あれは、僕がフライフィッシングを始めたばかりの頃だから、十年以上も前のことだ。
 僕はまだ学生で、その特典を活用して、週末ではなく平日を選んで釣りに出かけていた。親の仕送りで暮らしながら、学校をさぼっては釣りに行っていたのだから、今思えばいいご身分である。
 深い山々から流れてくる雪代もようやく終わり、冷えきった水温が徐々に上がり始めたころだ。とある湖に流れ込んでいる川で朝マズメを狙おうと思い立ち、夜中に街を車で出た。ところが湖畔の駐車場に思ったより早く着いてしまい、あたりはまだ真っ暗なままだった。徹夜で来た疲れが出たのか、車の中で夜明けを待っていると、つい瞼が重くなる。
 眠っちゃいけない、今寝たらマズメ時を逃すぞ。
 起きていようとする気持ちと、引きずり込むような睡魔が微妙なバランスをとり、シーソーのように揺れる。奇妙な浮遊感に包まれ、全てがとろりと溶けるように気持ちがいい。ときおりはっと思うと、いつの間にか瞼を閉じ、うとうととしているのだった。しかし慌てて時計を見ても、ほんの数分しか経っていない。
 そんなことを何度繰り返したろうか。突然近くで低いくぐもるような人の声がして、目を覚ました。あたりはいつの間にか、うすらぼんやりと明るくなっている。霧が出ているらしく、どこもかしこも灰色で、近くにあるはずの木々が見えない。
 ドアを開け外に出ると、微細な水滴と冷たい空気が、眠気を綺麗に流していく。
「お、なんだ、誰かそこにいんのかい」
 先ほどの低い声がしたと思ったら、灰色の霧の壁の中から、黒い人影がぬっと現れた。暗いので定かではないが、六十くらいだろう。背格好ともに全体にこじんまりとした作りで、小男という言葉がぴったりとする。
 と、その男の頭の上から、もう一つ顔が現れた。
「ほう、なんでまたこんなところに」
 小男の後ろから出てきたのは、恰幅のいい老人で、つるつるに剃り上げられた坊主頭の下で、細い目がにこやかに笑っている。
「あ、こんちは。この先の川で釣りをしようかと思って来たんですけど、待ってるうちに眠っちゃって」
 そう挨拶をすると、二人が顔を見合わせた。それで、二人ともロッドを手にしていることに気づいた。
「この先の流れ込みで、、、」
 坊主頭の老人が小首を傾げて、何か考えていたが、ふむと頷いて口を開いた。
「もし、よろしかったら、わたしらと一緒に釣りをしませんかな」
 僕がそれに答える前に、小男がしかめっ面をした。
「おいおい、和尚。これだから、お前さんって奴は。こっちのお兄さんにはこっちのお兄さんの都合ってぇもんがあるんだぜ。それに大体、俺達と一緒に釣りをするんは、、、」
「まぁ、源さん。どうにかなるじゃろうて」
 源さんと呼ばれた小男は、ふうとため息をついて、そっぽを向いた。
「源さんも仕方のないやつじゃの。それじゃ、まるで子供じゃわい。このお方も釣りが好き、わたしらも釣りが好き、好いたもん同士仲良うやろうじゃないか」
 なぁ、と和尚さんが笑顔で僕に振り向く。
「いえ、そんな、せっかくの釣りのお邪魔してもなんですから」
 僕がそう辞退しかかると、まぁまぁと和尚さんが手を横に振る。
「邪魔だなんて、ちいっとも」
 僕は心の中ですばやく計算した。この先の川はそれほど大きな流れではない。三人で釣れるかどうか、ちょっと疑問だ。けれど、ここで和尚さんの申し出を断れば、どちらが先に釣り登るかでもめるだろう。僕の方が確かに先にここに着いてはいたものの車の中で眠っていたのだし、ましてや釣り場に立っていたわけではない。そうなると、彼らの方に優先権がある。僕は彼らが釣ったあとから釣り登ることになる。それでは、まず魚は出ない。湖用のロッドでも車に積んであればよかったのだが、あいにくと川でしか釣るつもりがなかったので、一本しか持ってきていない。今さら川を変えるとなると時間がかかる。折角ここまで来たのに、朝マズメに釣りをしないで帰るのも馬鹿みたいだ。
「じゃぁ、もしよろしかったら、ご一緒させてもらってもいいですか」
 和尚さんがにっこりと笑った。
「ああ、ああ、いいですとも。年寄り二人の釣りですから、随分とゆっくりとしたものですが、それでもよろしいかの」
「ええ、それはもちろん。僕も川をポンポン登っていくのは苦手で、ひとっ所で粘ってしまうタイプなんです」
