星である。 満天の星。黒い山の端に切り取られた空一杯に、無量無数の光の粒が瞬いている。ぎゅっと握りしめられそうなほどにたくさんの星。 「すげぇなぁ」 思わず言葉が漏れた。 「なにが?」 さっきから、焚き火を起こそうと必死になっている仁下が顔を上げた。 「星だよ」 その言葉に仁下も空を見上げた。細い首を長く伸ばし、後ろに倒れんばかりになって天空を探っている。 「そうかぁ?駄目だ、俺。ずっと炎を見ていたから、なんにも見えねぇや」 それでもしばらくは目をしばたきながら空に顔を向けていたが、また、チョロチョロと燃える焚き火にかがみ込んだ。 僕は仰向けに寝っ転がったまま、知っている数少ない星座を一つ、二つと目でたどっては、見えない点線で結んでいった。その間を、人工衛星がゆっくりとした足取りで突き抜けていく。 そのうちにパチパチと木のはぜる音とともに、小さな火の粉が舞い上がり始めた。淡い煙が星を追いやる。僕は体を起こし、温かく燃える炎の傍らにあぐらをかいた。仁下は、焚き火がもう放っておいても消えそうにないのを確認すると、テントに潜り込んでごそごそとやっていたが、しばらくして、フラスクを片手に、嬉しそうな笑顔とともに焚き火の向こうに腰を下ろした。 仁下が一口飲んでから、僕にフラスクを手渡す。カップに入っていたコーヒーを捨て、銀の小瓶を傾ける。浅いカップにとぷとぷと液体がこぼれだす度に、ラム酒の丸く厚い香りが立ち昇る。 「最高だよなぁ」 フウと息を吐きながら、仁下がのびやかな声で言った。僕は朝からのことを頭に思い浮かべ、その通りだと頷いた。 その日、僕たちはダム湖の脇をぐるりと回り、流れ込みを一日かけて釣り登ってきたのだった。 谷の両側では、初夏の勢いが葉の一つ一つにこもり、岩魚達も精気に満ち溢れていた。大岩の脇、倒木の陰、落とし込みの白泡。ここならいるかと思われるところにフライを投げ込むと、のんきな岩魚はころりと騙され、かわいらしい口を開けて出てくる。背中の重いザックも、その時だけは忘れることができた。 一日一杯ゆっくりと釣り登り、陽が山の端に消えようかというころ、適当な場所を探し、テントを張った。まだまだ暗くなるまで時間はあったけれど、明るいうちに夕飯をすませ、夕マズメを心置きなく釣ろうという腹だ。 薪を集めたり、米を研いだり、ストーブに火をおこしたりと、河原で忙しく立ち働くうちにびしょ濡れだったジャージもいつしか乾いてしまった。沢登りの延長のような釣行だから、ウェーダーは持ってきていない。明日はこのまま尾根へと抜け、登山道をぐるりと回って下り、出発点の車止めまで戻る予定である。 それにしても、とにかく釣れた。残念ながら大きな魚には恵まれなかったものの、手の平を少し越えるようなサイズの岩魚が、気持ち良くフライに反応してくれた。今年は空梅雨で雨が少なく、どうなるかと思っていたら、僕たちが川に入る数日前に久し振りにいいお湿りが降ってくれ、岩魚達も天からの恵みにはしゃいでいたのかもしれない。 夕マズメは、ぽつりぽつりと始まった波紋が次第に一面に広がっていき、「雨のようなライズ」とはこのことを言うのかと感動しながらフライを投げ込んだ。ここでも岩魚達は開けっ広げだった。フライを選ばなかった。水面に広がった円い皺の少し上流に落としてやると、なんの躊躇いもなくくわえてくれる。それで僕も仁下もひたすら釣り続け、とうとう辺りが真っ暗になり、フライもラインも黒い淵に溶け込んで見えなくなるまで粘って、ようやく流れを後にしたのだった。 パチパチと燃え上がる炎を見ながら、ラムを飲む。酔いが軽く回るにつれ、口が軽くなりいつものような下らない話が始まる。 「そのうちにさぁ、コンピュータとかもっと小さいのができてさ、釣りも凄いことになんのかも知んないな」 「かもなぁ」 「すっげぇ小さなデジカメを搭載した防水のボールとかできてさ、それをまず、川に流すの」 「それで?」 