解禁まで、あとわずかと迫ったある日。そろそろフライを巻いておかなければと思い、マテリアルを買いにいつもの釣り具屋に顔を出した。店の中には常連の原島さんと渋谷君、それに森山さんがいて、なんだか盛り上っている。
 もうあと少しの辛抱で、また川に立てる。
 そんな上ずるような気持ちをどうにも抑えきれないらしい。それは僕も一緒だ。それで、四人で飲みに行くことになった。
 原島さんがお勧めの居酒屋で、僕たちはぬる燗の日本酒をちびちびと嘗めながら、去年のいい思い、失敗、逃したでかい魚、当たりフライ、そんな話で一頻り盛り上った。そのうちに、なぜか、これまでに経験した中で最低最悪の釣りは何かという話題になった。
「やっぱり、僕の場合はあれですね」
 渋谷君が一番先に口を切った。
「まだ学生で車を持っていなかった時の話なんです。大概は誰かの車に乗せてもらうんだけど、たまたま皆都合が悪いことってあるじゃないですか。そんなときは電車とバスを乗り継いで釣りに行ってたんですよ。その時も一人で、山の上の湖に出かけたんです。まだ春先で、ちょうどサクラが咲こうかって頃でした。いざ、釣り場に着いてウェーダーに履き替えようかと思ったら、ジャージを持ってくるのを忘れてたんです。あれだと生地が伸びるから膝が突っ張らなくて歩きやすいんですよね。でもまぁ、なければないでどうにかなるもんだし、釣りをするにも不自由はないんで、そのままコットンパンツでウェーダーを履いたんです」
 渋谷君が経験した最低の釣りが一体どんなものか知りたくて、三人とも杯を手にしたまま、ふんふんと頷きながら聞いている。
「湖の釣りって、一にも二にも場所じゃないですか。その時も、バス停からあんまり遠くない絶好のポイントはもう場所取りが入っていて、仕方なく、岬を回り込むことにしたんです。普段なら、岸沿いに歩いていけるところなんだけど、その年は結構水が多くて、薮の中を抜けていかないと駄目だったんです。まだ春先で、あんまり人も入っていないもんだから、踏み跡もしっかりはできていなくて、あちこちから枝とか出てて。どうにかポイントに入れて、立ち込んで釣りを始めたんです。ちょっと沖目で、いいボイルがたまにあって、これはって感じでしたよ。でも、しばらく釣りをしているうちに、なんか、股のところが変なんです」
「病気でも持ってんのかい?」
「違いますよ。なんか、グジッと嫌な感じがするんです」
「ウェーダーに穴でも開いてたとか」
「そうなんですよ。岬を回るんで薮漕ぎをしたときにどうやら穴を開けたらしくて。すっごい小さな穴らしくて、じわじわと濡れるだけなんですけど、それが急所ドンピシャのところで。でも、そこまで水が来ない浅場まで下がっちゃったら、沖のボイルに届かないし、おまけに後ろの木が邪魔になる。それで仕方なく、腰まで浸かって釣りをしていたんです」
「釣れた?」
「いや、朝から昼過ぎ三時頃まで頑張って、ちっちゃいのが一尾だけ。もっと粘っていたかったんだけど、バスの時間もあるんで仕方なく切り上げてバス停に戻ったんです。で、ウェーダーを脱いで、ロッドを仕舞って、バスを待っていたら、そこで同じようにバスを待っていた地元の人が、すっと僕から遠ざかるんですよ」
 そこまで聞いて話の落ちが分かった。
「ズボンのあそこを濡らしてるからだ」
「そうなんですよ。だから、もう、独り言というか、誰にというんじゃなくて、『いやぁ、参っちゃったよ、ウェーダーに穴が開いてて』とか言ったんですけど、あんまり信じて貰えなかったみたいで。すぐに乾くだろうと思ったんだけど、コットンだし、悪いことに下に履いてたパンツもボクサー型のコットンだったから、乾かない乾かない。おかげで最悪だったのが、電車ですよ。学校帰りの女子高生とか結構乗ってて、皆、こっちをちらちら見ながら、ひそひそ話をして、ククククと忍び笑いをしたり」
「ザックか何かで隠せばよかったのに」
「僕もそう思ったんですけど、それじゃ、本当に小便漏らしたみたいじゃないですか。俺は違うんだから正々堂々するしかないと開き直ってました。でも、ほんとはでっかい声で、ちくしょお、俺は無実だぁ、やってないぞぉと叫びたかったですね」
 渋谷君の回りだけぽっかりと広い空間が空いた混んだ電車を想像して、思わず笑ってしまった。