「じゃぁ、そろりそろりと参りましょか」
 その和尚さんの言葉を待つか待たないかのうちに、源さんはもう先に立って歩き出していた。僕がウェーダーに履き変えるのを和尚さんはニコニコと見守り、それから二人で霧の中に消えた源さんを追いかけた。
 駐車場から砂利道を湖岸に降りる。小砂利が足元で立てる小気味いい音を聞きながら、木立と水際の間に広がった浜を奥に向かう。
「ここにはよく来られるんですか」
 こんなに朝早くから釣りに来るなんて、よほどの釣り好きだろうと思ったのだ。
「いや、ごく、たまにですわ。あんまり、魚さんをいじめても罰があたりますしな」
 当たり障りのない会話を交わしながら、岸を歩き続ける。
 もう、そろそろこの辺じゃなかったっけ。
 駐車場から二十分以上も歩いているというのに、一向に川に出くわさない。流れ込み部分は一跨ぎにできそうなチョロチョロとしたものなのだが、少し上に行くと、いい感じに川幅が広がっているのだ。多分、湖の近くでは流れの一部が伏流となっているのだろう。
 こんなに遠かったかなぁ。
 そう訝しがりながら、更に歩く。その隣りを和尚さんが年の割にはしっかりとした足腰で、巨体をゆすりながら、ぐいぐいと歩を進めていく。いつの間にか僕たちは源さんに追いついていた。
 ようやく、流れ込みに辿り着いたのは、それからさらに二十分近くも歩いてからだった。

 霧でよく分からないが、陽も上がってしまっているだろう。ときおり薄れる白いベールの向こうに、木立が現れてはまた消えていく。僕たちは、上流に向かって薮の中の細道に足を踏み入れた。百メートルも行かないところで、急に薮は途切れ、道は流れのほとりで終わっていた。そこで、ロッドを繋ぎ、リーダーを結び、いよいよ釣りの準備にかかる。僕が繋いだロッドにラインをまだ通し切る前に、もう源さんは支度ができていた。
「相変わらず、源さんは早いのう」
 和尚さんが呆れた顔で源さんに声をかける。
「何言ってんだよ。お前さん達が遅すぎんのよ。初めっからロッドにラインを通しといて、フライも結んだままにしておけば、ロッドを繋ぐだけで、ほれ、もう準備万端よ」
「いやいや、こうして流れの傍で、そわそわしながら準備するのも、またよいもんじゃぞ」
 そんな会話を交わしながらフライを結んでいると、あたりが急に明るくなった。霧が晴れたのだ。
 あれ?
 目の前にあったのは、見たことのない景色だった。僕が釣りをしようと思っていた川ではない。
 じゃ、ここはどこだ?
「あの、すいません。これって、あの流れ込みですよね」
「そうじゃが。他に川はなかろうて、のう」
 和尚さんが訝しそうな顔で応える。
「でも、あれ?いつも僕が来ている川とちょっと違うって言うか、、、」
 源さんと和尚さんが顔を見合わせて、眉をひそめている。
 ひょっとして、僕が釣ろうと思っていた川を通り越して、その次の川にでも来てしまったんだろうか。いつも駐車場から歩いて、一本目の川に入るから、その先に行ったことはない。でも、それじゃ、いつもの川はどこへ行ったんだろう。水量が減って、全部伏流になって、それで気づかなかったとか。
 どうしても腑に落ちないものがあったけれど、それ以上詮索するのはやめることにした。二人の様子から、いつもここで釣りをやっているらしい。となると、決して悪い川ではないのだろう。僕にすれば新しい良いポイントを教えて貰えるわけだ。あまりごちゃごちゃ言って、二人の機嫌を損ね、それなら一本目の川に戻ろうなどと言われても仕方がない。
「いや、別に。じゃ、誰から釣りましょうか」
 和尚さんが先ほどのにこやかな顔に戻って提案した。
「ここは、お客様ということで、お兄さんからどうぞ」
 源さんが首を振る。
「駄目駄目、釣りはあくまでも公平。客も主人もあるもんか。大体俺達だって、この川で釣りをさせていただくってことでいえば、客みてぇなもんじゃねぇか。ジャンケンだぜ、ジャンケン」
 拳を握ってジャンケンをしようとする僕を遮って、源さんがさらに言葉を挟んだ。
「じゃ、お兄さんと和尚はパーな、俺はチョキ出すから」
「また、源さんはそうやって人を撹乱する。その手に乗ってはいけませんぞ」
 和尚が目配せをする。
「ジャン、ケン、ポン」
 しかし、結局源さんの言う通り、僕と和尚さんはパーを出し、源さんがチョキで一番にロッドを出すことになった。
