わっていた。
 なによりも驚いたのが、この道だ。
 あの頃、ここは道ではなかった。川だったのだ。当時からすでに住宅が両岸に建ち並び、コンクリートで隙間なく護岸されてはいたものの、少なくとも水は流れていた。家庭排水やごみが捨てられ、目を背けたくなるほど情けない姿ではあったけれど、まだ川としての微かな呼吸をどこかに感じることができた。
 しかし、それも今では見る影もないどころか、姿形すらない。どうやら上にコンクリートの覆いを被せ、アスファルトをひいてしまったようだ。
 実は、僕は、かつてこの川で釣りをしたことがある。そう、魚がいたのだ。それも、鯉や鮒ではなく、立派なマスを釣り上げている。
 始まりは、ほんの冗談だった。大学二年の時にフライフィッシングに手を染めたものの、車を持っていなかったので、なかなか思ったように釣りに行くことができずにいた。それである日、目の前を流れている川を釣ってみようと思い立ったのだ。本当のところ、どうしても釣りがやりたくてと言うより、普段やらないこと、何か訳の分からないことに手を出したかっただけな様な気もする。自分の中に沸き起こる何かをそんな形で出したかったのかも知れない。
 夏の暑い日のことで、僕は橋のたもとまで歩き、紙袋に入れて持ってきたウェーダーに履き替えると、人目を忍ぶようにしてこそこそと護岸を降りた。こんな住宅街の真ん中で、しかも魚がいるとも思えない流れで釣り支度をするのは、人に見られていなくとも充分に恥ずかしい。
 流れに降りた途端、ほのかなドブドロの匂いに包まれた。予想していたとはいえ、少しがっかりした。
 両岸の家は、どれも塀を高く建て、川を見ないようにして生活をしている。見えないものだから、平気でごみを捨てる。バケツが転がり、自転車が錆び、靴が埋もれ、ビニール袋が流れてくる。汚いから余計に目を背ける。おかげで可哀想にこの川は、螺旋を落ちるように朽ち果てているらしかった。
 僕は、むごたらしい川の情景に、自分でも馬鹿なことをしているなと半ば後悔しながら、どうせここまできたのだから、とりあえず行けるところまで川を遡ってみようと思った。魚のいる気配はまったくなく、ロッドを手にしていることが余計に情けない。
 けれど、川はまだ死んではいなかった。気を付けて探っていくと、ところどころに雑草が生え、小さな、それこそ手の平に乗ってしまうような自然が息づいていたのだ。もし自然河川のように段差があり、空気がたくさん取り込まれれば、浄化作用で生き返るのではないか。そんな幻想すら抱かせてくれるほどだった。
 小さな橋を一つくぐったところで、流れの中にぼんやりと揺れる黒い影が見えた。
 魚?
 鯉だ。それも、三尾、いや四尾いる。
 僕は、さっそくパンフライを結び、パクパクと口を開けている鯉の少し上流に投げた。こんなところで釣りをするものは誰もいないのだろう、鯉は警戒することも疑うこともせず、僕の投じたフライを口にした。
 それほど大きな魚とは思えないのに、信じられないような力でぐいぐいと引きずり回される。ロッドが腰から曲がって、魚に負けてしまっている。それでもどうにかじわじわとリールを巻き、足元に寄せることができた。
 大きな尾びれで水を叩き、バシャリと飛沫が飛ぶたびに、顔にかからないように身を引く。こんなところの水が間違って口にでも入ったらどんなことになるか。例え病気にならずとも、考えただけでもいやだった。歯のない滑らかな唇に刺さったフライを抜き取り、鯉を流れに戻してやる。一緒にいたはずのほかの魚は、いつの間にかどこかに消えていた。
 そそくさと泳ぎさる鯉を見送りながら、例え、鯉であろうとも、魚が釣れたことで僕はとっても嬉しくなっていた。魚が釣れたからというより、この川にまだ魚がいたという発見が、心を和ませた。
 傷つけられ、捨てられ、忘れられても、決して諦めずしぶとく生き延びる力強さ。自然のしたたかさ、健気さを目の当たりにしたと思ったのだ。

