ヒット!
 やったぜ。久々に大物の予感だ。
 慎重にやり取りししなければ。そう気を引き締めていると、ふと視界の隅で人の動く気配がした。
 上村は、素早く右手でマウスを走らせ、画面を切り替える。釣り場の景色は一瞬でモニターから消え去り、かわりにスーパーのチラシ制作の版下が広がる。上村は、なにげない顔で、フォントを変えてみたり、レイヤーを前後させたりして、あたかもデザイン作業をしているようなふりをする。
「おい、上村。まだそれやってんのか」
 後ろに立ったアートディレクターの室田がモニターを覗き込む。
「チラシなんだから、あんまり時間かけんなよな」
「わかってますよ」
 室田が自分の机につくのを確認すると、上村はすぐに画面を戻した。しかし、ラインはだらりと垂れ、魚はもうバレていた。
 ちぇっ。
 上村は、溜め息を一つつくと、何の考えもなしにフライを河原の石の上に放り投げた。中途半端なところで邪魔が入ったせいかもうゲームをやる気にはなれなかったし、だからといって仕事もしたくなかった。石の上に落ちたフライを意味もなくゆっくりとリトリーブする。手元まで来ると、また全く同じ石をめがけて投げる。それを三度ほど繰り返したときだろうか。フライが石に落ちるのと同時に、ラインに変化があった。上村は無意識のうちにロッドを立ててあわせていた。と、いきなりロッドが倒され、ラインが石の向こうに吸い込まれていく。ティペットの強度を示すメーターも一気にレッドゾーンに入った。
 な、なんだ、これ?
 上村は、訝しがりながらラインを緩め、リールが逆転するのに任せた。バッキングラインまで出たところで、ようやく走りが止まった。そろそろとロッドを立て、ラインを巻きにかかる。川の中でなく、河原の石の下で暴れているものは一体何なのか。興味に駆られながら、丁寧にやり取りする。
 このゲームで今までに釣り上げた一番の大物、九十三センチのニジマスよりはるかに強い引きだ。
 随分とてこずらされたが、やっとラインの先端が河原から抜け出て、あとはリーダーとティペットだけとなった。ティペットの強度ぎりぎりのところで堪えながら、ロッドを立ててゆく。
 よし、今だ。
 上村は、ネットをさし入れた。
 あれ?
 普通なら、画面の中央に、今釣れた魚の写真、体長などが表示されるのに、何も出てこない。かわりにホームページのアドレスと思しきものと、六桁の数字、アルファベットの羅列が出てきた。
 上村は机の上にあった原稿用紙の裏にそのアドレスと数字を書き記した。それを見透かしたかのように、いつの間にか文字は消え去り、見慣れた川の景色がモニターに広がるばかりとなった。
 なんだろう。隠しアイテムというのとも、ちょっと違いそうだし、、、。
 上村は、先ほどの石に何度もフライを投げてみた。しかし、もう何も起こらない。ホームページアドレスが気になり、インターネットに繋いでみたい気持ちもあったが、さすがにこれ以上さぼっていると、あとで自分が辛くなる。それで、メモ書きした原稿用紙をしまい、のろのろと仕事にとりかかった。


 ほぼ定刻に仕事を切り上げ、上村は真っ直ぐアパートに帰った。そして、すぐさまパソコンのスイッチを入れる。例のホームページが見たくて仕方がないのだ。
 インターネットに繋ぎ、アドレスを打ち込んでみると、しばらくして出てきたのは、グレー一色のページだった。真ん中に白い横長の空欄がぽつんとあるだけ。その下には、何も書かれていないボタンがある。
 上村は、空欄に、メモした通りの数字とアルファベットを記入し、ボタンをクリックする。
 画面が一瞬消え、次いで、何か大きなファイルを読み込み始めたらしく、ハードディスクの回る音がいつまでも続く。
 あ、やばい?ウィルスでも入れられたかな。