「水の中の様子を、腕時計くらいのパソコンに飛ばすんだ」 「魚がどこにいるか、まず確認してから、ニンフを投げんのか」 「うん。iボールとかそんな名前でさ」 「だったらいっそのこと、ホーミング魚雷じゃないけど、ニンフの頭に探知器をくっつけて、魚のいる方に勝手に泳いでいくようにすればいいんじゃないか」 「それで、魚のすぐ上流に来たら、クネクネッて泳いで見せるとか」 仁下は、ありもしないものを空想することが楽しくてならないと言ったふうに、次から次へとアイデアを出してくる。 「ドライでさ、フライの先っぽに小さな羽根がついてて、フォルスキャスティング中にこれがブンブン回るのはどうかな。ボディには小さな発電機とバッテリーが内蔵されてて、羽根が発電機を回して電気を貯めるんだ」 「それで、着水したら、パチャパチャ泳ぎ回るとか?」 「うん、カディスなら泳ぎ回ってもいいし、ビートルなんかだと足をじたばたさせるだけでもいいよな」 仁下の頭は、いつもこうした役にも立たないことでちりばめられているようだ。空想の中で作り上げたことをいじくり回して遊ぶのが好きなのだ。そして僕もそれに付き合うのが決して嫌いではない。 僕と仁下との付き合いは、長い。大学の釣りクラブで顔を合わせたのが始めだから、もう十五年近くになろうとしている。その間、僕は大学を卒業して会社に入り、結婚をし、会社を辞め、離婚をし、そしてまた会社で働いているのだが、仁下は大学を二年で中退してしまってから、ずっとふらふらしている。本人の話では、「売れない小説家」ということのようだ。しかし、文字通りまだ一つも原稿が出版社に売れたという話は聞かないし、僕も彼の書いたものを読んだことがない。それで当然作家としての稼ぎもなく、引っ越しの手伝い、コンビニの夜勤、道路工事の旗持ちと、まぁ早い話が手当たり次第にアルバイトをして生活費を稼いでいる。 しかし僕の中のどこか奥深くに、仁下のような生き方に対する憧れでもあるのか、なぜか、ほとんど世間からはみ出しかかっているこの男と僕は馬が合った。それで、今でも年に一度か二度、山奥へザックを担いで一緒に釣りに行ったりしているのだ。 空想の道具を二人であれこれ組み立ててはばらしているうちに、話はいつの間にか、仁下が書こうとしている小説へと流れていった。 「まだ、書き始めたばっかりなんだけどさ」 仁下は、ラムをちびりと舐め、こんな物語なんだとぽつぽつと話しだした。 これはある男の話なんだ。 フライフィッシングが好きで好きで堪らなくてね。寝ても覚めても釣りのことばかり考えているような男なんだ。それで、ある日、とうとう思い立って、それまで働いていた会社を辞め、川の傍に引っ越してきてしまう。幸いなことにそれまでやっていた仕事がコンピュータ関係だったから、下請けのような感じでいくつか仕事を回してもらえることになった。今はやりの在宅勤務、ソーホーってところだ。仕事の段取りなんかは、電話とファックスで済ませ、でき上がった仕事はメールで送ってしまうから、実際にどこに住んでいようが、どこで仕事をしようがあまり関係ないんだ。 おかげでかなり時間が自由に使えるようになった。仕事をする時間が減って遊べる時間が増えたというより、時間を自分の都合のいいように割り振れるようになったと言った方がいいだろう。仕事の電話がいつかかってくるか分からないから、月曜から金曜は家にいるようにしていたけれど、朝から晩までいなければならないわけではない。それで川のすぐ近くに住んでいる利点を最大に活かし、夕飯前の一時にちょっと夕マズメを楽しんだり、水棲昆虫の羽化の様子を見て、まとまったハッチがありそうだったら昼時に長めの休みをとって遊んだりするようになったわけだ。 もう、フライフィッシャーマンにとっては、理想的な生活だ。 男がのめり込んだのは、実際に魚を釣ることばかりではない。