なんだか、大変なものを見つけてしまったようなのです。
 事の始まりは、去年です。私事で恐縮ですが、弟が結婚をすることになりまして、その結婚式に出るため久々に日本に帰国いたしました。日本に戻りますのは、ちょうど、三年ぶりになりますか。東京の街をふらふらと歩いていると、ガングロだ、ヤマンバだ、茶髪だと訳がわからないうえに、一台の携帯で誰かとしゃべりながら、もう一台の携帯に親指使いも器用に何か打ち込んでる女の子がいたりして、見るもの聞くものほとんど浦島状態でした。
 ま、それはさておき。
 日本に帰ると、大概は二週間ほど滞在します。いつもは仕事の営業であちこち都内を走り回るのですが、今回は結婚式もあるので、仕事は程々にのんびりと過ごすことにいたしました。もっとも結婚式なんて一日で済んでしまいますから、これこそ本当の言い訳です。
 予定をうまく組み、北海道に一週間ほど知り合いと鮭釣りに出かけたりもしました。日本で釣りをするのは実に十五年ぶりです。シロザケとカラフトを狙ったのですが、産卵遡上魚の釣りだから、私の地元、トンガリロ川の遡上ランとまったく同じ方法で釣れるに違いないと読んで行ったところ、これがドンピシャリ。釣り方も、魚のいるポイントの読み方も同じ方法が通用し、まさに我が意を得たりでした。
 それで、喜び勇んで東京に戻ってきたのですが、いくら営業回りはしないとはいえ、やはり何軒かはご挨拶に行かないといけません。普段からおつき合いをしていただき、何かとお世話になっている所にお礼かたがた顔を出すことにいたしました。
 ある旅行関係の雑誌の編集部をお訪ねしたときのことです。この会社は神田にありまして、JRだったらお茶の水の駅を降りて、明大の前の坂をずっと行った先を曲がると、ちょっと古びた感じの町並みにぽんと洒落たビルが建っております。その一室が編集部になっているのですが、エレベーターで4階に上がり、ドアを開けると、いきなり編集部です。受け付けも何もありません。いつもお邪魔するたびに感じるのですが、ドアを開けるのに少し勇気がいります。
 さっそく編集部の皆さんにご挨拶と近況報告をし、それから編集長とよもやま話をいたしました。実は編集長が釣り好きで、もう十年近く前にニュージーランドに釣りに来られたときに知り合い、それ以来おつき合いさせてもらっています。
 私としては、久し振りの日本なんで、このままこぢんまりとした居酒屋かなんかに雪崩れ込んで、炙り物を肴に日本酒でも傾けながら釣りの話もいいなと思ったのですが、ちょっとそれは無理な相談というもの。なにせ、秋の日はつるべ落としのその太陽が、まだ天辺で元気に輝いているのですから。私はその日はなんの予定もなかったので、真っ昼間から酔っぱらってもいいお気楽な身分ですが、まだ就業時間中です。まさか仕事をさぼって一杯飲みに行きましょうと誘うわけにも参りません。
 それで、お仕事の邪魔をこれ以上してもと、早々にお暇することにいたしました。
 明るい昼間から、しかも一人で飲んだりしていると、身体の回りから退廃の饐えた匂いが漂いそうです。それでとりあえずお酒は諦め、とにかく小腹が空いたので、どこかでなにか食べようと思い、ラーメンにでもするかとぶらぶらと歩いておりますと、神田はご存知、古本の街。あちこちに古書の看板が出ております。それで、ここまで来たついでに、覗いてみることにいたしました。
 海外に住んでいて何が不便といえば、日本の本が手に入らないことです。だいたい、本というものはまず手に取って、ぱらぱらめくって、新聞の書評を思いだしながら、買おうかどうしようかと考えるものです。しかし、海外にいるとそれができない。たまに日本に帰ったときに、タイトルを見て、己の直感だけを頼りに、えいやと買い漁っていくことになるのですが、この直感がよく外れてしまうわけです。情けないやら、腹が立つやら。
 この時も、新刊やら古本やらをあちらで一冊、こちらで二冊と買い求めておりました。もちろん神田古書センターにも足を向けました。この中には自然関係のものを広く取り揃えた店があり、本を買わずとも、勉強の意味でも本屋巡りから外すわけにはいきません。
