窓の向こうには、抜けるような青空が広がっています。連綿と続く山並み。ふうわりと流れて行く雲。 頬杖を突いてそんな景色をぼんやりと眺めている男の名前は政樹、年は三十というところでしょうか。 「ああ、暇だなぁ。どうして客が来ないのかなぁ」 その隣りでやはり頬杖を突いていた妻の佳子があくびをしながら答えます。 「ねぇ、あたし達、大丈夫なの?」 二人が座っているのは、誰もいないがらんとしたラウンジの中。山里の外れに新しく建ったばかりのペンションです。それまで街で会社勤めをしていた政樹が、どうしても川の近く、山里に住みたいと言って始めたペンションでした。 川で釣りをしたりのんびり遊びながら、自然に囲まれて暮らす。 そんな目論見で始めたものの、現実はそれほど甘くなく、かなかなかお客が来ません。初めのうちはあり余る時間に、喜び勇んで釣りにばかり出かけていたのですが、すぐに家計に響くようになりました。収入がないのだから、当たり前です。金は天下の回り物とは言いますが、だからといって誰にでも回ってくるとは限らない。いつしか貯金は綺麗さっぱりとなくなり、銀行ローンの支払いにもことかくようになってしまいました。 「どうしたもんかねぇ」 政樹が諦めたように漏らします。 「どうしたもんかねぇじゃないわよ。今晩のご飯だってどうするのよ。お米しかないのよ」 「うーん、とうとうそこまできたか。いや、米があれば上々。なんとかおかずを手に入れようじゃないか」 「手に入れるったって、魚を釣るにも道具はみんな質屋に入れちゃったじゃない」 政樹はうーんと唸りながら、腕を組んで考えておりましたが、よしと頷いて立ち上がりました。 「とにかく魚を釣ろう。それにはまずフライだ。フックを探すのを手伝ってくれ」 「道具は全部質に入れたんじゃなかったの?」 「だから、探すんだよ。フライを巻いていた机の下、あのあたりをよく見れば、一つ、二つフックが落ちてるかも知れないじゃないか」 そこで二人して、床に四つん這いになり、顔を絨毯にこすり着けんばかりにして探し始めました。 「こうやってよく見ると、結構汚ないわね、うちの床。切ったツメ、髪の毛、クリップだの色々なんだか随分落ちてるわ」 「お前がろくに掃除しねぇからだろ」 「うるさいわね。あっ!あった、あった、あったわよ」 佳子が政樹を手招きして呼びます。 「どれどれ。お、ほんとだ、これは十八番くらいかな」 「ねぇ、だからちゃんと掃除しなくて正解でしょお。お義母様に四角い部屋を丸く掃除するってずっと嫌みを言われてたけど、よかったわ、自分を曲げないで」 「馬鹿なこと言ってないでもっと探せ。一つじゃ足りないんだから」 わいのわいの言いながら二人で探して、なんとか五本拾うことができました。 「次は、マテリアルだ。えーと、そうだなぁ」 政樹が首を傾げているところに、隣の家の猫が庭に入ってきました。 「おお、飛んで火に入るなんとやら」 政樹は、そそくさと庭に出ると、しゃがみ込んで猫を呼び始めます。 「みゃぁ、みゃぁ、おいで、おいで、みゃぁ」 「あんた、その猫の毛をむしろうって言うの?その猫はまずいわよ。隣りのお婆さんの猫なんだから。お婆さん、口が悪くてこのあたりでも評判なのよ。そのお婆さんの可愛がってる猫の毛を刈ったなんてばれたら」 「大丈夫、心配すんな」 何も知らない猫は、ふらふらと政樹のもとにすり寄っていきます。 「おお、よしよし、可愛いねぇ」 そう言いながら、猫を抱きかかえると、いつの間に隠していたのか、ポケットからブラシを出し、猫の背中を優しくなぜ始めました。 「あ、あんた、それ、あたしのヘアブラシ」 「こうやってブラシをかけてれば、猫を可愛がっているように見えるだろ。で、ほら、ブラシには猫の毛がたっぷり」 「ああ。あたしのウサギさんのブラシが、猫の毛まみれ、、、」 「泣くなよ、ブラシぐらいで。あとで洗っとけばいいんだから。これくらいあれば充分か」 政樹は用が済んだ猫をぽいと庭に放り捨てました。 「次は、と。ロッキー、ロッキー、おいでぇロッキー」 その声が響くやいなや、裏から真っ黒い大きな犬が走り寄ってきました。 「おお、ロッキー、いい子だねぇ。お座り」 行儀よく座っている犬の口元に手を伸ばし、ヒゲをハサミで切り始めました。 「あんた、何してんの、ロッキーが可哀想じゃない」 「大丈夫だよ、猫じゃあるめぇし。犬はヒゲなんかなくとも平気だよ」 政樹は、猫の毛、犬のヒゲを手に取って眺め、何やら考えています。 「あと使えそうなのは、と」 政樹はしばらく辺りを見回しておりましたが、そのうち庭の一角の大木にするするとまるで猿のように素早く登りました。梢に掛けてある鳥の巣箱に手を伸ばしています。そして丸い穴に手を入れていたかと思うと、何かをポケットに押し込み、さっきと同じようにするすると降りてきました。 「あんた、何を取ってきたの?まさか、鳥のヒナを焼いて食べようって魂胆じゃ」 「まさか。でも、それも悪くないな」 そう言いながらポケットから出したのは、数枚の鳥の羽でした。薄茶、焦げ茶、黒。小指の爪ほどの可愛い羽ばかりです。 「よし、これで材料が全部揃った。ちょっとお前、ミシン糸を取ってきてくれ」 佳子が隣の部屋に行っている間に、政樹はいましがた拾ったフックをペンチで挟み、ハンドルを輪ゴムでぐるぐる巻きにしています。 