 そう心配になる頃、やっと画面が表示された。どこかわからないけれど、渓流の写真である。ブナの木が両岸から厚く天蓋となって覆い被さり、木漏れ日の中で可憐な流れが秘かに息づいている。その真ん中で文字が点滅していた。
「あなただけの川で釣りができます」
 画面の下にはメールアドレスが表示されている。
 上村は、連絡をとってみることにした。あのゲームのバージョンアップでもしてくれるのかもしれない。
 しかし、数日経っても何の返事も来ない。単なる悪戯だったのか、それとも仕掛けをしたプログラマーが辞めてしまい、メールのアドレスにはもういないのか。いずれにしろ一体何だったんだろうと首を傾げていると、一週間後、思いだしたようにメールが届いた。
「上村様。メールをどうもありがとうございます。もし、あなただけの川で釣りをされることにご興味がございましたら、この週末にお会いできればと思います。」
 室田と名乗る男のメールには一緒に地図が添付されており、近くの川のあるポイントが丸で囲ってある。そして、横には時間と日にちが記されている。
 俺だけの川?どういうことだろう。
 地図の川は、上村も何度か釣りをしたことがある、ごくありきたりの川だ。週末ともなると、あちこちに車が停められ、釣り人の姿が絶えない。
 上村は、疑問に思いながらも、自分だけの川という言葉に抗しがたい魅力を感じてしまった。それで、特に週末に用事もなかったので、行ってみることにした。
 待ち合わせ場所に着くと、農道の脇にはすでに車が二台停まっていた。多分、釣り人だろう。一台は室田だろうか。その後ろに車を停め、土手に登って流れを見回す。はるか上流、橋の袂でロッドを振っている人影が見える。下流はすぐにカーブとなっていて見晴らしがきかないが、きっと誰か入っているに違いない。
 土手に腰を下ろし、春の風に包まれて、ぼんやりと室田を待つ。ここには何度も来たことがあるけれど、こうして何もしない時間を持つのは初めてだ。たまには悪くないかもしれない。
「上村さんですね」
 突然、隣りで声がした。びっくりして頭を巡らすと、いつの間にか、男が上村の横に座っていた。ウェーダーを履き、手にはロッドを持ち、今の今まで釣りをしていたような雰囲気だ。
 男が近づいてくるのはもちろん、座ったのにも全く気づかなかった。居眠りでもしていたのだろう。
「ええ、そうですが」
「室田です。メールをどうもありがとうございました。ご自分の川をお持ちになりたいとのことですが、もしよろしかったら早速デモンストレーションと商談に入りたいと思うのですが」
 低い硬質の声だった。
「いや、あの、商談って、、、。ゲームのバージョンアップじゃないんですか」
 室田がゆっくりとかぶりをふった。
「でも、僕だけの川って言っても、そんなお金はとてもじゃないけど払えませんよ」
「上村様が勘違いなさるのも無理ありません。しかし、私どもは決して不動産を売ろうとしているのではございません。まぁ、これはご自分の眼で確かめていただくまでは納得していただけないとは思うのですが」
 室田はロッドを傍らの草の上に置くと、話を続けた。
「デモンストレーションをやらさせていただく前に一つ確認しておきたいことがございます。ご自分の川を持つための費用なんですが、上村様でしたら、これくらいはお支払いいただけると思うのですが」
 室田が告げた価格は、上村が漠然と予想していたものよりも二ケタも小さかった。川を一つ自分のものにするのだから、億単位の金が要ると考えていたのだ。しかし室田の提示した額は、国産のステーションワゴンを新車で買える程度のものでしかなかった。
「まぁ、ローンを組めば何とか」
 その程度の金額で買える川って、どんな川だ?