朝な夕なに川に出かけては、水温を計り、気圧を測り、気温を調べ、天気を見て、それと水棲昆虫の羽化、陸生昆虫の流下、そして一番気になる魚の活性がどんな関係にあるのか、なんとか読み取ろうとして記録をとったりもした。魚を取り巻く環境を事細かに調べ上げ、魚が餌を摂る行動のメカニズム、特に引き金となる要素を突き止めようとしたわけだ。 フライフィッシングが他の釣り、特に餌釣りと違うのはここなんだよな。餌釣りは、魚が実際に何を食べているのかを知ろうという方向には走らない。それよりも、とにかく何がより魚に魅力的かを、試行錯誤しながら進んでいく。例えば、鯉釣りに使うサナギ。どう考えてみても、自然の状態にある鯉が普段食べている物でも、食べる可能性があるものでもない。けれど、誰かがそれを試してよく釣れた、つまり鯉にとって魅力的だと分かったから今でも鯉釣りの定番餌として使われているんだ。自然の摂理を解明し、それに寄り沿うようにして釣るんではなくて、人間の作ったもので、逆に自然の方を人間に誘き寄せるようにしているんだ。ミミズだってそうさ。渓流の魚のどれくらいが、毎日のようにドバミミズを食べていると思う。そう言った意味では、餌釣りは、人類が誕生してこのかた、何万年と繰り返してきた営為の基本路線と重なるものだ。いかに自然を人間の足元に跪かせるか。そういうことだからね。しかし、フライフィッシングは、違う。あくまでも自然というでき上がった御手本が中心だ。それは、カゲロウであったり、カワゲラであったり、アリであったり、小魚であったりするけれど、とにかくフライという人工のものをいかに自然に近づけるか、そこにあるんだ。全ての芸術は自然の模倣だという言葉に従うなら、フライは芸術だと言ってもいい。 そもそもだ、ん? あれ? 俺、なんでこんな話をしてるんだ。ごめん。つい興奮しちまった。そう、男だよ。釣りに入れ込んで、川の傍に引っ越してしまったところまできたよな。 それでだ、川の様子を微に入り際に入り調べていくうちに、男はふと思うんだ。 水棲昆虫、陸生昆虫、魚、水温、気温、気圧、雨量。こういうものをいくらばらばらに測定していても、何かが抜け落ちているような気がする。それもとっても大切な何か。 外から自然を見て、部分を切り取るように調べても、駄目なんじゃないだろうか。自然の息吹、触れれば消えてしまうような微妙な変化。そういうものに耳をそばだて、現れては消えていく何かを感じ取れなければ、もっと大きな絵は見えてこない。もっと深い部分が現れてこない。複雑なものを単純な部分に分解するのではなく、複雑なものを複雑なものとして、複雑なまま理解する。そのためには自然の中に溶け込み、目、耳、そして何よりも心の眼を大きく開くことが必要なんじゃないだろうか。 川のほとりに佇むだけでは駄目だ。そこに生活を、日々の暮らしを埋没させなければ。 男は、いつしかそう考えるようになった。そして、その考えをどうしても振り払うことができなくなっていた。 アルミサッシの窓、断熱材の入った壁、スチールの屋根。暖房に冷房。雨も風も暑さも寒さもない世界。それが俺が今暮らしている世界だ。そこには自然も何もない。人工の生活。いくら機会をみつけては山や川へ出かけているにせよ、自然から遮断された中で暮らしている時間に比べたら、そんなものはたかが知れている。そして、その間にいつしか心の眼は閉ざされ、ひそかな風のそよぎ、音もなく降り注ぐ雨からどんどん遠いところにきてしまうのだ。 男は、ひと冬その思いを抱き、くる日も来る日も行きつ戻りつして考えた揚げ句、とうとう一大決心をする。 捨てよう。 家を出て、山で暮らそう。取りあえず半年間だけ、夏の間だけでも家を捨て、山にテントを張ってそこで暮らしてみよう。 男は、再び仕事を辞め、持ち物を処分した。背中に背負えるだけのものを残し、それ以外のものは売り払うか、実家に送ってしまった。 