「俺の最低の釣りもどっちかって言うと下ネタだなぁ」
 原島さんが、肴のイカの塩辛をつつきながら、話し始めた。
「もう、十四、五年くらい前になるかなぁ。本流筋の釣りよりもまだ細い枝川、支流に入って釣るのが面白かった頃なんだけど、結構な山奥の宿に泊まってたんだ。古い旅館で、屋根瓦といい、板壁の感じといい、旅館って言うよりまさに旅籠って言葉がピッタリなやつでさ。わび、さびの世界だったね、まさに。そこに泊まることにしたのは宿代が安かったし、それに何より、すぐ裏を川が流れてたからなんだ。まぁ、でもそんなところだから、何もかもが古くて、もちろんトイレも水洗なんかじゃなくて、肥だめ式、ポットン式だったな」
「あれ、二階にあると凄いんですよね。ポットンまでの時間が長くて」
 僕は随分前に父の実家で経験したことを思いだしながら、口を挟んだ。
「いや、そこは平屋で、水面じゃなくて肥え面って言うのかな、それがすぐそこに見えるんだよ。で、用を足して、ふと見るとだな、そこに黒茶の四角いものがある。あれ、あれは、と慌ててズボンの尻ポケットを探ったら案の定、財布がないんだよ。いやぁ、参ったね。すぐに宿の人を探したんだけど、たまたまいなくてさ」
「それでどうしたんです」
「宿の人が戻ってくるまで待ってようと思ったんだけど、見ていると、なんだか財布がゆっくり沈んでいくようなんだよ、これが」
「そりゃ、原島さんの財布、よっぽどぎっしり札束が詰まってるからですよ。僕の財布なんて何にも入っていないから、薄くて軽くて、木の葉のようにひらひら舞い上がりますよ、きっと」
 渋谷君が酒を注ぎながら、茶々を入れる。
「とんでもない。貧乏もいいとこだったぜ。まだ社会人になって間も無いころでさ、給料も銀行振込じゃなくて、封筒に入れてくれるんだ。それをトイレでこっそり開けてみたりして。でも、どっちにしろ、いつもピーピーしてたな。おかげで財布に入っているのは小銭ばっかりだから、重いだけは重いんだ。今の渋谷君みたいに、ゴールドカードが鎮座ましましてるのとは訳が違うぜ」
「カードはカードで、あとの支払いが大変なんですよ。毎月ひぃひぃ泣きながら銀行に振り込んでるんですから」
「それで、肥だめの財布はどうしたんです」
 僕が話をせかす。
「いや、それで、困っちゃってさ。あれが沈んじまったら、宿の支払いどころか、帰りのガソリン代もないんだからな。ふと、フライロッドがあることを思いだして。部屋に戻って取ってきたんだよ」
「うわ、フライロッドで、便壺の中、引っかき回したんすか?」
「仕方ないじゃないか。ロッドを便器に入れる直前に、もしジョイントから抜けたらどうしようと恐くなって、それでちゃんとラインも通してさ。で、あ、そうだ、これで大きめのフライを結べば、財布も簡単に引っかけられると気づいて」
「フライは何を使ったんです」
「湖用に巻いたストリーマーだったな」
「ストリーマーもいい迷惑っすねぇ」
「何回か失敗したんだけど、どうにかこうにか、財布の端を引っかけることに成功して、やっと引き上げることができたんだ」
 原島さんが、イカの塩辛をつつきながら、杯を口に運ぶ。ぬっとりしたどろどろの中に箸を差し入れる様子が、なんとなく、今の話にぴったり合って、可笑しくなる。
「そりゃ、ひどい釣りだったね」
 森山さんが笑いながら、徳利を傾ける。
「いや、それが、ここで終わりじゃないんだよ」
「え、まだ続きがあるのかい?」
「そうなんだ。財布をフライに引っかけたまま裏庭に行って、そこで、財布を振り落としてさ。あの時ほど、鉤のかえしを潰してバーブレスにしておいてよかったと思ったことはなかったね。財布を洗おうとホースを探していて、ふと、裏の川が目に入ったんだ。フライとロッドは、このまま川に行って洗えばいいや、と降りていって」
「うん、うん」
 川が出てきたので、思わず、三人とも身を乗り出している。
「で、こうバシャバシャとフライを流れで泳がせて、ついでに気持ち悪かったからラインも洗うつもりでゆっくり出していったんだ。なんとなく悪戯心で、そのままロールキャストの要領でフライを流れの本筋に投げたらだね、フライが流れに引かれてヨロヨロと泳ぎ始めたと思った瞬間、ごぼっと凄い音がして、フライのすぐ後ろで魚が」
