大学に受かった。 何としても入りたかった第一希望校だったので、心底嬉しかった。正直に言えば、その大学で学びたかったというより、その大学のある街に住みたかったのだ。もっと言えば、親元から離れたかったのだ。 しばらくの間の着替えと、身の回りのちょっとした荷物をスーツケース一個に詰め込んで、僕は家を出た。町に着くとすぐに不動産屋に飛び込み、そして何も考えずに最初に見たアパートに決めた。とにかく自分一人で暮らすことが嬉しくて、それがどんな所だろうが、構わなかったのだ。 日当たりのいい、がらんとした部屋にスーツケースを置き、電話で実家に住所を告げた。そうしたら、することがなにも無くなってしまったので、ぶらぶらと大学まで歩いて行くことにした。 大学はまだ春休みなので、構内に人影はあまりなかった。受験で訪れた時は冬の最中だったから薄ら寒い景色だったけれど、今はすっかり緑に覆われ、清々しく生まれ変わっている。 特にあてもなくあちこち歩き回っているうちに、古い木造の建物の前に出た。そばに行くと、中からドラムに続いて、ギターのきつく潰れた音が響いてきた。ずいぶんディストーションがかかっているものの、ストラトキャスターっぽい。大学に受かったら、軽音にでも入ろうかと思っていたので、とりあえず音のする方に歩くことにした。暗く煤けた廊下にいくつものドアが並び、それぞれがクラブの部室になっているらしかった。 歩く会。コーラスサークル・ジンゲン。映画研究会。仏教研究会。アニメーション研究会。 ドアに張られた名札を確かめながら、奥に進んでゆく。 バンッ。目の前に、突然、白い札が現れた。誰かがいきなりドアを開けたのだ。もうちょっとで顔をぶつけそうになった札には、「渓流釣り同好会」と書かれてあった。ドアの陰から、丸眼鏡に髭の男が現れた。 「お、ご免、ご免。これって、絶対に設計ミスだよな。外側じゃなくて、内側に開くべきだと思わないかい」 男はそう言うと、そのままドアを足で勢いよく閉め、背負っていた青いザックをゆすりながら、廊下を出ていってしまった。僕は、初めて出会うこの大学の学生に半分どぎまぎしながら、その姿を見送った。 廊下を更に先に進むと、突き当たりで右に折れている。どうやら建物をコの字型に走っているらしい。半分ほど来たところで、汚い字で「軽音」と書かれているドアがあった。開けようかどうしようか迷っているうちに、ドラムもギターもやみ、そのかわりに男の低い声と女の明るい笑い声が聞こえてきた。それで、何となくドアを開けそびれ、建物を出てきてしまった。 時計を見ると、もう一時を回っている。すぐ横に大学生協があったので、何か食べることにした。 テーブルに座って、味噌汁にどんぶり飯、それに焼き魚のA定食を食べながら、辺りを見るともなく見ていると、先程の髭男が、二つ向こうのテーブルでラーメンを食べている。ラーメンの横には、僕のと同じA定食が置いてある。一人でどちらも食べるつもりなんだろうか。そんなに大きな男でもないのに。 男は、美味そうにスープまで飲み干し、今度は味噌汁を一気にかき込んだ。そして、ザックからタッパーを出し、どんぶりの飯と焼き魚を詰め始めた。何だろうと思って見ている僕と、ふと顔をあげた男の目があった。 男は、少し間を置いてから僕に笑いかけた。そして、詰め終わったタッパーをザックにしまい、こちらのテーブルに移ってきた。 「ねぇ、ひょっとして、君、新入生じゃない?僕、前田って言うんだ」 戸惑っている僕に畳みかけるように、男はさらに続けた。 「ね、何か、クラブに入る予定はあるの?僕、渓流釣り同好会ってのに入っているんだけど、どう?面白いよ」 「ええ、その、軽音か何かに入ろうかなって」 「音楽やってんの?」 「ええ、少し」 「ね、せっかく大学に入ったんだから、何か新しいことをやってみたら?渓流釣りはやったことある?」 男は、ザックから釣り道具や地図を取り出し、渓流釣りの面白さをとくとくと語り始めた。 これが前田先輩との出会いで、僕は彼の熱意に半ば押されるようにして同好会に入り、釣りをするようになった。 釣りには、たいがい前田先輩の車で出かけた。同好会の他のメンバーも車を持っていたけれど、前田先輩の車が一番燃費が良かったのだ。夜更けに彼の下宿に集まり、街を出る。 