 さて、あれこれ買い込みすぎてもうデイパックにも入らないし、クレジットカードの請求も恐いので、そろそろこの辺で切り上げて飯にしようと思い、スズラン通りを抜けて、路地を曲がってうろうろとしておりますと、ふと、ある古本屋が目に付きました。正確には、窓越しに積み上げてあった釣り新聞の山に気づいたのです。新聞というのは、情報の鮮度が命ですから、三日前のものなど誰も見向きもしませんが、しかし二十年前、三十年前となるとこれが逆に読んでいて面白い。それが特に釣りのこととなれば、なおさらです。
 中に入ってよく見ると、新聞は紐でぐるぐる巻きにされ、値段もついておりません。きっと誰かが持ち込んだまま、まだ鑑定もしていないのか、それとももう捨てるつもりでいるのか。奥の小さな机に向かって無愛想に本を読んでいた主人に値段を訊ねたら、じろりと睨んで、五千円、とそれだけ言う。いくら何でもこんな古新聞に五千円は高い。それで、三千円なら買うけどと言うと、いともあっさりまけてくれたのでした。しまった、ひょっとして馬鹿な買い物をしたかなとは思いましたが、今さら後には引けず、しかたなく重たい新聞の束を手に店を出ました。
 その時に買い込んだ本やら新聞やらは、翌日、すべて段ボール箱に入れ、船便でニュージーランドの自宅に送りました。自分で持って帰るには重くて難儀だし、それに飛行機で荷物の重量がオーバーしたら、馬鹿高い超過料金を請求されてしまいます。
 そして、それが先月やっと届いたのです。自分で送っておきながら忘れたころに着くので、まるでプレゼントを貰ったようで嬉しく感じます。中に何が入っているか知っているはずなのに、ウキウキしながら箱を開けました。
 本棚に整理しようと、古新聞の紐を解き、つい、ぱらぱらとめくっていると、中からばさりと落ちたものがありました。何やら薄汚れ、みすぼらしい物です。よく見れば、和紙が紐綴じにしてあり、皺だらけ染みだらけの随分と古そうな冊子です。表紙には、どこか武骨さを感じさせる筆遣いで、「輝額庵日々」と大書きされ、左隅に田村清鱗と記されてありました。
 これは古そうなものが出てきたなと驚くと同時に、ひょっとしたら掘り出し物に巡り当ったのかもと、好奇心と期待がまぜこぜになって湧き上がりました。さっそくページをめくってみたのですが、なにせ手書きで読みづらいうえに、あちこち虫食いがひどく、まず文字を判別するのにやたらと時間がかかります。一文字ずつクイズを解くかのごとく頭を捻り、やっと最初の一文を読み解くことができました。
「山沢にあそびて、魚鳥を見れば、心楽しぶと、古人いへり。また、人遠く水草清き所にさまよひありきたるばかり、心なぐさむ事はあらじとも。
 滅形合器、貝杓子、古蓆の朝露。一人、草の庵に篭り、風の夕暮れ、雨の朝に、つれづれに、釣りに通ひしさまを、ここに記さん」
 拙いながらも現代語訳をさせていただくと、次のようになりましょうか。
「山や谷で遊んで、魚だの鳥だのを見ていると、心が和むと昔の人は言っている。また人里離れた水草の綺麗なところを、そぞろ歩きすることほど心が慰められることはないとも。
 欠けた食器、貝で作った柄杓、そして朝露に濡れた古いムシロ。そんなあずま屋に一人で暮らし、風の吹く夕方や雨の朝に、ぶらぶらと釣りに行っている様子を書いておきましょう。」
 どうやら、これは釣り日記のようです。次のページの頭に書かれた、最初の日付を見てみますと、天明五年卯月四日となっておりました。
 はて、これはいつごろのことなのだろうと調べてみたら、西暦で言えば1785年、江戸時代後期のことではありませんか。そんなものがどうして釣り新聞の間に入っていたのかは想像すらできませんが、これは江戸時代の釣りに関するかなり貴重な資料となるのではないでしょうか。
 ビールを飲みながら初めの数ページをよちよち読んでの印象は、田村清鱗と言う人は、かなり釣りにのめり込んでいた様だということでした。日付の間隔から察するに、三日と空けず竿を握っておりますし、どうしたらもっと釣れるか、その工夫が細々と記されていたのでした。
 私は、この田村清鱗という人に興味をもち、彼の生い立ちなどを調べてみることにしました。