テント、寝袋、マット、小さな鍋、ストーブ、スプーン、フォーク、着替えを二組、雨具、ウェーダー、ロッドが二本、リールが二つ、小さなバイス、フック、マテリアル、スレッド。 それだけが男の所持品で、全財産となった。 男は、まず山奥を目指した。川を半日かけて遡り、釣り人も山菜取りもあまり訪れない小さな枝沢に隠れるようにして足を踏み入れる。しばらく登ったところで、流れから森の中へと下草をかき分け、辺りを歩き回って良さそうな場所を物色する。一抱えもあるようなブナの大木の下に、十二畳ほどの広さの空き地があった。 地面に散らばった枝を丁寧に取り除き、枯れ葉を集め、平らにならす。わずかながらある傾斜の向きをよく考えてからテントを張った。 ここがこれからの俺の住み家となるのだ。 とんでもない馬鹿なことをやってしまったという気持ちと、いよいよ俺は俺の道を進むのだという高揚が入り交じり、じっとしていることができない。それで荷物を丁寧にテントにしまうと、矢も盾も堪らずさっそくロッドを繋ぎ、釣りに出かけた。 もう陽はすっかり傾き、夕マズメになろうとしていた。暗い谷はますます陰鬱に沈み、両岸から重たく森がのしかかってきている。男は、一尾だけ岩魚を釣り上げると、それを石で叩いてしめ、走るようにしてテントに舞い戻った。 そうして一日が終わり、一週間が過ぎ、1ヶ月が経った。その頃には山暮らしにもすっかり馴れ、どこに行けば山菜があり、どの斜面に木の実が多いかもわかってきた。そればかりではない。翌日雨が降りそうか、それとも晴れそうか、なんとなく予想ができるようになってきた。はっきりと意識して分かるのではないけれど、明日のことがなんとなく気にかかり、少し多めに食料を集めておくと、決まって翌日は荒れるのだ。そしてそんな日は、激しい雨と風にやられ一日テントに閉じこめられながら、ふと、前日いつもより岩魚の食いが立っていたことを思い出したりする。 そうか。岩魚も俺も同じか。やっと、俺も自然の一部になりつつあるわけだな。 男は嬉しくなったが、それでも、まだ足りないものがあるように感じられてならなかった。しかし、それがなんであるのか、漠として分からない。 やはりある激しい雨の日である。テントの中で寝転がりながら、男はぼんやりと、しかししつこくその事を考え続けた。 もう少しで向こうに抜けられそうなのに、何かが俺の目の前に立ちはだかって邪魔をしている。俺のすぐ目の前に。 あ、これか。 このテントか。 ぺらぺらのたった一枚の布きれとはいえ、チャックを降ろした途端、外界から切り離された俺だけの小さな世界を作ってしまう。こじんまりとして居心地がいいけれど、自然に背を向けた世界。 男は、何度も拳でテントを打ち付けた。その度に、パサンパサンと頼りない音がして、フライとテントが大きく撓んだ。 雨が止むと、すぐさま男はテントから飛び出し、すぐに作業にかかった。近くから手ごろな立ち木を三本切り、それをほぼ身長の間隔で地面に置いた。それを横木で端を繋ぎ、一回り長い木をそれぞれの連結部分に結び止める。そして横木を持ち上げて立てれば、小屋掛けの骨組みの出来上がりである。さらに横木を数本付けたし、それに小枝、シダの葉などを幾重にも挟み込んでいけば片流れの小屋となる。もっとも斜めの屋根が片側にあるばかりで、他には壁も何もないから、かろうじて雨はしのげるものの、風は自由に走り抜ける。小屋というにはあまりにもお粗末なものだ。しかし、これこそ男の求めていたものだった。 粗朶を集めてささやかな焚き火を起こし、小さな鍋に山の恵み、森の宝、川の命を入れ、ありがたくいただく。枯れ葉の寝床に横になり、ちろちろと燃える炎に暖められながら、男は初めて自分が山に溶け込み、同じ世界で息をしているのだと感じることができた。 それからも男は毎日のように川へ出かけては釣り続けたが、もう魚を手にするためばかりではなくなっていた。