暗い河原に降り立つと、そそくさと釣りの準備を始める。竿を延ばし、ハリス、鉤を結び、目印を付ける。小さなデイパックに、着替えや雨具、そして例のタッパーに入れたA定食弁当を持つ。 流れの中で石をひっくり返して、川虫を集める。オニチョロ、ピンチョロ。なるべく大きめの奴を素早く捕まえ、背掛けでちょんと鉤に刺したら、糸を指で持ち、竿の弾力を利用して、そっと投げ入れる。 ここぞと思う場所、たとえば水面にようやく顔を出している石の、少し上流に仕掛けを入れるのだ。流れに揉まれながら餌はゆっくりと沈んで行き、石の後ろで待ち構えている魚の目の前を、ふらふらと流れ下る。 そして、魚が餌を口にしたアタリと同時に、竿を上げる。 まだ、釣りを始めたばかりの頃、このアタリというものが分からなかった。目印は付いていても何の役割も果たさず、手の中にゴツゴツと生き物の感触があって、初めて魚が来たと竿を上げていたほどだ。 それが、何度か通ううちに、少しずつ、アタリが手に伝わる前に、目印で読めるようになってきた。もちろん、目印が絞り込まれるようなアタリは、すぐ分かる。そうでなく、流れに乗って下って行く糸、目印が、ほんの一瞬、どこがどうと言えるのではないけれど、違う動きをする時がある。川の流れとは微妙にずれた変化を見せる。 どれだけ複雑に縒れていようとも、流れには流れのリズムがある。それが一瞬乱れるのだ。 そこで、すっと竿を上げると、滑らかな川の感触が、突然、魚の生きた手応えになる。 もちろん魚が釣れることも面白かったけれど、どれだけ微妙なアタリが取れたか、それが僕を夢中にさせた。 そして、微妙なアタリを取ることにかけては、前田先輩がクラブの中で一番上手かった。目印に何の変化も見られないのに、突然竿を立てる。そして、彼が竿を上げる度に、常に魚が流れから飛び出したのだ。 「口じゃ説明できないよ。自分もこういうのがアタリって、分かっている訳じゃないからな。ん?とか、あれっ?て感じるそれ、としか言い様がないよ」 前田先輩は、丸眼鏡の下で細い目をしょぼつかせながらよく言っていた。 「何回も何回も釣りに行って、何尾も何尾も釣り上げて、初めてつかむ感覚的なものだと思うよ」 その言葉に従うように、僕は毎週釣りに出かけた。結局、大学に入った年は、丸々一年実家に帰らず、ひたすら釣り続けた。夏休みはもちろんのこと、禁漁になった冬休みですら、管理釣り場にアルバイトで潜り込み、時間ができれば竿を握っていた。 おかげで、さすがに前田先輩ほどとはいかないまでも、かなり微妙なアタリも見抜けるようになった。 渓流釣りにのめり込んだ理由は、もう一つあった。人里離れた山の奥を、川通しに歩いていく気持ち良さだ。だから、小さなテントを背負って、源流に分け入るのが、ことのほか好きだった。必要最低限の物しか持たず、食料は米と味噌だけ。あとは山菜や岩魚など、現地調達でどうにかした。 気の早い連中が就職活動を始めた三年の春休みも、まだ川に行くことばかり考えていた。春の雪解け水が流れ込むと、一端上がった水温がまた下がる。そうなると魚の食いが悪くなる。その前にどうしても行きたい川が、何本かあったのだ。決められた日数で回れる川の数は限られている。それで、地図を睨みながら作戦を練っているところに、親父から電話があった。 「この休みは帰ってくるんだろ」 「ううん、それがさ、ちょっとわかんなくてさ」 「何が、わかんないんだ。いいから、帰ってこい」 「いや、学校の方の都合でさ」 いい加減についた嘘に、親父が黙った。 しばらくの沈黙の後に、いつになくきつい口調でおやじが繰り返した。 「いいから、帰ってこいや」 「どうしたのさ。何かあったの?」 親父は答えなかった。 「なんなのさ。どうしたん?」 電話線の雑音だけが聞こえてくる。 「どうしたんだってば?」 急き立てる僕の口調を制するように、低い声が耳に響いた。 「ガンなんだ」 「え?ガン?」 聞き間違いかと思った。が、そうではなかった。妹が、十歳年の離れた妹が、ガンに罹ってしまったのだ。親父がとぎれとぎれになりながら、症状を説明する。 このところ訳もなく熱が出たり、鼻血を出し、しかも時々手足が痛いとぐずるので、病院に連れていってみたら、急性非リンパ性白血病、つまり小児ガンだというのだ。