俺がその男を見かけたのは、ある管理釣り場だった。 梅雨入りにはまだ早いというのに、連日降り続いた雨のせいで、いつものお気に入りの川は濁ってしまいどこも釣りにならなかった。それで、ふと近くにある管理釣り場を思い出し、ここまで来たならと足を伸ばしたのだ。 あちこち釣り場を回ったおかげで、すっかり時間を食ってしまい、ロッドを継いだのはもう昼近かった。その頃にはようやく雲も切れて晴れ間が広がり、暑い夏を予感させる太陽が顔を出した。埃を洗い落とされた初夏の息吹が、辺り一面にきらきらと眩しく輝いている。 週末ということもあり、場内にはかなりの人が来ていた。カップルの姿も多い。その中で一際目立っていたのが、その男だった。 男はいかにも手慣れたという雰囲気で、ベストも着ず、サンダル履きでロッドを振っていた。しかし、人目を引いていたのは、男の容姿や格好ではない。とにかく釣るのだ。ほとんど、ワンキャストワンフィッシュではないかと思われるほどに、次から次へと魚をかけては足元に寄せていく。 俺は池の反対側からちらちらと見ていたのだけれど、しかしその素晴らしい釣果に反して、決して彼の釣りが上手いとは思えなかった。まずキャストの手首は開き気味で、バックキャストは地面を打ちそうだったし、ラインのループものたくっている。フライのプレゼンテーションはお世辞にも滑らかとは言えない。その程度の腕でもあれだけ釣れるのだから、よほど良いポイントに立っているに違いない。 そう考えたのは俺ばかりではないらしい。いつの間にか、彼の両隣で釣っていた人達が彼ににじり寄っていき、今では、手を伸ばせばぶつかりそうなくらい近づいている。 彼はそれに文句を言うでもなく、あろうことか、あっさりとその場所を離れ、池の反対側に回ってきた。そして、俺の隣でロッドを振り始めた。 俺が釣っていた場所は、それまでぽつぽつとしか当りがなく、いっそのことエッグフライでも使おうかと考えていたくらいだ。しかし、男はほんの数キャストで、一尾目をかけ、後は対岸と同じだった。 俺は目を見張った。まるで池中の魚の群れをそこに引き寄せたかのように次々に魚を引きずり出すのだ。 俺は、男が魚の口からフライを外すのを興味津々で盗み見た。どうせ、エッグフライだろうと思ったのだ。しかし意に反して、これと言って特徴のない、どこにでもありそうなニンフを使っているではないか。エッグフライを思わせる派手な色が入っているのでも、艶めかしく動くラバーレッグが巻いてあるのでもない。平々凡々なヘアーズ・イヤ。俺にはそうとしか見えなかった。 俺は、さっそくフライボックスを漁り、同じような大きさの同じような色のニンフに替えた。しかし、まったく釣れないとは言わないが、男の釣果を前にすると、みすぼらしいの一言に尽きた。それほど大きな差があった。 何が、違うのだ。リトリーブか? それで男のリトリーブを真似ようとして、愕然とした。何もしていないのだ。ただ投げて放ってあるだけ。そして、しばらくするとラインがツツと引き込まれ、魚がかかっているのだ。 なんだ、こりゃ。そうか、さては、、、。 きっと男は、フライにシュリンプオイルか何か、そんなものを塗り込んでいるに違いない。いわゆる集魚材だ。 卑怯なやつだ。 そう心では思っていても、やはり隣りで次から次へと魚をかけられると穏やかではいられない。それで、つい皮肉の一つも言いたくなろうというものだ。 「随分と釣れますねぇ。よっぽど、特別な仕掛けでもそのフライにはあるみたいですね」 男は、ちらとこちらを見て、鼻で、ふっと笑った。その様子がいかにも人を小馬鹿にしたようで、カチンと来た。 「何を塗り込んでんだか知らないけれど、そうまでして魚を釣りたいもんかね。それならいっそのこと、素直に餌釣りでもやりゃあいいのに」 「ふん、なんにも分かっちゃいないくせに」 男が水面を見つめたまま毒づいた。 