「それを聞いて安心いたしました。では、早速デモに移りたいと思うのですが、よろしいでしょうか」
 室田はロッドを手にすると、立ち上がった。上村も慌てて立ち上がる。
「上村様、そのままの格好ではちょっと。やはり釣り支度の方を、、、」
「あ、はい」
 上村は、車に戻り、釣りの準備を始めた。ロッドを継ぎながら、自分は一体何をやろうとしているのか、おかしなことに首を突っ込んでいるのではないか、と多少不安になってきた。
 自分の川というから、どこか別の秘密の場所に行くのかと思えば、そういう訳でもなさそうだ。しかし、目の前の川を売りつけようというのなら、それはどんなに口のうまい詐欺師でも無理な相談だ。もっとも、まだお金を払ったわけでも、印鑑を捺したわけでもないのだから、何も取られる心配はない。とりあえず、話を聞いてみるか。
 準備の終わった上村が土手を上がると、室田が、「では」と一言だけ口にして下流に歩き始めた。
 当たり障りのない釣りの話をしながら一緒に歩くうちに、それまでカーブで遮られていた下流の淵が次第に視界に広がってきた。予想したように、既に釣り人がいる。しかし室田は一向に気にする様子もなく、ずんずん歩を進め、とうとう釣り人の真後ろまで来てしまった。釣り人はちらりとこちらを振り返ると、ここは俺のポイントだと言わんばかりに、キャストを始めた。フライが落ちた先には、ライズリングがいくつか広がっている。
「この辺でちょうどいいでしょう」
 室田はそう言うと、背負っていたデイパックを開け、中からCDプレイヤーのような小さな機械を取りだした。プレイヤーからはコードが伸び、腕時計のようなものに繋がっている。
「これをつけていただけますか」
 上村は言われるままに、腕時計を左腕にはめた。しかしそれは腕時計にしては奇妙で、文字盤も液晶も何もない。真ん中に黒いダイアルが一つと、側面に小さなボタンがあるばかりだ。
 室田は、腕時計のコードをプレイヤー側で外し、上村のシャツの袖を通って胸元から出るようにした。そして、コードジャックを再びプレイヤーに繋いだ。
「これを、こうして首から掛けていただけますか」
 ストラップに頭を通すと、見かけによらず、ずっしりと重い。少なくともCDプレイヤーではなさそうだ。
 訝しがりながら目を上げると、今しも釣り人が魚をかけたところだった。ロッドの曲がり具合からしていい型の山女魚だろう。室田もそれを見て頷いている。
「ちょうどいいタイミングです。あの淵にしましょう」 室田はそう言うと、上村の方に向き直った。
「よろしいですか。私の言うことをよく聞いて、その通りにしてください。この装置の操作方法をご説明しますから、決してお忘れのないように」
 上村の腕にはめられた機械を手に取って、室田が一つ一つ確認するように使い方を説明し始めた。
「このダイアルをこちらに回します。そして、この横にあるボタンを押してください。それだけです。そして、今、彼が釣ったあの場所に行ってライズを釣ってください。釣り終わったら、必ずここまで戻ってきて、そして、このダイアルを今度は反対に回し、またこのボタンを押すだけです」
 簡単な操作だ。間違えようもない。それはいいとして、でも、そもそもこの機械は何なのだ?
「それじゃ、準備ができたら、いつでもどうぞ」
 準備ったって、何を準備すればいいのだ。心の中でぶつくさ言いながら、上村はダイアルを回し、ボタンを押した。途端に、エアポケットに飛行機がすっと落ちたときのような感覚があり、内股と背中に寒気が走った。全てのものがブレ、すこしぼやけて見える。しかし、ブレは次第に納まり、気がつくと先程と全く同じ風景が広がっている。上村は、言われた通りに淵に近づいていった。釣り人は、後から来た上村のことが余程気に入らないのか、顔を向けようともしない。カチンと来た上村は、半分嫌みも込め、大きな声で挨拶を送った。が、それでも無視している。
 挨拶ぐらいしろよな。心の中で毒づきながら、男から十五メートルほど下流に入った。ぽつぽつとだが、散漫にライズが広がっている。上村はミッジを結び、斜め下流のライズを狙ってキャストした。何投目かで、白い点が水面から消え、ささやかな波紋が広がった。すかさずロッドを立てる。ぐんと重みが乗り、魚の動きが伝わってくる。
 半ば自慢げに、ちらと上流の釣り人を見やると、男は下流に歩いてくるところだった。水面に顔をむけ、上村の方に真っ直ぐ向かってくる。そして、男は上村からわずか数メートルのところで止まった。ロッドを伸ばせばぶつかる距離だ。男は一向に気にする風でもなく、何を思ったのか、リールからラインを出し、キャストを始めた。
「ちょっと、ちょっと。今、魚がかかってんですよ」
 上村がそう怒鳴るのもかまわず、ロッドを振りだした。しかも下流に身体を向け、上村のラインとクロスする形で、フライを投げようとしている。
「おい、あんた。先に入ったからって、この川があんたのものになるわけじゃ」
 上村が頭に来て、そこまで言った時、男はフライを投げた。
 男のラインが宙に延び、そしてゆっくりと下に落ちる。上村のラインとぶつかった。
 が、男のラインは、何事もなかったかのようにそのまま上村のラインを突き抜けると、水面にのびた。
 え?