もう既に、二ヶ月近くもさまざまな治療を試みては様子を見ているものの、あまり進展はないらしい。白血病細胞の数が、あまり減っていないようなのだ。もし白血病細胞の数が減ったら、その時点で骨髄移植に取り掛かれる。そのためには、白血球の血液型が一致する人から骨髄を貰う必要があるのだが、親父もおふくろも残念ながら、妹とは違う型だった。それで、僕の血液型を調べることになったのだ。 病院に行ってみたら、妹は思ったより元気そうだった。横におふくろがいて、何かテレビ番組の話をしていたらしい。二人で笑っている。 「あ、お兄ちゃん」 「よ、なんの話してたのさ。ポケモンかい」 「ええ? 何でわかったのぉ?」 妹が笑いながら、丸い目をくりくりと動かした。妹の可愛い癖だ。 キモセラピーのおかげで、頭の毛が抜けてしまっている。それを隠すように帽子を被っている。それでも額の辺りが大きく現れ、まだ小さい頃に転んで作った怪我の痕が、はっきりと見えるようになってしまった。妹は、この赤い三日月型の傷跡が嫌いで、髪の毛でいつも隠すようにしていたのに。 「おお、そうだ。いいもん持ってきたぞ」 家の近所のケーキ屋のチーズケーキが好きだったことを思い出して、来るときに買ってきたのだ。 「ああ、すごい、お兄ちゃん」 「あら、美味しそう。お母さんもちょっと貰うわね。お皿を持ってくるわ」 おふくろが部屋から出ていった。 「どうしたの、お兄ちゃん。景気いいじゃん」 「バイトしたんだよ」 「釣りばっかりしてんじゃないのね。お母さんが困ったもんだって言ってたよ」 「馬鹿、釣りってのは、今一番格好いいことなんだぜ。今度一緒に行くか?」 「ん、いいや。だって私ミミズとか触れないもん」 「ミミズなんて使わないよ。それに餌は、俺が全部付けてやるからさ」 「じゃ、行ってもいいかな」 「だから、早くここを出られるように頑張れよ」 そう言ってから、少ししまったと思った。妹も自分の病気が軽いものではないことにある程度気づいているらしかった。少し間を置いて、うんと頷いただけだった。 皿とフォークを持ってきたおふくろと入れ替わりに部屋を出て、階下の受付に行った。しばらく待たされた後で、採血をした。 血液型の結果が出たのは、それから一週間後だった。幸運なことに、僕の白血球型は、妹のものと同じだった。 後は、妹の白血球細胞の数が減るのを待つばかりだった。そうこうしているうちに、僕は学校が始まり、また下宿に戻ることになった。緊急時の手術と違い、一分一秒を争うものではない。それに骨髄移植は、病気を治すためでなく、再発、悪化を防ぐために行うのだ。だから、まず、薬の力で押さえ込み、とにかく今の状態から脱出しなければならない。妹の状態が快方に向かうのを、じっと待つよりなかった。 学校に戻ってからは、相変わらず週末になると釣りに出かけていた。これまで一緒に行っていた前田先輩は、さすがに卒論で忙しくなり、ほとんど川へ出られなくなった。クラブの他の連中とは何となくそりがあわず、それで僕はいつも一人で出かけていた。 小さくてボロいけれど、何とか走っている中古車を手に入れ、足として使った。 新緑がいつの間にか濃い緑にかわり、長袖は半袖に、そしてTシャツになった。テントも、ただ露除けのタープを一枚だけ持って山に入るようになった。 川の音を間近に聞きながら、一人で寝袋にくるまっていると、いろいろなことを考える。最近では、妹のことが多い。 僕が十歳の時に、生きるとか、死ぬとか、そんなことをこれっぽっちも考えたことがあるだろうか。魚釣りや野球や、そんなことばかりの毎日だった様な気がする。何も難しいことはなかったし、悩むこともなかった。 それが、妹はどうだ。あいつは、いきなり、今の僕でも耐えられないような場所に放り込まれている。考えたところでどうにもならないけれど、考えずにはいられない、トゲだらけの事実に四方を囲まれてしまっている。 想いはとりとめもなく流れ続け、ともすると、そのまま明け方まで眠れないこともあった。 夏休みになり、実家に戻った。これまでなら、あちらの川、こちらの沢と釣り呆け、実家に帰るのを延ばし延ばしにしていたのだが、その年だけは違った。妹の病態があまり芳しくなかったのだ。病魔と戦うための足場を、少しずつ失っているようですらあった。 