 それからである。しばらく遡っているうちに、なんとなく、水が澄んできたような気がした。距離的にさほど遡ってきたわけでもないし、回りは依然として住宅の建ち並ぶ風景だから、そんなはずはない、錯覚に過ぎないと思うのだが、底の見え具合がどこかこれまでと違う。
 何だろうと思いつつ、曲がりを一つ越えたあたりで、疑いは確信に変わった。対岸ぎりぎりの流れが、それより手前の流れと明らかに色が違う。緑が薄い。護岸のコンクリートが透けるせいか、暗い帯となっている。
 眼で辿っていくと、家五軒分ほど上流に行ったあたりで帯はプツリと途切れていた。柳の枝が覆い被さっているのではっきりとは分からないが、側溝でも流れ込んでいるに違いない。枝の上流には帯はなく、ぬらりとした緑の流れが一面に広がっている。
 違っていたのは、水の色ばかりではなかった。柳の植わっている家は、両隣とは対照的に塀がない。まるで刑務所の塀のように高く聳えていた壁が、そこだけ綺麗に取り払われ、しっとりと落ち着いた緑の低い生け垣となっている。その奥には、小奇麗に手を入れられた庭があり、ナンテンの白い花がアクセントとして映えている。隣りにあるのは紫陽花だろうか。
 いいなあ。
 ぼんやりと見とれていると、木立の向こう、縁側に人が座っており、しかもこっちをじっと見ていることに気づいた。
 慌てて、目をそらす。
 しかし、それでは僕がいかにも怪しいことをしているようではないかと思い直し、もう一度顔を向け、軽く頭を下げた。
 そこにいたのは、女の子だった。高校生くらいか。
 僕は、こんな汚い川で釣りの恰好をして歩いているところを見られ、急に恥ずかしくなった。あまりにも場違い。そんな気がしたのだ。それに、見られたのが女の子だということが、余計に僕を意識させた。
 僕は、上流に顔を向け、その場を去ろうとした。
 パシャッ。
 え?
 ライズ?
 うそ。
 僕は、女の子がまだこちらを見ていることも構わず、護岸際の流れに目を向けた。半信半疑で今さっき小さな波紋が広がったあたりを凝視していると、再び、紛れもないライズが起こった。
 鯉じゃない。あれは、鯉なんかじゃない。
 のっそりと水面に口を出しポワポワと吸い込む鯉とは間違えようのない、シャープでひったくるようなライズだった。
 僕は慌ててパンフライを噛みきり、小さなユスリカのフライを結んだ。結びながら、あれだけ避けていたこの川の水なのに、すっかり舞い上がって、ついティペットを歯で切っていたことに気づき、苦笑いせずにはいられなかった。
 水面に垂れている柳の枝にひっかけてしまわないよう、慎重に狙いを付ける。ライズがあったのは岸ぎりぎりだったので、護岸にぶつけるようにしてフライを投げた。
 跳ね返ったフライが、うまいこと岸から十センチほどのところを流れてくる。手前の流れが速いので、あっという間にラインが下流に弧を描いて撓む。メンディングをしようか迷った。うまくできる自信がなかったのだ。下手にやってバシャリと音をたて、しかもフライを引っ張ってしまったら、魚を驚かしはしないか。それよりも、ドラッグでフライが動くだけなら、カディスが水面を這っていると勘違いしてくれるんじゃないか。でも、一か八か、、、。
 よし、どうせ駄目もと。
 そうロッドに力を入れるのと、フライが消えるのが同時だった。
 メンディングでラインが宙に浮いたところで合わせたものだから、大きく弧を描いて跳ね上がる。慌てて弛んだラインを引き寄せ、ようやく魚の走りをロッドで受けた。あまり魚を疲れさせたくなかったので、多少強引とも思いながら寄せにかかる。
 足元のドロの上に横たわったのは、小さな、二十センチあるかないかのヤマメだった。きっと、上流の養鱒場か管理釣り場から流れ出したのが、奇跡のようにこの小さなオアシスに辿り着き、生き永らえてきたのだろう。