 最近はインターネットの発達で、随分と便利になりました。海外の、しかも片田舎に住んでいても、検索で様々な資料を探せるだけでなく、人によっては、突然のメールでこちらの勝手なお願いごとをご相談しても、快く聞いてくださったりします。その結果おぼろげながら浮かび上がってきた史実によれば、田村清鱗は、延享三年、西暦1746年に豊後の国に生まれた人で、父は臼杵藩の小吏でした。清鱗はかなり頭が良かった人のようで、藩校だけでなく、長崎にまで留学して当時の最先端の蘭学を学んだようです。江戸時代の異能的天才である平賀源内とも交わりがあったらしく、一時は彼に師事していたのではないか、という説もあるとのことでした。
 しかし、それだけ優秀な人でありながら、宗家稲葉家に仕える家老達の派閥争いに巻き込まれ、社会的にはかなり不遇な一生を送りました。「輝額庵日々」が綴られ始めたのが、彼が三十九歳の頃のことですから、そんなうっ屈した思いが彼を釣りに向かわせたのかもしれません。
 背景はさておき、実際の釣り日誌ですが、まず当時の釣り道具のことが伺い知れてなかなか興味深いものです。田村清鱗は、どうやら随分と凝り性で、使う道具にもうるさく、「馬素は、当歳牝馬を以てよしとし、それ以外は使うあたわべからず」だそうですし、釣り鉤は、関の刀鍛冶で自身も釣りをたしなむ欽衛門のもの、竿は仙台の竿師、吉蔵が作った庄内竿と決めていたようです。
 しかし、しばらく読み進めても川の名はなかなか記されておらず、「件の川にて」とか「さる川の上流に行きし折りに」とだけ書いてあることが多く、昔も今も釣り場を他の人に知られたくない釣り師の気持ちは変わらないのだなと微笑ましくなりました。
 また、日記はその日に釣れた魚の報告ばかりでなく、釣りにまつわること、魚に関することなど広範囲に及んでいます。たとえば、天明五年霜月十日の箇所には、こんな記述が出てきます。
「朝より、雨。新左衛門来たらず。本朝二十不孝、巻の三に曰く、此川に、江鮭の魚、住みけるに、武太夫、水練をえて、是に入、てどらえにして。とあり。あめのうお、いかなる魚なるべし」
 真冬で寒いうえに雨まで降って釣りにも行けず、来る予定の知り合い、もしくは釣友も来ず、それで井原西鶴の「本朝二十不孝」を読んでいたら、なかにアメノウオなる魚が出てきた、これはなんだろうと訝しがっているわけです。清鱗が豊後の国、今の大分県で釣っていたのは、エノハと呼ばれるアマゴです。アメノウオと言う名前は聞いたこともない。だから、このアメノウオがどんな魚か分からない。日記のこれに続く部分では、「延喜式」やら「倭名鈔」まで引き合いに出して、色々考察しており、水に潜って手づかみにしているところ、また「江鮭の魚」と言う漢字を当ててあることから、鮭に近い魚だろうと推測しています。問題になっている箇所の「本朝二十不孝」を読んでみますと、これは陸奥の方で漆を偶然探し当てた成り金の話で、川はどうやら阿武隈川のようです。となると、このアメノウオは、サクラマスの可能性が高いですから、清鱗の推察もなかなか鋭いと言えましょう。
 田村清鱗は、こうしてしかめ面して魚のこと、釣りのことばかりを考えていたわけではなく、むしろ、かなり粋な人でもありました。それは、釣りの記述、あるいは友達と飲み交わした話の合間などに、時折、小粋な歌が書かれていることからも垣間見られます。都々逸のような長唄のようなもので、田村清鱗が作ったというより、ちょいと小耳に挟んで、いいなと思ったものを忘れないように書きつけておいた、そんな印象を受けます。いくつか例を挙げてみますと、
「様は釣り竿、わしゃ池の鮒、釣られながらも面白い」
「京の大仏に帆柱持たせ、鯨釣りたい五島浦で」
「わしは小池の鯉鮒なれど、鯰男はいやでそろ」
「恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がす」
 といった具合です。きっと、清鱗は、これらの唄を口ずさみながら、竿を担いで飄々と川へ歩いていったのかもしれません。