「なんだとぉ。フライフィッシングッてぇのは、魚の食べるもの、虫や小魚、そういったものを一生懸命真似したフライで釣るからこそ、フライフィッシングじゃねぇか。そんな、おかしなもんフライにすり込むくらいなら、餌でやれって言ってんだよ」 男は下を向いて、くっくっと笑った。 「俺が、そんなチンケなことをしていると思ってんのか。自分が釣れないからって、ひがむのもいい加減にして欲しいな」 「なにをぉ」 「そうだろ。お前さんが釣れないのは、お前さんの腕のせいだぜ。試しにこのフライを使ってみるか?え?」 そう言うと、男はティペットを歯で噛みきり、俺の目の前にニンフを突き出した。 「いらねぇよ。そんなインチキフライで釣ったところで、嬉しくともなんともねぇからな」 「へっ、強がりを言ってやがる。大丈夫だよ、心配すんな。例えこのフライを使ったところで、お前は魚一匹、ピンコ一匹釣れやしねえから」 「ば、馬鹿にしやがって」 俺は、切れた。男の胸ぐらを両手でつかんで揺さぶった。しかし男は脅えるふうでも驚いた様子もなく、それどころか、うっすらと笑みさえ浮かべている。 「余裕かましてんじゃねぇよ」 俺は、いきなり頭突きを食らわせ、鳩尾に右のパンチを力いっぱいめり込ませた。男は、地面に崩れ落ちると、腹を抱えて苦しそうに呻き声をあげた。 それまで、恐々と見ていた回りの誰かが、係りの人間を呼んできたらしい。 「お客さん、喧嘩するんなら、よそでやってくださいよ。ここはみんなで楽しく釣りをするところなんですから」 慌てて走ってきた茶髪の若い係員が男の傍らにしゃがみ込み、俺を睨みつけた。 「大丈夫ですか」 係員が男の顔を覗き込む。男は、しばらく咳き込んでいたが、茶髪の手を借りてようやく立ち上がった。時折苦痛に歪んだ男の表情が、なぜか笑っているように見える。 「二人ともちょっと事務所まで来てもらいます」 俺は、仕方なく男と茶髪の後について、管理事務所まで歩いていった。ふと気づくと、いつの間にか左手に男のニンフを掴んでいた。 ちぇっ。 俺は舌打ちしながら、フライを池に投げ捨てた。魚でも寄ってくるかと思ったが、何も起こることはなく、そのまますぐに見えなくなった。 事務所には、俺より一回りは年のいってそうな、赤ら顔のおやじが不機嫌そうに待っていた。 「あんたらな、何しにここに来たんじゃ。釣りだろうが。遊びだろうが。それを、なんだ。大人げもない」 俺達が事務所に入ると、おやじは苦々しげに口を開いた。俺は窓の外を見ながら、不貞腐れておやじの説教を聞いていた。男はわき腹をさすりながら、おとなしく頷いている。 「金は返すから、二人とも、今日のところはもう帰ってくれ」 おやじのきつい言葉に、男は殊勝にも頭を下げた。 「いえ、お金は結構です。もしよかったら、これで私は帰らせていただきます」 ちょっと意外だった。先に手を出したのは俺なのだ。しかも、いくら喧嘩両成敗とはいえ、俺の方が一方的に殴っているのだ。しかし男はそのことを一切抗弁しようとはしなかった。 男は、おやじ、茶髪に深々ともう一度頭を下げ、しかも、俺にまで軽く会釈をして出ていった。 とんでもねぇ腰抜けやろうが。 そう思いつつ、何か釈然としないものが残った。これまでに何度も喧嘩をしたことはあるが、どんなに弱いやつでも、俺がもう手を出せないと思うや、何か捨てぜりふを言ったり、睨みつけたりするものなのだ。しかし、男はまったくそんな様子もなく、むしろさばさばとした表情で、すたすたと歩いていってしまった。それが何か不気味に思われた。 ひょっとして、ここはこうして取り繕っておいて、後でこっそりと仕返しでもしようというんじゃないだろうか。 俺は、事務所を出ると、辺りに目を配りながら駐車場に向かった。その目の前を、黒いステーションワゴンが走り抜けていく。運転席の男が、すれ違いざま、ちらりとこちらを見やった。あいつだった。