流れのフライを目で追いつつ、谷を降りてくる風の匂いを嗅いだ。森の中をさ迷いながら、虫の息吹を聞いた。魚と戯れながら、水の優しさを吸い込んだ。 男は川、森、虫、そして魚を全身で感じているのが分かった。考えるのではない。染み込んでくる微細な呟きを、壊さぬようにそっと掬い上げ、心の眼で愛でるのだ。 そして、ついにある日、男は偉大なる自然の崇高な声を耳にした。 その頃からである。その川に入る釣り人の間で、男のことが噂されるようになったのは。 「なんか浮浪者みたいなやつが川にいるんだよな。こんなとこになんでいるんだろうと思ったら、そいつ、フライフィッシングやるんだよ。浮浪者がだぜ」 「知ってる、知ってる。俺も見たことあるよ。でも、やたら上手くなかった?」 「そうなんだよ。俺が釣った後から登ってきて、ビシバシ釣っちゃうんだよな」 「あ、それなら、僕、話をしたことあるよ」 「え?あいつと?」 「いつもの淵があるじゃん、あそこで夕マズメ待ってたら、そいつがいつの間にか横にいてさ。薄暗くてよく見えなかったから、僕、普通の釣り人だと思って挨拶したんだよ。そしたら、その例の浮浪者でさ」 「それでどんな話をしたわけ?」 「いや、話っていっても、ほとんどなくてさ。で、これから出るのは何々カゲロウだって言ったきり、あいつは淵の頭の方に行っちゃったんだ。その時には俺もあいつの着てる服とかしっかり見ちゃったから、そばに行く気にもならなかったし」 「ふーん」 「で、驚いたのがさ、その日、本当にそいつの言った通りのハッチが始まったんだよ」 それからも似たようなことが何度も重なるようになり、その川に入る釣り人の間では彼のことが広く知られるようになってきた。 どこからともなく忽然と姿を現し、その日のハッチをぽつりと言ったかと思うと、次から次へと魚を釣る。そして、ふと気がつくと、いつの間にか姿を消している。 男の評判が高まるにつれ、わざわざ探しだして、その日、どんな虫がハッチするのか、流れてくる陸生昆虫は気にした方がいいのかなど、お伺いをたてる釣り人も現れるようになった。 男は訊ねられれば、嫌な顔をするふうでもなく、じっと空を仰ぐ。目をつぶり、まるで風の中に答えを探しているかのように、顔を四方に巡らせる。そして、一言、二言、虫の名前を漏らすのだ。 男が言い当てるのは、その日のハッチばかりではない。マスキングハッチ、つまり目立って羽化している水棲昆虫の影で、ひっそりと羽化し、しかも魚の目はそちらに向いているような、水面下での活動まで男は的確に予言した。 釣り人は驚愕した。 ただ、たくさん釣るだけの釣り人ならいくらでもいる。優れたテクニックの持ち主、そういうことだ。そして、テクニックなら盗むことができる。 しかし、男の言葉は違う。それは、予言、お告げ、いや、神の詔であった。大いなる自然の霊が男に乗り移り、男の口を通じて御言葉をくださるのだ。 「おい、仁下、ひょっとしてさ」 そこまで仁下の話を聞いていて、僕は口を挟まずにはいられなかった。 「なんだよ?これからがいいとこなのに」 「それって、ひょっとして、男は神の言葉を伝える者、フライフィッシングのシャーマン、つまりフライフィッシャーマンって、落ちじゃないだろうな」 仁下は、僕の言葉にぎょっとした顔をして、それからがくりと肩を落とした。小枝を一つ焚き火に放り投げてから、やっと口を開いた。 「だ、駄目かな」 僕は言葉に詰まった。 小枝がパチパチと炎をあげた。 「んん、小説のことはよく分かんないけど、実際そんな風にハッチが分かったら、いいかもな」 「うん」 仁下の小説もいつかは売れることがあるのだろうか。売れるといいのにな。 僕はそう思いながら、ラムを飲み干した。
(初出 フライフィッシャー誌2001年8月号)
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