 すぐに流れに戻そうとして、ひょっとしてこちら側で放したのでは綺麗な流れを見つけられないかも知れない、そう思い、僕はフライに魚をつけたまま川を渡ることにした。護岸まで一メートルと近づいた辺りから、水の色がはっきりと違う。たぶん側溝の上に湧き水でもあって、澄んだ水がふんだんに流れ込んでくるに違いない。なるべく岸に近い、流れの緩いところにヤマメを誘導し、そこでフライを外してやった。
「ええ?逃がしちゃうのぉ」
 驚いて仰ぎ見ると、いつの間にか、さっきの女の子が生け垣の上から顔を覗かせていた。近くで見たら、高校生というより、もう少し年がいっていそうだった。僕とあまり変わらないかもしれない。
「うん。食べるために釣ったんじゃないし」
「ふーん。じゃぁ、どうして釣ったの?」
「え?どうしてって、言われても、、、。ただ、釣りたかったから。そんなとこ」
 ふーん。女の子は唇をとがらせると、くるりと向き直って、家の方に戻ってしまった。
 ああ、もう少し、洒落たことを言えばよかった。
 家に入る女の子の後ろ姿を見送りながら、僕は後悔した。気の利いた言葉、あるいはせめて会話を紡ぎだす呼び水のような言葉が出てきたら、あんなに素っ気無い素振りじゃなかったかも知れないのに。
 女の子はどちらかといえばぽっちゃり型で、そのわりには顔の造作の一つ一つはすっきりとして、可愛いほうだと思った。少なくとも、僕をがっかりさせるのに充分なだけの魅力はあった。
 しかし、いつまでもそこに突っ立っているわけにもいかない。家の裏に突然現れ、魚を釣っても逃がして喜んでいるような男に、彼女がさほどよい印象を持っているとも思えなかったし、僕にしても、すれ違った女の子に落ちたハンカチを拾ってあげたくらいの出来事でしかなかった。
 素敵だな。そう思って、おしまい。僕は北に向かうし、君は南に行く。すれ違うばかりで何も起こらない。
 それで、僕はまた川を上流へと進んでいった。残念なことに、もう街の中の奇跡は現れず、緑色の沈黙がだらだらと流れるばかりだった。僕は、十五分ほど歩いたところで見切りをつけ地上へと攀じ登った。そそくさとウェーダーを履き替え、ロッドをしまうと、川をもう一度よく眺めてから歩きだした。
 誰も知らないヤマメの川を、それもこんな町の中で見つけたことで、僕はとても朗らかな気持ちになっていた。何かせずにはいられず、途中のコンビニで缶ビールを買い、それでささやかな祝杯をあげながら家路についた。
 数週間後、僕は再び、あの川へ出かけてみた。ヤマメが気になったし、もちろん女の子のことも頭の片隅にあった。
 川の中を意気揚々と歩いていて、ふと、高い塀の向こうの窓からこちらを見ている中年の女性と目が合った。僕は、帽子を取り、元気よく「こんにちは」と挨拶をする。僕はとても気分が良かったのだ。けれど、女の人は、挨拶を返すこともなく怪訝な顔をしたまま窓の奥へと消えてしまった。
 おばさんの世界では、ここはごみ捨て場かも知れないけれど、僕の世界では、ここは魚と遊べる楽しい川なんですよ。きっと知らないと思うけれど。
 僕は、帽子をかぶり直して歩き続けた。
 前回釣った鯉の群れは、少し下流に移動していて、やっぱりポクポクと口を開けている。
 釣ろうか。どうしようか。
 僕はしばらく考えてから、鯉はこの次にとっておいて、今日はとにかくヤマメの様子を先に見に行くことにしようと決めた。ボズ・スキャッグスを口ずさみながら、僕は軽い足取りで再び歩き始める。
 この間のポイントに辿り着く。柳の枝が風に揺られ、さらさらと鳴っている。
 どれ、いるかな。
 前かがみになり、護岸脇をじっと見守る。
 流れが幾重にも折り重なって縒れ、それにつれて緑と蒼が入り交じる。現れては消える模様が、一瞬魚のように見え、その度に心が半歩前に出る。
 この辺りだろうと凝視していた場所より、一メートルほど上流、水面に垂れた柳のすぐ下で、忍びやかな波紋が広がった。
 いた!