 上村は訳がわからなかった。男のラインは確かに自分のラインより下にある。けれど、さっきまでは上村のラインの上で緩やかにループを描いていたのだ。
 不思議に思っていると、男の腕が上がり、ロッドがぐにゃりとしなった。魚がかかったのだ。見ると、いつの間にか男のラインが上村のラインより上にある。 そんなことは、ライン同士がぶつかって絶対に不可能なはずだ。
 混乱した頭で、ラインと男の顔を見比べる。
 突然、男が下流に走りだした。強い魚の引きに堪え切れなかったらしい。向かってくる男をあわててよけようと足を踏みだして、上村は躓いてしまった。あっという間もなくバランスを崩し、河原に横倒しになる。その拍子に、ティペットが切れたのか、魚の重みが感じられなくなった。
 しかし、河原に倒れた上村に全く構う様子もなく、男は近づいてくる。
「おい!」
 上村がそう叫んだのと、男の足が上村に乗ったのは同時だった。しかし、男の足は上村を突き抜けていた。重みも何も感じられない。そしてそのまま足を引き抜くと、男は下流になおも走っていってしまった。
 な、な、なんだ、こりゃぁ。
 上村は飛び上がると、ロッドを放りだして、室田の方に駆け寄った。
「おい、今の見たか?なんだよ、これ」
 しかし、室田は無表情のまま、川をぼんやりと見ている。上村の方に目を向けようともしない。
「室田さん、聞いてんのかよ」
 そう言いながら、室田の肩に手を伸ばした。しかし、上村の手は何の抵抗もなくそのまま室田を通り越し、背中から出てしまった。
 うわぁ!
 上村はその場にへたり込んでしまった。
 嘘だ。幻だ。幻覚か。アル中か。
 単語の切れ端が頭に次々浮かんでくる。
 大体こんなものを付けたからおかしくなって。
 腕で黒々と鈍い光を放っている機械に目を向けた。
 そうか。こいつのせいか。
 上村は、ダイアルを教わった通りに反対に回し、ボタンを押してみた。また、落下感覚に襲われ、胃が持ち上がる。と、室田が急に顔を上村に向けた。
「あ、そこにおられましたか。いかがでしたか」
「いかがも糞もあるもんか」
 上村は、今自分の目で見たことを興奮しながら室田に告げた。
「いや、すみませんでした。最初にご説明しておけばよかったのかもしれませんが」 
 上村の話を聞き終わった室田が、軽く頭を下げ、それから装置の説明を始めた。それによると、上村が付けさせられた装置は、フェイズ・シフターと言って、物質の位相をずらすものらしかった。上村の位相がずれることで、上村は、釣り人の世界に干渉しなくなる。上村が見たり、触ったりしているものは、釣り人がいる世界から発せられるエコーのようなものなのだそうだ。たとえば、釣り人が既にライズしている魚を釣ってしまっても、残像、あるいはその魚のエコーはまだ残っている。装置の助けで自らもエコー化することで、上村はそれを釣ることができるというわけだ。
 仕組みのことはよく理解できなかったが、他の釣り人を全く気にすることなく釣りができることは、自分で身をもって体験した。上村は、迷わずこの装置を購入することに決めた。