 原島さんは、右手をフライに、左手を魚に見立てて、フライを食いそこねた魚の様子を大仰な身振りで熱くなって説明する。
「二回もだぜ、ごぼっ、ごぼって。岩魚だと思うんだけど、今までに見たことがないくらいでかい魚でさ。おかげで頭の中は、もう真っ白よ。部屋まで走って戻って、フライボックスを取ってきたんだ。もう二回もそのフライに出てるから、きっちり魚に見切られちゃってるだろう、でも違うフライならなんとかなるかも。そう思って、、、」
「ひょっとして、原島さん、まさかティペットを」
「そうなんだよ。目の前のでかい魚のことで舞い上がっちゃってるから、ハッと気づいた時には、フライを取り換えるのに歯でティペットを切って、おまけに新しいのを結ぶまで口にくわえてたんだ」
「さっきまでウンコまみれになっていたやつを口に入れたんですか」
「もう情けないったら、ありゃしない」
 大笑いになった。
「それで魚は釣れたんですか?」
「だったらいいぜ、まだ救いがあるから。それが、もう何をやっても駄目、魚のさの字も出てこないんだな」
「残念だったねぇ、そりゃ。でも、ちょっと流れで濯いだくらいで、ウンが綺麗に落ちたとも思えないんだけどねぇ」
 森山さんがニヤニヤ笑いながら、原島さんをからかう。
「そうなんだよなぁ。でも、とにかく、あれが俺の人生の中で、最低最悪の釣りだったね」
 原島さんが、口を洗い清めるかのようにぐっと日本酒を飲み干した。僕は彼に酒を注ぎながら、十年前のことを思いだしていた。



「僕の最低最悪の釣りは、あんまり笑えるもんじゃないですね。今から、十年前、まだフライを始めたばかりの頃のことで、、、」
 その頃、まだ一緒に釣りに行く友達もなく、いつも一人で出かけていた。よく行っていたのが、家から二時間ほどのところにある川だった。場所を選べば簡単に徒渉でき、一人で釣るにはちょうどよいサイズの流れだった。
 下の農道から入ると、しばらく釣り登るうちに、鬱蒼とした森の中に導かれる。時折木漏れ日が差し込むばかりで、夏の盛りでもひんやりと涼しい。覆い被さった枝の下や、岩を食む白泡の下を丹念に探っていけば、まぁまぁの型の岩魚がぽつぽつと釣れた。そうやってじっくり時間をかけて半日も釣り上がったあたりで、森は急に途切れ、両岸は岩肌の崖となる。ここからしばらくは深い淵が連続し、大物が潜んでいそうな気配に溢れていた。
 淵の中ほどには、見上げるばかりの崖を跨いで、はるか高くに農道の橋が架かっている。橋から流れを覗き込むことはできても、崖に阻まれて川に降りることも、逆に川から道に上がることもできない。橋の下をくぐり、数百メートルさらに上流に行ったところで、きつい斜面を刻むような細い踏み跡がようやく道と川を繋いでいるのだ。
 その日僕は、朝からのんびりと釣り上がり、ようやく上の橋の淵に辿り着いた頃には、陽はすっかり山の端に隠れてしまっていた。なぜかいつになく魚の出が悪く、まだまだ釣り足りない気持ちがわだかまっていた。
 ここで、いい型の岩魚が一尾でも出れば、嬉しいんだけどな。
 そう願って、淵のゆったりとした流れを注意深く凝視しながら、なるべく姿勢を低くして、音を立てないように上流に一歩一歩足を運ぶ。
 流れの中に張りだした岩盤の陰で、ふっと何かが動いた様な気がした。偏光のサングラスを手で押さえ、しっかりと見極める。
 岩棚の向こうは急に深くなっていて、黒い流れがうねっている。その岩棚の向こうから、うっすら茶色い魚影が、ふわりと浮き上がっては何かを食べ、また隠れているのだ。時折、隠れる間際に、右に左に身体をくねらせている。小さめに見積もっても、四十センチはありそうだ。
 でかい。
 僕は、岩陰に膝まづくようにして、身を隠した。付いていたドライフライを切り、小さめのニンフをフライボックスからつまみ出した。念のために、ティペットも取り換えた。
 フライを結び終わり、もう一度、魚の位置を確認する。決して水面までは出てこないのだが、しきりに餌を食べているらしい。
 心臓がバクバクする。
 フライが魚の一メートルほど上流に落ちるように狙ってキャストした。
 風に煽られたのか、ふわりとラインが縒れ、フライは思ったところより岸近くに落ちてしまった。
 魚は反応しない。