 水際から少し間を置いて、源さんが立つ。流れをさっと一望しただけで、ポイントを見切ったのか、さっとロッドを振る。
 ゆったりとした流れのほぼ真ん中を一筋の泡が流れている。その中に紛れるように、フライがぽつりと浮かぶ。
 もわっ。
 一メートルも流れないうちに、水面が盛り上ったかと思うと、フライが消えていた。すかさず源さんの右腕が高く上がる。ラインが水面を走り、ロッドがしなる。
 しかし、そのロッドの曲がり方がどこかおかしい。手先のバット部分はさほど撓んでいないのに、先端だけがぐにゃりとなって、魚の走りを飲み込んでいる。随分と変なアクションのロッドだ。
 緩やかな流れを右に左に走る魚を、源さんはそのおかしなロッドを巧みに操ってうまくいなしている。腕の動き、身体のこなしに無駄がなく、いかにも手慣れているふうだ。
 しばらくして足元に寄ってきたところで、僕も和尚も源さんのそばに魚を見に行った。
 綺麗な山女魚だった。ヒレがピンと張り、小さな黒点がちりばめられている。
 魚に見とれながらも、僕は源さんのロッドが気になった。よく見れば、手元のバット部分と、竿先のティップ部分で、ロッドの色が微妙に違う。ティップは赤茶色がかった黒なのに、バット部はうっすら緑の入った黒だ。
「あの、すみません。そのロッドって特注なんですか」
 源さんがにやりと笑った。
「おお、そうともよ。特注も特注、これ一本しかないぞ」
 それを聞いた和尚さんが苦笑いをして窘めた。
「これこれ源さん、確かに一本しかなかろうが、特別注文じゃあるまいて」
「おお、なんでぇ和尚、誰も特別注文なんて言ってねぇぞ。特注は特注でも特別に注意して手に入れたロッドってこった」
「まだくだらんことを言って」
 僕には何がなんだか分からない。不思議そうな顔をしていると、源さんが得意げに説明してくれた。
「このロッドはな、俺が朝もはよからあっちこっちのごみ捨て場を駆けずり回って、拾い集めたもんよ。きょうびの奴等は物を粗末にしやがる。一箇所が折れたくれぇで惜しげもなく捨てちまうからな。それを俺が拾って、こうやって、また使ってやってるわけよ」
 何か特別な考えがあってあのおかしなアクションにしているのかと思ったら、決してそうではないらしい。改めて源さんをつくづく眺めれば、ロッドどころか、ウェーダーや着ている服もどうやらごみ捨て場からリサイクルされたものらしかった。
「全て拾ったもので釣りをする、それが源さんのこだわりでな」
「てやんでぇ和尚、何言ってやがる。物にこだわらんで、魚との出会い、それだけを追い求めているんだぜ」
「いやいや、まだ捕らわれておる。こだわっておるわ」
 和尚さんはそう言うと、浅い流れにすっと足を進めた。そして、今さっき源さんが釣ったポイントの少し奥にフライを投じた。泡筋の、ほんの少し脇だ。ティペットのよれが取れかかる寸前で、魚がフライに反応した。
 和尚さんが腕を素早く引く。ロッドを高く掲げる。
 ごんごんと竿先がお辞儀をした途端、ばしゃりと水面から魚が飛び出した。次の瞬間、魚が水面に消えるのと同時に、ラインがだらりと垂れた。ばれたのだ。しかし、和尚さんはそれを見ながら満足そうに頷いている。
「ちっ、和尚、またそのフライかい」
 源さんが口をヘの字に曲げる。
「そうじゃ。魚さんを傷つけては罰が当たるでな。仮にも仏の道に使える身じゃ、殺生はならんだろう」
 和尚さんはラインをたぐり寄せ、ふわりと戻ってきたフライを手に取って、僕に見せてくれた。なんと、鉤先がない。ぽきりと折られている。これでは、魚がフライをくわえたところで刺さりようがない。たとえ口のどこかに引っ掛かってもすぐに外れるだろう。
「殺生は駄目だ?いまさら破戒坊主のくせに。魚が一生懸命餌を食べてる、それを邪魔するだけでも魚にすればいい迷惑だろが」
「まぁ、そう言いなさんな。わしも人の子、聖人君子ではないわいな。でも、魚さんがフライに出てくれる度に、心の底から、魚さんありがとうさん、そう言うとるんじゃぞ」
「何を勝手なことを。どうせ、そのロッドだって、戒名を高いことふっかけて、その金で買ったんだろうに」
 源さんの言葉のきつさに思わず顔を見やるが、しかし彼の目は愉しそうに笑っているのだった。和尚さんもニヤニヤしている。どうやら二人はいつもこうして、丁々発止の言葉のやり取りを楽しんでいるらしかった。