親父とおふくろは毎日病院に通い、医者に何とかしてくださいと頼み、そして効くと言われいるものは、鮫の軟骨から茸の抽出成分まで、何でも試しているようだった。 ねっとりとした暑さが肌の下に潜り込んだような中、妹に会いに行く。 病室に入ってしばらくすると、暑さで重くなっていた皮膚が、ゆっくりと静まってゆく。エアコンの音だけが微かに響く病室で、妹は小さな寝息を立てていた。部屋は、千羽鶴や花、学校の友達から送られた手紙で賑やかに飾られていた。けれど、その賑やかな分だけ、妹が沈み込んで見えた。 しばらく妹の寝顔を眺めていた。起こしても可哀想だから、もうそろそろ帰ろうかと思った頃、ふと妹が目を開けた。 何も言わず、じっと僕の顔を見ている。 僕が笑いかけようとするのと同時に、妹がはっきりとした口調で言った。 「私、死にたくないな」 一瞬どう答えてよいのかわからず、間があいてしまった。 「大丈夫さ。元気になるよ」 「だって、死んだら、お兄ちゃんともう遊べないでしょ。そうしたら、一緒に釣りにも行けないもんね」 「大丈夫だよ。もう少しの辛抱さ。そしたら、川に連れてってあげるから」 何がどう大丈夫なんだよ。心の中でそう思いながらも、他の言葉は口から出てこなかった。 父や母の願いもむなしく、妹は夏が終わる前に、潮が音もなく引くように力を失い、そして、深い闇の向こうに消えていった。 それから僕は、釣りに行かなくなった。 いや、正確には一度だけ出かけた。いつもの沢に入ったのだ。その日はなぜか釣れず、なぜだろうと思い始めた矢先に、一尾の山女魚を見つけた。 その山女魚は、淵の脇の岩の下で、ぴしゃり、と時折水面の餌を取っていた。ピンチョロを素早く鉤に刺し、そのすぐ先に落としてやると、何も迷わずに食いついた。手元に寄せ、鉤を外し、いつものように岩で頭を叩いて絞め、魚篭に入れようとした時だった。 今までなら、なんとも思わなかったこの行為が、とてつもなく残虐なものに思われたのだ。 ついさっきまで一生懸命生きようと、餌を取り続けていた魚。 ついさっきまで、水の中を自由に泳ぎまわり、生命として存在していた魚。 それを僕は、殺してしまったのだ。 とらえようのない罪悪感に浸され、うなだれてしまった。 それで、ぷつりと釣りに行かなくなったのだ。 大学を出てからも、実家には戻らず、そのままその街で就職した。 会社勤めを始め五年も経ったある日、街中でばったり前田先輩と会った。相変わらずの丸眼鏡だったが、髭はなく、さっぱりした顔になっていた。喫茶店に入り、お互いの近況や、知り合いのその後の情報を交換するうちに、自然と釣りの話になった。 「なんだ、もったいないな。全然行ってないのかい?」 「ええ、まあ」 何となく理由を言うのは憚られた。 「今さ、おれ、フライフィッシングに凝っててさ。すごい面白いぜ。今度一緒に行かないかい?」 適当な理由を付けて断ろうかと思った。けれど、そうしたらまた誘われるだろうと思い、本当のことを言うことにした。 「なんか、魚を殺すのがちょっと、、」 「何言ってんだよ。今どき魚を殺す釣りなんてはやんないぜ。全部、キャッチアンドリリースだよ」 前田先輩は、キャッチアンドリリースがどういうものであるのか、そしてどうやって魚を放すのかを、いつもの熱心さで事細かに説明してくれた。 話を聞いても今ひとつピンと来なかった。けれど、前田先輩があまりにも熱心に誘うので、とうとう押されて次の週末に釣りに行く約束をしてしまった。道具は先輩が貸してくれることになった。 川を歩くのは久しぶりだったせいか、なにもかもが心の奥に染み込んできた。せせらぎが足の周りで踊り、透明な流れは目を潤した。川の広がりが、心の皴をゆっくりと延ばしてゆくのが分かった。 けれど、釣りの方はお手上げだった。第一、付け焼き刃のキャスティングではどうもうまく行かず、思った所にフライが飛んでいかない。延べ竿なら手を伸ばせば簡単に届くポイントにも、ちっともフライが入らずいらいらする。そんな時は、一つ深呼吸をして、辺りの景色や川の流れを見回すと、少しは落ち着けた。 小さな岩の横で流れが捩れている、その際に、本当に偶然にフライを落とすことできた。 よしっ、よしっ、よしっ、と心の中で叫びながら、神経が自然と集中する。 