 フライが流れきってしまうのを待ってからピックアップする。
 ひょっとして魚に警戒されちゃったろうか。
 すぐにでもまたフライを投げたいと焦る気持ちをどうにか抑えて、岩棚の向こうを注視する。
 と、出た。また茶色い細長い陰が、すっと水面近くまで泳ぎ上がり、身体をくねらせて消えた。
 よし、今度こそ。そう気を引き締めて、フライを投げ込む。
 小さな波紋をあげてフライはドンピシャのところに落ちた。そろそろと沈みながら、岩棚の先を流れてくる。
 この辺だったはず。
 ん、あれ、出ないか。
 フライが流れきった後で、緊張して見守っていた僕を嘲笑うかのように、ゆらりと茶色い陰が浮かび上がる。
 ちっくしょう。
 それからはフライを取っ換え引っ換え、粘りに粘った。しかしフライボックスに入っていたニンフを全部試したけれど、食ってくれない。
「それで、もう僕、完全に自棄になっちゃって、でっかいセミのフライを投げたんですよ。それをバスバグみたいに、ガバガバって水面を引きずり回して」
「そしたら出たのかい」
「いや、駄目なんです。これ、ひょっとして魚じゃないんじゃないか、そう思って、もう逃げちゃってもいいからと近づいたんです。そしたら、バシャバシャ近寄るそばから、またふわりと浮き上がるんですよ。よく見たら、黒い綱みたいなものに茶色い布の切れ端がまとわりついて、それが流れに踊ってただけなんですよ」
 なあんだ、と三人ともつまらなそうに聞いている。
「そんなくらいで最低なんて、可愛いっすよ、僕の場合に比べたら」
 渋谷君が不満そうに漏らす。
「いや、話はこれからなんだ。あんまり腹が立ったから、その綱を握ってぐいっと引っ張ったんだ。そしたら、ふわっと抜けた綱の後から女の人の顔がぬっと」
「なに?」
「農道の橋から飛び降り自殺をしたらしくて、死体がちょうど岩棚の下に潜り込んじゃったんです。で、黒い綱だと思ったのは髪の毛で、茶色いリボンをしていたんですよ」
「ええっ?嘘だろう!」
「もう、釣りどころじゃないですよ。うわぁっと叫んで、慌てて手を放して。びっくりすると腰が抜けるってのは本当のことなんだとよおく分かりました」
「そりゃ確かに最低だなぁ」
「あの川には、今でも一人じゃ行けないですね」
 おお、おっかねぇと渋谷君が呟きながら、身震いをしている。
 しばらく沈黙があった後で、
「俺のは、最低の釣りって言うより、懺悔だな」
と、森山さんがぽつりと吐き出した。


「もうしばらく前のことだけどさ、あの釣り具屋によく来てた人で水田ってのを覚えてるか」
 森山さんが原島さんに顔を向けた。
「ああ、嫌なやつだったなぁ。しばらく来てたけど、そう言えば最近全然姿を見なくなったなぁ」
「あれ、俺がやったんだ」
 原島さんがぎょっとしたような顔をした。
「え、殺したのか」
「あははは、まさか。いくらなんでもそこまではやんないよ」
「じゃ、どうしたんだよ」
 せかす原島さんを抑えるように、森山さんは御猪口を口に持っていった。
「渋谷君達は会ったことないよな、水田には。釣りの腕は悪くないんだけど、嫌なやつでな。まず、物に対する能書きが多い。カタログ、釣り雑誌、インターネット、とにかく集められる情報を全部集めて、しかも暗記してるんだ。いや、それだけならいいさ。そういうことが好きなやつは世の中に一杯いるからな。問題は、その知識を総動員して人の持っている道具にケチをつけることなんだ」
 森山さんが箸をまるでロッドのように手に取り、水田の口まねをした。
「ふうん、森山さんのロッド、グラスファイバーの反発力が高い割にはスローなアクションって言うのが売りだったやつですよね。でも、そのためにキャスティングの性能が死んじゃって、せっかくの高反発力を活かしきれてないんですよね。僕のロッドはその点、、、」
「あはは、似てる、似てる。言うんだよな、あいつ、そうやってウダウダと」
 原島さんが頷いている。
「俺はさぁ、道具にこだわるほうじゃないから、その辺にあるロッドを適当に使ってるって口じゃん。だから、どうでもいいって言えばいいんだけど、でも、そういうふうに一々言われるとやっぱり腹が立つんだよな。で、一緒に釣りに行くと、車の中で、ずっとそれなんだよ。リール、ロッドはもちろん、ウェーダー、ベスト、サングラス。全部になんか言わなきゃ気が済まないんだ」