 それからというもの、上村は週末になるとあちこちの川に出かけ、ロッドを振った。もう既に他の釣り人の車が停まっているからといって、気落ちすることも、ましてや場所替えをする必要もなかった。彼らと上村は、文字通りに別の世界で釣りをしているのだから。他の釣り人の姿は、初めのうちこそ目障りではあったが、それもしばらくするうちに馴れてしまった。いようがいまいが、関係ないのだ。無視すればいいだけの話だ。いや、それどころか、なかなか釣れないライズに苦戦しているときに、誰かが釣ったりすると、すぐ目の前まで行ってどんなフライを使っているのかじっくり観察することもできた。
 そうやって、自分だけの川で釣りをしていたある日のことだ。ポイントに着くと既に釣り人が入っていった。どことなく目つきが鋭く、がらの悪そうな男だった。男の前では、頻りに山女魚のライズが広がっている。それを見た上村は、躊躇することもなく、男の前に割り込み、ロッドを振り始めた。
「何すんじゃぁ。このガキャ」
 突然の怒声にびっくりして振り返った。目を血走らせた男が、物凄い形相で睨みつけている。
「え?」
「え、じゃねぇよ。え、じゃ。人が釣っとんのに、前に入ってくるってのは、どういうつもりだ、てめぇ」
 男は上村に歩み寄ると、胸ぐらを捩じり上げた。
 どうしてこいつは俺が見えるばかりか触れるんだ? その疑問は、男の首に例の装置を見つけて溶解した。
 そうか、こいつもか。
「いや、あのですね。あなたが見えなかったわけじゃなくてですね」
「じゃかぁしいやい」
 男は、上村を思いきり突き飛ばした。仰向けに倒れた上村の横で、がしゃりと派手な音がした。首から下げていた装置が吹き飛び、蓋が開いている。基盤や配線がびっしり詰まっている内部が丸見えだ。
「けっ。てめえもか」
 男は近寄ってくると、ウェーディングシューズで装置を踏みつぶした。
「あんの室田の糞ガキ。他には誰もこねぇってぇから金払ったのに。今度会ったら、ただぁおかねぇぞ。糞」
 上村には目もくれず、男は上流に歩いていき、少し離れたところで腕の装置をいじっている風だった。その直後、男の姿が一瞬ぼやけたかと思うと、再び現れ、そして段々遠ざかっていった。
 河原に倒れたまま、上村は呆然としていた。
 せっかく大枚はたいて買った装置が見るも無残にひしゃげ、しかもどろどろになっている。これを直すのにどれくらいかかるんだろう。
 のろのろと立ち上がり、ロッドや装置を拾い集める。背中をしたたか打ったようで、歩くと足を出すたびに痛みが走る。
 まいったよなぁ。
 そこに下からまた釣り人が上がってきた。去年までよく一緒に釣りに行った江利川だった。
「よぉ、江利川。久し振り」
 しかし、上村の挨拶が聞こえないのか、江利川は表情一つ変えることなく川面を見つめている。そしてライズに気づくと、ロッドを振り始めた。
「おい、江利川。俺だよ、上村だよ」
 上村は、江利川に駆け寄り、肩を揺さぶろうとしたが、手は虚しく宙を切った。
 そ、そんな。
 上村は、自分がエコーの世界に取り残されたことに気づいた。実世界に戻ろうにも、装置は壊れてしまっている。
「おおい、おおい、江利川ぁ。江利川ぁ」
 上村は、耳元で江利川の名を大声で叫んだ。
 江利川は、ふと、誰かに自分の名前を呼ばれた様な気がして振り向いた。しかし、誰もいない。
「空耳か」
 江利川は、また川面に向き直ると、釣り始めた。
 空虚な世界に、悲痛な叫び声だけがエコーしていた。

(初出 フライフィッシャー誌2001年5月号)

 

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