一瞬、目と目が合う。睨みつける俺の視線を受け流すかのように、男はさっと顔を前に向けた。その表情は、下唇を噛みしめ、しかも頬が緩み、まるでこみ上げる笑いを堪えているとしか思えなかった。 しまった。きっと、何かやりやがったに違いない。 慌てて車に駆けより、あちこち丁寧に調べてみたが、しかしどこもおかしいところはない。当たり前だった。沢山停まっている車のどれが俺のものかなんて、あいつは知りようがないのだから、何もできるはずがなかった。 俺は、ほんの少しでもびくついた自分に腹が立ち、舌打ちをして車に乗り込んだ。 次の週末は、高速で夜明けを迎えた。真っ黒い空の片隅が白み始め、そのうちバックミラーに深いオレンジ色の太陽がゆっくりと昇ってくるのがまぶしく映った。カーステレオからは、志ん生の渋いけれどどこかとぼけた声が流れてくる。「幾代餅」が終わり、お囃子とともに「二階ぞめき」が始まった。吉原に行ったつもりになった若旦那が、ひやかしをしたつもりになって、おまけに往来で喧嘩をしているつもりになっている様が生き生きと浮かび上がってくる。丁稚小僧がそんな騒がしい様子を二階に覗きに上がるところで、釣り場への入り口に着いた。 さっそくロッドを継いで、流れの様子を見る。他に車は停まっていないから、先行者はいないだろう。 俺は、小さなドライフライを結ぶと、流れのヨレや石の脇などをこまめに狙いながら、上流へと向かった。 しかし、どうしたものか、その日は魚の反応がまったく悪い。おかげで昼近くになっても、魚の顔を見ることができなかった。ここならと思ったところにフライを投げても魚は飛び出さなかったし、それにライズもまったくなかった。 こりゃ、ドライは諦めてニンフかな。 俺は、フライを切ると、ベストからニンフ用のフライボックスを取りだした。 さて、どれにするか。 ボックスを開けて、俺は目を疑った。そこには、あの管理釣り場で会った男が俺の目の前に突き出したニンフが入っていたのだ。 な、なんだ? あの男の笑いを堪えたような顔が頭に浮かんで、俺はむっと来た。 なんで、俺のフライボックスにこのフライが入ってるんだ。どうやって、あいつは入れたんだろう。 ひょっとして、掏摸か何かなのかもしれない。俺や事務所にいた人間の注意を一瞬でも逸らしておいて、素早くフライを潜り込ませたに違いない。それが首尾よく行ったものだから、笑いを堪えていたのだろう。 ちくしょう。 俺は、そのニンフを摘みだし、捨てようとした。 しかし、フライを手にした瞬間に別の考えが浮かんだ。 本当にこのフライが効くのかどうか、試してみようじゃないか。 俺は、誰も見ていないか確かめるように辺りに頭を巡らせてから、ニンフをティペットに結んだ。そして、ティペットとリーダーの結び目に小さな毛糸の目印を挟み込んだ。 もうドライフライで何度も狙った瀬脇の、流れが柔らかな波となっている所にニンフを流し込んだ。 一投目。二投目。三投目。 何も起こらない。やっぱり駄目かと思ったときだ。目印が上流に走り、俺は反射的にロッドを立てた。 幅広の山女魚が流れを一気に横切り、泡瀬の下で反転してジャンプした。 おし、来た。 ヤマメが走るたびにロッドを矯めてどうにかいなし、細いティペットを気遣いながら、柔らかいロッドの腰を使ってゆっくりと足元に寄せ、ようやくネットで掬い上げた。フックを外しながら、嬉しいような、しかしどこか悔しいような素直に喜べない複雑な気分だった。 このフライで釣れてもな。 そう思いながら、なんの考えもなく、いま魚が出たばかりの瀬脇にまたフライを落とした。期待もせずに小さな赤い目印を目で追っていると、一メートルも流れないうちに横に走った。まさか魚がかかるとは思っていなかったから、一瞬気後れして、合わせのタイミングが狂ってしまい、こつんという手応えだけが手の中に残った。 