 また、友達と酒を酌み交わしながら、馬鹿話をした模様を面白おかしく書いている部分も数箇所あります。前後から判断するに、その場の勢いに応じて出てきた洒落というより、どうやら各人が練りに練り、初めから受けを狙った小話を披露していたようです。もっとも現在とはユーモアのセンスがかなり違いますから、そのまま読んでも、どこが面白いのか分かりかねるものも少なからずみられます。例として一つご紹介してみましょう。天明六年皐月二十日のものです。
「をれは釣りに出て、金を五十両釣ってきた、といふ。そんなら、をれも出よふ、と、沖へ出、大きな鯛を釣り上げ、針を抜て海へ投げ、いまいましい、うぬじゃあない」
 今の私達から見れば、もう少しパンチが欲しいところですが、この話がおおいに受け、「利もなく屈もなく、腹をかゝゑて一笑す」だったようです。当時、江戸では、鱗形屋から出た木室卯雲の「鹿の子餅」を皮切りに、沢山の小咄集が出され、武家や町人が寄り集まってお互いに披露し合う会が盛んに催されたそうで、時代に敏感であった清鱗が、さっそくそれを真似したものと思われます。
 今、時代に敏感であると書きましたけれど、しかし、ここで気にかかる点が一つあります。それは、天明と言う時期は、天明の飢饉の言葉で知られるように長い大凶作に見舞われた時代です。特に天明三年の浅間山の噴火で奥羽地方では何万人という餓死者を出し、一揆、打ち壊しなど幕府の統制にもひびが入るほどでした。しかし、豊後という離れた土地であったせいもあるのでしょうが、「輝額庵日々」ではそのことがまったく触れられていません。私にはどうしても清鱗が意識的にこの話題を避けていた様な気がするのです。そして、そこに、かのアイザック・ウォルトンやチャールズ・コットンとの不思議な共通点を見いだすわけです。「釣魚大全」が初めて出版されたのは、1653年ですが、この時期のイギリスは、ピューリタン革命から王政復古と荒れ、非常に血生臭い時代でした。革命の戦士クロムウェルが国王チャールズ一世の首を刎ねれば、今度は王政を蘇らせたチャールズ二世が、その仕返しにもう既に死亡していたクロムウェルの墓を暴いて絞首刑にするといった有り様です。しかし、その中で、ウォルトンもコットンも逃げるかのようにひたすら釣りに熱中しています。
 もし、田村清鱗が公家の人間であれば、世間の動きに無頓着であったと片づけられるかもしれません。しかし、地方の小吏の息子が、頭の良さだけでなんとか時代の波を乗りきり、あわよくば浮かび上がろうともがいていたわけですから、時代が見えていなかったとは思えません。天明の飢饉の過酷さ、そしてそれが政情にもたらす意味など重々承知の上で、あえて触れなかったのではないかと、考えてしまうわけです。
 ちょっと日記そのものから話が外れてしまいましたので、もとに戻りましょう。
 清鱗の釣り方は、始めは餌一辺倒だったのですが、日記の中ほど、天明六年の春ぐらいから、毛鉤の記述が増えてきます。当時は毛鉤のことを、蚊頭、あるいは蝿頭などと言っていたようです。天野信景の随筆「塩尻」の巻七十三、「あまこという魚の図」に出てくる一文をわざわざ書き写し、その中に出てくる蝿頭が一体どんなものなのか思い巡らしたりもしています。清鱗がいかに研究熱心だったかが窺い知れるわけですが、そんな彼のところに、知り合いが、清鱗だけでなく我々にとっても非常に興味深い毛鉤を持ち込んできます。その模様は、天明七年葉月晦日に詳しく記されています。
「かねてより伝え聞きし、蝿頭、伊丹屋より入手せり。一つは、金波羅弾といへり。さらに一つは、茶乃美瑠餡なり」
 この二つの毛鉤、原文にはもちろん振り仮名などありませんので、なんと読むものなのか分かりませんが、とにかくよく釣れると評判だった鉤らしいのです。
 金波羅弾は清鱗の記述によれば、「ある高知の■(この部分、虫食いで欠損)つくりしものにて、蓑毛なく、鹿毛を扇に立て、尾の付きたる、三分ばかりのちひさきもの」だったようです。これに対し、茶乃美瑠餡は「斯様な虫は、ついぞ見たことのなき、おぞましき体にて、迦羅求羅虫もかくやはあらん」と、その異形にまず驚いています。迦羅求羅虫というのは日本国語大辞典によれば、仏教の想像上の虫で、身体は非常に小さいけれど、風に吹かれると大きくなるのだそうです。それでは茶乃美瑠餡が一体どんな毛鉤だったかといえば、「一寸ばかりの浮き胴に、細縞段だらの節の六つばかり突き出、背中には桃の羽衣背負いたるもの」と記されてあります。