「戒名の値段か。戒名はな、ほんとのこと言って亡くなった仏さんにはなんの関係もない。あれは残された人たちが自分の気持ちを整理するためのもんなんじゃ。どれだけ仏さんを大切に思っていたか、それを改めて自分に示すためのもんじゃ」
「それなら何も坊主が戒名の値段を決めるこたぁねえじゃねえか」
「だから、源さんは考えが浅いのじゃよ。よいか、身内に先立たれ、残された者はそれだけでも哀しく辛い思いをしておるんじゃ。そこに持ってきて、自分のその人への気持ちはいくらなんだろうなどと考えられるか?そんな余裕はありはしまい。だから、こちらから、助け船を出してやるんじゃ」
「十万円、七万円、五万円、運命の分かれ道ってか」
「源さんは、またそうやって、人の気持ちをないがしろにする。釣り道具もそうじゃぞ」
 和尚さんが、手にしていたロッドを愛おしそうに振った。細身のグラファイトが、緩やかに揺れた。
「よいかな。このロッドの一本一本に、作った人の気持ちがこもっておるんじゃ。それをありがたく感謝するからこそ、お礼のお金を慎んで差上げておるんじゃ。源さんのように、ただで拾ってきたのでは、その気持ちにどうやって応える?」
「職人が手で作るバンブーロッドならともかく、大量生産のグラファイトロッドに気持ちがこもってるのかよ」
「はいな。いや、バンブーロッドより重いですぞ。考えてもみなさい、この一本のロッドがわしの手に届くまでにどれだけの人が関わっておると思う。グラファイトの生地をマンドレルに巻く人、それを焼く人、ガイドを付ける人、コルクグリップを付ける人。いや、それだけではあるまい。そもそもロッドを設計した人、営業に走り回る人、広告を考える人。そう考えれば、バンブーロッドなど比べ物にならんほどたくさんの人の気持ちを乗せた船ではないか」


 二人は舌戦を繰り広げながらも、その合間に確実に魚を釣っていた。釣り始めてすぐに気づいたのだが、二人ともあとからロッドを振る人のことを考えて、必ず一番手前のポイントからフライを投げていく。だから二人が釣ったあとでも、まだその奥をを狙えば場荒れもしておらず、充分楽しめるのだった。
 二人は小さなポイントも残さず狙っていくだけでなく、しょっちゅう釣りを中断してはあれこれ議論を始めるので、釣りのペースは、和尚さんが言ったように、随分と遅いものだった。しかし僕はちっとも退屈しなかった。僕は、二人の釣りの腕にすっかり感心し、なによりも二人の会話の虜になっていたのだ。
 そんな訳で、釣りを始めてから数時間経っていたのに、僕たちは最初のポイントからほとんど離れていなかった。またしても二人して流れの脇に立ってロッドも振らず、盛んにドライフライとニンフについて口角泡を飛ばしている時だった。
 突然後ろから、
「おまいさん達、ウェットのことを忘れちゃいないかい」
と声がかかった。驚いて振り返ると、そこにはキャメル色のジャケットに淡いピンクの帽子をかぶった老婦人が立っていた。腿までのウェーダーを履き、肩からは籐で編んだクリールを下げている。
「おお、おマツさんかい。今日は来ないのかと思っとったよ」
 和尚さんが、相好を崩して声を掛ける。
「おマツさんが来ねぇ訳がねぇだろが、なぁ」
 源さんも嬉しそうだ。
「ちょっと野暮用があってね、それで遅れたのよ。おや、そこのおあ兄さんはどちらさんだい」
 僕が名前を名乗る前に、和尚さんが頭を掻きながら、申し訳なさそうに言った。
「いや、なにね。途中でお会いしてね、それで一緒に釣りをしておるんじゃ」
「ふうん、いいのかい。こんなとこまで来ちゃって」
 僕は慌ててそれに応えた。
「いえ、とんでもない。連れてきていただいて、すっごく嬉しいです」
「それなら、いいんだけどね。どれ、じゃ、私もちょいと釣らしてもらおうかね」
 おマツさんは、流れに向かうと手にしていたロッドを驚くほどゆっくりと振った。焦げ茶色のかなり太目のロッドから、ゆるゆるとラインが伸びていく。斜め下流にフライを投げ、それを少し送り込んでから、ロッドを流すようにしてフライを泳がせている。ラインの先端が流れの中ほどまで来た時に、おマツさんの腕がさっと動いた。水面を割って、銀色の山女魚が飛び出す。
「相変わらず、おマツさんの腕には惚れ惚れしますな」