しかし、どんなものが塗り込んであるのか知らないけれど、集魚材の威力は凄いものだと感心せずにはいられない。見た目が本物の虫そっくりで、しかも本物以上のいい匂いがするのだから、魚にすれば堪らないだろう。 俺は、それからの半日、このインチキフライを使って釣り続けた。それこそ、面白いように魚があちこちから出てきては、フライをくわえてくれる。プレゼンテーションもリトリーブも大して気にすることなく、適当な場所に投げ入れると魚の方からフライを見つけて口にしてくれる。そんな感じだった。ふと、管理釣り場で見た男の釣りを思い出した。 これなら、あいつでも釣れるよな。 どれくらいの数の魚をかけたろうか。普段の倍どころではなかった。初めのうちは、次から次へと出てくる魚に、心が舞い上がりひたすら投げては釣り、投げては釣りを繰り返していた。しかし一日が終わるころには熱気も冷め、なんだか馬鹿らしくなってきた。 たくさんの魚を釣りたい。 それはそうだ。その気持ちは俺にもある。だからこそ、ああでもないこうでもないと苦労するのだが、このフライはその答えではない。なにと明確には言えないが、根本から間違っている、そう思ったのだ。 それで、川から上がるときに、切ったフライをベストのパッチにつける代わりに、近くの草むらに投げ捨ててしまった。ちょっと勿体ない気がしないでもなかったが、せいせいした気分になったのも確かだ。 その夜のことだ。 もう12時近くなり、明日の仕事もあるからそろそろ寝ようかと思っていると、誰かがドアをノックした。 こんな時間に誰だろうと不思議に思いながらドアを開けると、そこには女が立っていた。廊下の蛍光灯のせいか妙に肌の色が白く、顔がぼんやりと浮き上がって見える。 「はい、なんでしょうか」 「フライを巻きに来ました」 「は?」 俺は、彼女の言っていることが分からなかった。 「今日あなたが川で無くされたフライを、巻きに上がりました」 彼女はそう言うと、頭を下げた。 俺は、気味悪くなって、ドアを閉めようとした。頭のおかしい女とかかわりあいになるつもりなど毛頭ない。しかし、それよりも一瞬早く彼女の手がドアにかかり、凄まじい力でドアを引き開けた。とても女の力とは思えなかった。 「な、なにをするんだよ」 うろたえる俺を彼女はまったく無視して、そのまま部屋に上がりこんできた。そして、真っ直ぐタイイングデスクに向かうと椅子に腰を下ろした。 「おい、人の家に勝手に上がって、何をするつもりだ。警察を呼ぶぞ」 女が顔を向けた。均整のとれた美しい顔だが、肉感的なものがすっぽりと抜け落ち、感情というものが微塵も感じられない。温かさはもちろん、冷たさすらそこにはなかった。そして彼女の目は確かに俺に向けられているのだが、俺を通り越して、何か遠くのものを見ているようだった。俺はその瞳の力に押さえ付けられたかのように、何も言えなくなっていた。 女は、再びタイイングデスクに向き直り、両手を合わせ、軽く頭を下げた。何か祈っているように見える。背中の中ほどまで真っ直ぐに伸びた髪の毛が、女の頭が動くたびにはらりと肩から崩れ落ちる。 しばらくしてようやく顔を上げ、机の上にあったフックをバイスに挟みこんだ。 それから女は額にかかっていた髪の毛の一本を人さし指と親指で摘んでプツリと引き抜き、それを器用にフックに巻きだした。フックの終わりまで行くと、今度は眉毛を抜き、それをフックの上に乗せ、髪の毛で巻き止めている。 俺は、女がフライを作る様子をまばたき一つせずに見ていた。決して見たくて見ていたのではない。目を離すこともつぶることもできなかったのだ。 五分も経ったろうか。女は指先で髪の毛をくるりと回して結び止め、余った分を歯で噛みきった。ぱちりと微かな音が響く。それから、両手をフライの上にかざし、目をつぶって何かぶつぶつと唱え始めた。 そうしながら、両手はゆっくりと上がっていき、額の高さまで来たときである。