 僕は、フライボックスを開き、どれにしようかと指が迷いだす。
 この間は、ユスリカのパターンでうまくいったから、今回もそれでやってみようか、それとも、、、。
「駄目よ、釣っちゃ」
 突然の咎めにびっくりして顔を上げると、生け垣の向こうに彼女がいた。きゅっと眉を寄せ、僕を睨みつけている。怒っているというより、たしなめるような語気で、生け垣に阻まれて見えないけれど、きっと腰に手を当てているに違いない。
「え?どうして?」
「だって、私の魚だから」
「君の魚?でも、この間は、何にも言わなかったじゃない」
「この間は、この間。過去は過去よ。現在は過去の繰り返しじゃないの。そういうこと」
 彼女が生け垣の上から顔を覗かせたおかげで、ヤマメは驚いて隠れてしまったらしい。ライズはもう二度と広がらなかった。それで、僕はどちらにせよヤマメを釣るのは諦めざると得なかった。
「釣ろうにも、君のおかげでヤマメは逃げちゃったし、釣れないよ」
「なに、ヤマメって。私の魚に勝手に名前を付けないで。クォイルって言うのよ」
「別に、僕がつけたわけじゃない。ヤマメは君の魚の種類の名前。名犬ラッシーとコリーみたいなもんさ」
「ふーん。釣りをするだけあって、魚のことは詳しいのね。あ、そうだ。そんなに詳しいなら、クォイルが何を食べるか知ってる?」
「水棲昆虫、例えばカゲロウとかボウフラとかブユとかユスリカとか。それからアリみたいな陸の昆虫も食べるよ、もし流れてきたら」
「じゃぁ、パンは?」
「パン?パンって、人間の食べるパンかい?うーん、あんまり食べないと思う。試してみたことがないから分からないけど」
「そうかぁ。駄目かぁ」
 女の子は考え込んでいる。
「あ、ひょっとして、クォイルに餌をあげようとしたの?」
「うん。でも何をあげたら良いのか分からなくて。でも、虫はいやだなぁ」
 このヤマメが天然のものとは思えないから、これまでは人工飼料で育ってきたはずだ。それなら、どこかでペレットを手に入れればいい。養鱒場にいけば、安く譲ってくれるだろう。そう教えてあげた。
「ありがとう。助かったわ。あ、そうそう。さっきも言ったけど、もうクォイルにちょっかいを出しちゃ駄目よ。あなたみたいな人にいじめられないように、ちゃんとお守りも作ったんだから」
 彼女が指さす先を見ると、護岸の縁から細く白いものがぶら下がっている。藁を縛って輪を作り、それで何かの模様をかたどっているらしい。
「おばあちゃんが作り方を教えてくれたの。残念ながら、もうおばあちゃんはいないけど。でも、効くのよ」
「うん、そうだね。確かに今だって、僕は釣りをできなかったし」
「でしょ」
 彼女は嬉しそうに笑った。

 それが僕がこの川で釣りをした最後だった。彼女のクォイルを傷つけたくなかったし、それに程なく先輩から車を譲ってもらい、郊外の川にもっと気軽に行けるようになったのだ。
 もっとも釣りにこそ行かなかったものの、彼女の家の前は何度か歩いてみた。あのままそれっきりになってしまうのは、もったいないと思ったのだ。けれど、残念ながら一度も彼女の姿を見かけることはなかった。そして、僕は大学を卒業し、この街を出てしまった。
 今ごろ、彼女はどうしているんだろう。
 僕は、辺りの景色を過去の姿にひき重ねるようにしながら、細い道を歩いた。もともとが川だったから、どの家もこちら側には背を向けている。そのどこかに昔を偲ぶよすががあればと探し続けた。
 あ、ナンテンの花。
 白い可憐な花が塀の向こうから僅かだけ顔を覗かせていた。
 そうか。川が道になるくらいだから、生け垣が塀になっていてもおかしくない。それに、あの時、僕は川の底から見上げていたので、視点が随分と低かった。それで、辺りの景色に違和感があったんだ。