「当たり前だぜ、和尚。なんてったって、本場仕込みだからな」
 丸々と太ったヤマメの口からフライを外しながら、おマツさんが振り返る。
「よしとくれよ。昔のことじゃないか」
「でも、その昔を大切にしておるからこそ、今でもそのロッドを使っておるのじゃろ」
 和尚さんの言葉に、おマツさんが手にしていたロッドを見て、びっくりした。一本の木から造ったグリーンハートのロッドだったのだ。アンティーク・ショップで見たことはあるものの、実際に使っているのを目にしたのは初めてだ。リールも古めかしく、側面が大きく切り取られたブラス製のものだ。
「お兄さん、今じゃこんな皺くちゃだから信じられないかも知んないけどね、昔はこれでもちったぁ浮き名を流したお姐さんだったのよ。それで、そん時に旦那から頂いたのが、このロッドなのさ」
 吸い付けられるように見ていた僕に、おマツさんがロッドを差し出した。年季の入った、しかしよく手入れのされたロッドだった。グリップの少し上に、おマツさんの名前ともう一つ名前が書かれている。どこかで見た覚えがあるのだが、思い出せない。
 それからは、辛辣な源さんと懐の深い和尚さんのやり取りに、鉄火肌のおマツさんが加わって、ポンポンと切れ味のある会話を楽しみながらの釣りとなった。相変わらずのゆっくりとしたペースで釣り登る。三人のポイントの見極め方、狙い方、魚のいなし方など、どれをとっても初心者の僕には勉強になるものだった。
 陽もすっかり上がって、木立に切り取られた狭い空の真ん中に来ようかという頃、三人がふと顔を見合わせた。
「あたしゃ、もうそろそろこの辺でお暇しようかと思うんだけどね」
「私も、今日は随分と楽しませていただきましたわい」
「和尚もおマツさんも年だしな。俺一人ってぇ訳にもいくめえから、付きあうぜ」
 三人が一斉に僕に顔を向けた。どの顔からもさっきまでの笑みが消えている。
「お兄さんや、そう言うわけだから、こっから引き返しておくんな」
 おマツさんが有無を言わせぬ口調で、そう言った。和尚さんも源さんも、微かに頷いている。
 僕は何かよく分からなかったけれど、その言葉に従うことにした。逆らえない何かが三人の目にあったのだ。
 それじゃ、と別れの挨拶をして、僕は流れのほとりを下流に向かって歩き始めた。その背中に、
「今日は楽しかったぜ」
と源さんの声がかかった。僕もです、と言いながら振り返ると、そこには誰の姿もなかった。
 慌てて目で辺りを探したけれど、そよりとも動かぬ木立と、緩やかに流れる川があるばかりだった。僕は、立ち尽くしたまま、身じろぎ一つできなかった。しかしそこにじっとしていると、深々とした森に吸い込まれるようで、意を決して足を踏みだした。一歩出すごとに次第に早くなり、あとは追いかけられるように下流に向かって走っていた。
 気分がどうにか落ち着いたのは、家に戻ってからだった。
 あの三人は誰だったんだろう。
 そう考えていて、あのグリーンハートのロッドに記されていた名前の主を突然思いだした。
 それは、日本のフライフィッシングの黎明期に、貴族や政治家などの上流階級で結成された有名な釣りクラブの会員だった。しかしもう六十年近くも前にクラブは解散し、その前後に彼も死んでいるはずだ。羽振りのよかった頃におマツさんと遊んだというのでは、時代があわない。それにはおマツさんは、八十歳を軽く越えていなければならなくなるが、とてもそんな年ではなかった。
 じゃ、あの三人は、、、。
 慌てて地図を広げる。半ば予想していた通り、駐車場の浜には一本しか川は流れ込んでいなかった。その先は崖のマークがしばらく続き、川などどこにもない。
 僕は、どうやら幽霊と釣りをしたらしかった。でも、なぜか恐いという感情は全く浮かんでこなかった。
 あれから十年以上経った今、僕はまた彼らと一緒に釣りができればと願っている。もちろんいつかは僕も向こう側の世界に行く。しかし、それだけでは彼らの仲間に入れて貰えないだろう。そのためにはもっともっと腕を磨いておかねばならないと思うのだ。釣りばかりではなく、口の方も。

(初出 フライフィッシャー誌2001年4月号)

 

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