声とも息ともつかないフンッという音とともに、まるで何かをフライに押し込めるように両手を力強く下ろした。 女はフライに一礼すると、突然立ち上がり、今度は俺に向かって深々と頭を下げた。そして俺の脇をすり抜け、部屋から出ていった。 ドアが閉まった瞬間、俺はその場にへなへなと座り込んでしまった。体中の力が抜け、大きく息が漏れる。 なんなんだ。なんだったんだ、今のは。 次第に混乱から抜け出してくると、今度は女の巻いたフライが気になってならない。しかし、近くで見るのが恐かった。何か禍々しいものがタイイングデスクの回りに渦巻いていて、そばに寄れば取り込まれるような気がした。 とうとう俺は意を決して、這うようにしてタイイングデスクの近くに行った。バイスに挟まれていたのは、俺が川で捨てたのとまったく同じフライだった。 それからの俺の生活は地獄と化した。 あの夜、俺は眠ることもできず、一晩まんじりと過ごした。そして、明け方、とうとう堪らなくなって、フライを窓から捨てたのだ。しかし、仕事から帰ってくると、バイスには同じフライが元通りに挟み込まれている。確かにここから捨てたはずなのにと、窓から外を見ると、あの女が電信柱の横に立ち、何も言わずにこっちを見ているのだった。何度捨てても、どこに捨てても同じだった。翌朝には必ずバイスにフライが帰ってきているのだ。 そればかりではない。休みの日に俺が釣りに行かないと、あの女が現れるのだ。何をするわけではない。ただ、影のように立ち、俺を見ているのだ。車で隣りの町に出かけようが、ガールフレンドと映画を見に行こうが、必ず雑踏のどこか、あるいは通りを隔てた店のガラス越しに立ち、じっと俺に目を向けているのだ。訴えかけるのでも懇願するのでもない、何もない虚無の視線を俺に射掛けるのだ。 例え、釣りに出かけても、あのフライを使わないとどこかにあの女の視線があった。対岸の生い茂った暗い葉陰の中、あるいは覆い被さるような岩の上から、あの女が俺を見ているのだ。 そして、あのフライを結び、流れに投げ込んだ途端、それは消え去るのだ。ふっとあの女がいなくなるのが、俺には分かった。 そのフライを使えば、たくさん魚が釣れるのだから、いいじゃないか。 そう思うかもしれない。とんでもない話だ。何をやっても魚が出てくるフライなど、苦痛以外の何ものでもない。ドラッグがかかろうが、ぼちゃりと派手な水しぶきとともにラインが水面を叩こうが、ポイントからまったく外れたところにフライが落ちようが関係ないのだ。放っておいても魚が勝手に食ってくれるのだ。目をつぶってもバットを振れば、必ずホームランになるとしたら、誰が野球をするだろう。それと同じことである。 毒を食らわば皿まで。そう思って、このフライを高く売りつけようかと考えたこともある。どんな下手くそでも魚が釣れまくるフライなどそうそうあるものではない。それに巻くのは俺じゃない。なくなれば、勝手にバイスに新しいのができ上がっている。 しかし、その企みも灰燼に帰した。あのフライの威力が効くのは、俺だけなのだ。他の誰に渡しても、ただのフライ以上に釣れることはなかった。 それで俺は、魚がただひたすら釣れるだけの、面白くもなんともない苦行に休みの全てを費やさなければならなかった。あの女の視線から逃れるためだけに、俺は毎週末、川や湖に行かざるを得なかった。 そうして俺は、初めて管理釣り場の男の笑いの意味が分かった。あの時、あいつはこのフライから開放されたのだ。俺があいつを殴り倒した瞬間から、フライは俺のものになってしまったのだ。 誰でもいい。魚が釣れて釣れて釣れまくる俺のことを嫉んでくれ。そして、思いきり殴り倒してくれ。 頼む。
(初出 フライフィッシャー誌2001年7月号)
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