 水田というのは、想像しただけで気が重くなるような男のようだ。
 原島さんが、思いだしただけでも腹が立つという表情で、苦々しく口を開いた。
「それだけじゃないんだよな、あいつ。覚えてるかい、郊外の湖でのこと」
「忘れるもんかいな。俺と原島で通って通ってやっと見つけたポイントがあるんだ。見た目には何の変哲もない所なんだけど、多分、地下水でも湧いているんだろう、そこだけ妙に魚が濃いんだ。そのポイントにしばらく通っている時に、水田がどうしても一緒に釣りに行きたいって言い出してね。多分、俺たちがそこでいい思いをしているのを誰かから聞いたんだろう。それで、次の休みに一緒に釣りをすることになったんだ。水田と俺の家じゃちょうど方角が逆になるんで、湖で待ちあわせることにして、ちゃんとその取って置きのポイントの地図まで書いてやってさ。で、夜明けにポイントに着いたら、もう水田は来ていたんだ。開口一番、あの馬鹿、なんて言ったと思う」
 僕も渋谷君も、さぁ、としか答えられない。
「こうだぜ。『森山さん、今日はここ駄目みたいですよ。僕が暗いうちからずっと釣ってたんですけど、なんの反応もなくて』だってさ。ばかやろぉ、ふざけんな、だよな」
 森山さんの目が険しくなっている。今でも腹に据えかねているふうだ。
「そんなことがあってから、しばらくしてかなぁ。俺ともうあと二人くらいと、それに水田で川に行くことがあったんだ。いつものように行きの車の中じゃ、講釈ばかり垂れやがって、こっちはうんざりだ。もう腹ん中ぐつぐつ煮えくり返っちゃってさ。あんまりだったから、釣り場に着いて準備しているときに、水田のご自慢のロッドが車に立て掛けてあったのをそっとずらしてさ、ちょうど開いていたドアに挟まるように、、、」
 僕は、森山さんがそんな陰険なことをするなんて、ちょっと驚いた。渋谷君も同じように感じたらしい。
「森山さん、それって、ちょっとあれじゃないっすか」
「今なら俺もそう思うよ。でも、あん時はなぁ」
 一瞬、森山さんの顔が暗く沈んだ。しかし、また思い直したように話し始めた。
「案の定、一緒に行った二人のうち一人が、ロッドに気づかずに、バタンとドアを閉めたんだ。そん時の水田の顔、ざまぁみろと心底思ったね。もう半分泣きそうでさ。でも、折れたロッドを見ているうちに、こんどは俺がなんだか泣きたくなってきた。すっごい自己嫌悪に襲われてさ」
 森山さんが一息に酒をあおった。
「どんなに水田が嫌なやつで最低の男であったとしても、このロッドは何にも悪いことはしていないんだよな。そう気づいたんだ。いくら俺が道具にこだわらないとはいえ、釣り道具は他の道具とは違う。釣り人の俺と深いところで繋がっているんだよ。それを俺は自分の意志でぶち壊したんだ。とんでもないことだった。その、どうしようもない、行き場のない気持ちが、ぐわぁっと胸から頭に駆け抜けてな、ハッと思ったら、水田を殴っていた」
「やっちゃったのか」
 原島さんが驚いたように訊ねた。
「うん」
 一瞬、暗い沈黙が僕らを包んだ。
 と、突然
「わははははは」
原島さんが笑いだした。
「なんだと思ったら、そんなことか。あははは。実は俺もあいつを殴ってるんだ」
「え?」
「いや、酒の席のことなんだけどさ。いつもの調子でぐちぐち人の道具のことを言いやがるから、パカーっと、一発」
 渋谷君が呆れたと言う口ぶりで声を上げる。
「ロッドは折られる、二人には殴られる、その人も散々ですね」
 原島さんがまだ笑いながらそれに答えた。
「いいんだ、あいつは。それにしても、あいつが来なくなったのは、俺が殴ったからだとばっかり思ってた」
「俺も俺のせいだとばっかり思ってたよ。深く反省して損したな」
「いやいや、ロッドを折った罪は消えないぜ。その罪滅ぼしのために、これからお前はずっと最低の釣りに出かけなくちゃならないかもな」
 原島さんが悪戯っぽく森山さんを脅かす。
「それくらい平気さ。どんなに最低の釣りでも、仕事をしてるより遥かに楽しいから」
 森山さんは気持ち良さそうに笑い、僕らもそれにつられて大きく笑った。

(初出 フライフィッシャー誌2001年2月号)

 

「釣り師の言い訳」に戻る