 これだけだったら、別になんということもないのですが、次の文章を読んで、私はびっくりしてしまいました。そして、これこそ、なぜ長々と田村清鱗の日記をここにご紹介させていただいたかの理由でもあるのです。
「伊丹屋の声をひそめて言いけるに、いずれの蝿頭も南蛮より渡来せるものなり。唐天竺釣りにて使いぬべしと」
 どちらの毛鉤も南蛮渡来、つまり外国から持ち込まれたものだというのです。これが本当なら、とんでもない大発見です。フライフィッシングが、こんなに早い時期、十八世紀後半の江戸時代に、既に日本に紹介されていたというのですから。
 当時、日本は鎖国をしておりましたが、長崎の出島だけは別で、オランダ船が出入りしておりました。これらの船に乗ってやってきた外国人が出島から外に出ることは禁じられておりましたので、もちろん彼らが日本の川でフライフィッシングをすることはあり得ません。しかし、フライの様に小さなものはどこにでも隠せますから、そっと持ちだすことは可能だったでしょう。それが好事家の手に渡り、流れ流れて清鱗のもとに来たわけです。もっとも、清鱗の日記にも記されているように、清鱗が実際に手にしたもののうち、金波羅弾は「ある高知の■つくりしもの」です。しかし、これは逆に、この毛鉤がパターンとして既に日本の釣り界に広まっていたことを示唆するものだと考えられます。
 ううむと唸りながら、しばらくこの一文を何度も読み返していたのですが、もっと重大なことに気づき、思わず声を上げそうになりました。
 唐天竺釣り。
 この言葉です。
 日本の伝統的毛鉤釣りを指して、テンカラ、あるいはテンカラ釣りと言いますが、この語源はこれまでのところ判明しておりませんでした。
 ここからは私の推論なのですが、この「唐天竺釣り」こそ、テンカラの語源ではないでしょうか。「唐天竺釣り」が短く略され、「唐天」となり、それがひっくり返されて「天唐」すなわち「テンカラ」となった。牽強付会と思われるかもしれませんが、これに類似の例もあり、そのひとつとして「女」のことを「すけ」と呼び習わすようになったことが挙げられます。スケ番のスケです。これは、もともとの言葉である「おんな」が、まずひっくり返されて「なおん」になり、それが「なおのすけ」と変わり、最終的に短く省略されて「すけ」となったものです。呼び名が辿ったこの変遷のパターンは、「唐天竺釣り」が「テンカラ」になりうることを十二分に示してくれていると信じます。
 チャールズ・コットンの「釣魚大全第二部」を訳された霜田俊憲氏は、その「あとがきにかえて」の中で、日本の伝統毛鉤釣りが果たして本当に日本で生まれたものなのか、西洋から入った部分もひょっとしたらあるのではないかと述べられた後で、「テンカラ」とは、当時は「テンガラ」と発音されていた「手柄」と言う言葉が転じたのではないかと推察されています。
 この田村清鱗の日記の記述は、霜田氏がほのめかしておられる西洋からの影響を、はっきりとした形で裏付けるとともに、「テンカラ」が「手柄」の変形というより、「唐天竺釣り」、つまりフライフィッシングそのものであることを示す、貴重な証拠を提供してくれていると思います。
 田村清鱗の日記の持つ意味、そして私の推論を確証づけるためには、是非とも金波羅弾、茶乃美瑠餡の二つの毛鉤が、どのようなものであったのか、そして当時のフライで、これと同じもの、あるいは似たパターンがあったのかどうかを見つけ出せればと考えています。
 それを探す手がかりは、この二つの毛鉤の名前、金波羅弾と茶乃美瑠餡しかないのですが、頭の中で転がす度に、何か、どこかひっかかるものがあるのです。
 金波羅弾、茶乃美瑠餡。
 はて、どこかで聞いたような。

(初出 フライフィッシャー誌2001年6月号)

 

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