 ナンテンの花に引き寄せられ近づいてみると、確かにそこが彼女の家だった。角には柳の木が植わり、横ではさらさらと水の流れる音がする。側溝だ。覗いてみたら、ドブと言っていいほどの狭い溝なのに、流れている水は驚くほど澄んでいる。どこかほっとするとともに、何か深く惹きつけられるものを感じた。水の音が頭の中、胸の奥深くに染み込んでくる。五分もそうしていたかも知れない。ふと我に返って、近所の人に怪しまれても嫌だと思い、来た道を駅に向かって引き返し始めた。
 来るときは近道をしたのを、帰りはそのままもとの川に沿って歩いてみた。どこか見覚えのあるような家もあったし、建てられたばかりの家もあった。
 しかし、それからさほども行かないところで、二車線の通りに出たかと思ったら、突然道は終わっていた。そこから先は、道ではなく川になっている。川。あの川がまだあったのだ。
 僕は、手すりにのしかかるようにして、緑色の流れを見つめた。
 じっと見ているうちに、僕はどうしようもない馬鹿げた考えに捕らわれてしまった。振り払おうにもしつこくつきまとい、いつの間にか僕を飲み込んでしまう。
 十五年前の、あの川のほとりに立とう。そうすれば、この十五年の意味が分かる。
 そんなはずはないのに、僕はこの考えから逃れられなくなっていた。
 いいじゃないか。どうせ、僕には何もないのだから。
 僕は、向かいのコンビニで懐中電灯を買うと、手すりを乗り越え、流れに下り立った。ドブドロの匂い、灰色の饐えた匂いが鼻につく。
 僕は、懐中電灯を手に、腰を低くして暗渠の中に足を踏み入れた。
 大学を出てから十五年間。ずっと僕は働いてきた。残業をし、休日出勤をし、有休も満足に取らず、ずっと、ずっと。
 そして、会社がなくなった。
 真っ暗な中にかよわい懐中電灯の明かりだけがぼんやりと広がる。クモの巣が顔にかかる。
 どこにも行きようがない。仕事がない。七年前に買ったマンションは値段が下がり、手放してもローンだけが残った。
 果てしなく続く暗闇の中を、僕は歩き続ける。一体僕はどこに行こうとしているんだろう。
 どれくらい進んだのか自分でも分からなくなった頃、前方が、ぼんやりと明るくなっているのに気づいた。
 段々近づいていくと、流れ全体がうっすらと照らされている。壁から流れ込む側溝の水とともに、光も一緒に漏れ入っているのだった。
 ここだ。ここが十五年前の川だ。
 何もかも変わってしまい、誰もそこにあることすら知らない十五年前の川。僕はそこに立っている。
 でも、だから、何だって言うんだ。
 こんな馬鹿なことをやっている暇があったら、、、。
 その時だ。
 パシャリと音がした。
 慌てて、懐中電灯で水面を探る。けれど、いくら待っても二度と水音はせず、波紋も広がらなかった。
 やっぱり、気のせいか。いるわけないじゃないか。
 おかしな期待をした自分が悲しかった。こんなところに来て、どうするつもりだったんだ。帰ろう。
 そう振り返って、側溝が流れ込んでいる壁に、白い物があるのに気づいた。懐中電灯を当ててみる。
 それは、お守りだった。彼女が作ったお守りがまだそこにあったのだ。
 僕は身じろぎもせず、お守りを見つめ続けた。藁で結び目を作り、輪っかにした、ただそれだけのお守り。
 見ているうちに涙がこぼれた。そして僕は、声を出して泣いた。わぁわぁと嗚咽をあげながら、心がゆっくりと解き放たれるのを感じた。
 僕は、大丈夫だ。傷つけられ、捨てられ、忘れられても、決して諦めずしぶとく生きていける。
 僕は、暗渠を外に向かって歩き始めた。

(初出 フライフィッシャー誌2001年9月号)

 

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