と、ぴしゃりと小さなしぶきを上げて、フライが消えてなくなった。 うわっ、出たっ。 そう思うのと同時に竿を立てていた。 手に、ゴツゴツと生き物の力が伝わってくる。夢中で腰を落とし、竿を矯める。堪える。流れの向こうに走ろうとするのを、僕も流れに入り、竿を水面ぎりぎりで支え、のされないように抵抗する。 ようやくのことで岸に寄せた魚は、尺ぎりぎりの山女魚だった。 銀色に輝く魚体に、薄灰色の紋様が淡く浮かび上がっている。鉤を外してやろうとしたら、手の中で、びくびくと暴れた。 六年ぶりに味わう感覚。 流れの中に、そっと戻してやる。 魚は、あというまに泳ぎ逃げ出し、見えなくなってしまった。懐かしい友達に会えたような、たまらなく嬉しい気持ちで一杯だった。 「いい山女魚だったなぁ」 ふと見上げると、前田先輩が横にいた。 「それにしてもお前、フライってのはリールがあってラインを送り出せるんだから、何もあんなに腰を落とすことはないんだぜ。あれじゃ、餌釣りのまんまだ」 言われてみれば確かに。それで、二人で笑った。 その日は、もう一尾釣ることができた。数から言ったら、餌釣りの頃とは比べるべくもない。けれど、例えようのないくらい、楽しくてならなかった。 以来、また足しげく川に通うようになった。数ヶ月もすると、キャスティングのコツも大分わかり、ある程度思う場所にフライを投げられるようになった。最初のように、悪戦苦闘することはもうない。それに餌釣りをしていたおかげで、ポイントの見分け方を知っていたから、魚を釣るのにあまり苦労はしなかった。 数年後の夏のある日、一人でいつもの川に入った時だ。 対岸には大きな木が何本も生い茂り、水面にひんやりと影を落としている。この川で、僕が一番気に入っているポイントだ。 瀬の波が消え、複雑に縒れながら流れている溜まりの端で、小さなライズがあった。そっと近づくと、暗い水面の所々に木漏れ日が当たり、斑模様になっている。波紋が残る辺りを見ると、その一つに、まるでスポットライトを浴びたかのように、小さな岩魚が浮き上がっていた。 岩魚は、僕が見ている前でも、ぽちゃりと水面に頭を突き出し、何かを食べた。小さな茶色のフライを結び、そっとその上流に投げる。 暗い水面に、ぷつりとフライの白い羽根が浮かぶ。岩魚は、一瞬戸惑ったような気配を見せ、それから先程と同じように、ぱくりとフライを口にした。 いただきっ。 鉤に掛かっても、なぜか岩魚はさして暴れもせずに、簡単に手元に寄ってきてしまった。 水際に寄せ、鉤を外そうと屈み込んだ。 その時、岩魚が、丸い目をくりくりと動かした。それを見て僕は、びっくりした。 あっ、その動かし方は、と目を見張った瞬間、岩魚の眼の上に、小さな赤い三日月型の傷跡があるのに気づいた。 「これじゃ、まるでお前は、、、」 それに応えるかのように、岩魚はまた眼をくりくりと動かした。 間違いない。岩魚は、妹の生まれ変わりだった。 震える手で、いつもよりことさら丁寧に鉤を外し、流れの戻してやった。 けれど、岩魚はその場に留まったまま、一向に泳ぎ去ろうとしない。 随分長い間、僕たちはそこで、そのまま佇んでいた。 僕はどうしていいのかわからなかった。けれど、いつまでもそうしている訳にもいかず、とうとう口を切った。 「また、来るから。また来週ここに来るから、もうお帰り。ゆっくり休んで、寝て、美味しいものを沢山食べてさ。絶対に来るから」 妹は、それでもしばらくは躊躇した後、ようやく淵の奥深く泳ぎ去り、見えなくなった。 以来、僕は休みは必ずここに来て、妹と会うようになった。鉤先を折ったフライを投げると、妹はそれをそっとくわえる。そして、僕たちは、ここで一日を共に過ごす。 最近では、仕事をしていても、あのポイントのことが気になってどうしようもない。 他の釣り人が釣ってしまうのではないか。 妹が傷つけられたり、さらには殺されてしまうのではないか。 気掛かりで、心配で、仕事が手に付かない。 いっそ辞めてしまおうか。そして川の近くに引っ越そうか。 そう、真剣に考えている。
(初出 フライフィッシャー誌1998年11月号)
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