戻ってきた佳子から糸を受け取り、その手にさっきのペンチを持たせました。 「そう、そうやって、ちょっと押さえててくれ」 政樹は犬のヒゲ、猫の毛、そして小鳥の産毛を器用にフックに巻き止めていきます。 「あんた、うまいもんだねぇ」 「そうだろ。リー・ウルフってぇアメリカのフライフィッシングの神様みたいな人は、ペンチすら使わず素手で巻いたってぇからな」 「ペンチでこれだけうまく巻けるんだったら、あんな高いお金を出してバイスを買う必要なんてないねぇ」 「ば、馬鹿を言っちゃいけないよ。それはそれ、これはこれだ」 ニンフのような、あるいはテンカラ鉤を小さくしたような、なんとも不思議なフライが一つずつ机の上に並べられていきます。 「これで、フライはよし。次はロッドだな。裏のクマザサから適当なやつを切ってこよう」 政樹はナタを手に、裏口に消え、ものの五分もしないうちに人の背丈ほどのクマザサを一本手に戻ってきました。そして針金を鉛筆に二度、三度巻いて輪っかを作り、それをクマザサに縛りつけます。ほどなく、先端に一つ、中程に二つ、全部で三箇所に針金の輪が付けられ、ただのクマザサがなんとなくロッドのように生まれ変わりました。 「次はラインか。荷造り用のヒモはまだあったっけ。おお、それ、それ。これをそうだな、一尋、二尋、もう一つおまけにこれくらい」 政樹は白いビニールの細ヒモを両手を広げて解き、コイル癖がついているのを端からぎゅっと持ってしごき取り始めました。 「あんた、そんなもんで大丈夫なの?」 「フフ、見てろ」 政樹はそう言うと、右手でヒモの中程を持ち、全身を弓のように後ろに反らせ投げ上げました。ヒモは、細い曲線を描いて宙にするすると延びてゆきます。伸び切ったところで、今度は前に体ごと振りかぶるようにして振りおろすと、白い線が宙を横切り、部屋の反対側の壁まで届いたのでした。 「あんた、すごいじゃない」 「な、ただのヒモでもこれだけできるんだ」「ふーん、じゃ、もうロッドもラインも買わなくていいってことね」 「馬鹿。これは、その、なんだ、あれだから、やっぱりロッドもラインも必要なんだよ。素人はまったく何も分かってないんだから」 政樹は口の中でぶつぶつ言っております。 「さっきのミシン糸をもう一回見せてくれ」 佳子から渡されたボビンを一つ一つ手に取って、糸を少し出しては引っ張ったりすがめたりしておりましたが、黒くて細い糸に満足したのでしょうか、それを一メールほど切って、先ほどの荷造りヒモに結びつけました。 でき上がったものを荷造りヒモの端から左手の親指と小指に八の字型に掛けていき、ミシン糸の部分まで掛け終わると、右手にクマザサを持って、いよいよ準備完了です。 「じゃ、行くか」 二人はぞろぞろ山道をおり、川に向かって歩いていきました。 「ねぇ、ウェーダーはいいの?」 「あれば、履いてるよ」 「え、じゃ、あれも質屋?なくても大丈夫なの?水、冷たくない?」 「任せとけって。水に入らなくても釣れるポイントがいくつかあるんだ」 「ふーん。バイスもいらない、ロッドもリールもラインもいらない。おまけにウェーダーもいらないのか」 「一々気になることを言うやつだな、お前は」「だってぇ。フライフィッシングをするには必要だって言うから、あれだけ高いものを買ったのにさ」 「おうよ、フライフィッシングにはああいう道具が必要なんだ。でも、これはフライフィッシングじゃねぇの」 「じゃ、なんなのよ」 「漁だよ。食いもんを手にするための漁だ」 「じゃ、政樹は、釣り師じゃなくて漁師って訳ね」 「むむむ、漁師かぁ。せめて英語にしてフィッシャーマンと言ってくれないか」 「はいはい、分かりました、フィッシャーマンさん。なんでもいいけど釣ってよね」 ごちゃごちゃ言っているうちに、川が見えて参りました。政樹は、真っ直ぐ川には向かわずに、農家の裏を回って薮の中に入っていきます。腰くらいまである雑草を泳ぐようにして掻き分けていくうちに、ぽっかりと流れのほとりにでました。 水面近くまで柳の枝が垂れ、対岸からは決して狙えない、しかもこちらからもほとんどロッドを振る場所がない、そんないやらしいポイントです。 柳の根元にうずくまるようにして、釣りの準備をしていた政樹が、クマザサロッドをそろそろと流れの上へと差し出しました。 よく見ると、ロッドの先から小さなフライが、まるで糸からぶら下がったクモのように揺れています。 その小さなフライが今にも水面に触れそうになったその瞬間、下でぎらりと反転するものがあり、クマザサロッドがしなりました。 「おっとっと」 政樹が慌てて、左手にしまい込んでいた荷造りヒモを繰りだします。シュルシュルと音を立てて白いヒモがクマザサロッドを走り、水面に突き刺さりました。もう少しで手元のヒモが無くなるというところでどうにか堪えています。じわじわとロッドを立てては、ヒモをたぐり寄せる、その繰り返しです。 おっと。うう。くそ。 ロッドがのされる度に政樹の口から声が漏れます。その間隔が次第に遠くなり、とうとう足元の水面に銀色に輝くヤマメが横倒しになりました。 「ううん、そうかぁ。ネットがない」 政樹が呻くように呟きました。 「一か八かだ」 クマザサロッドを左手に持ち替え、そろりそろりとしゃがみました。右手を伸ばしながら、同時に左手のロッドを立てて魚を寄せていきます。尾の下流に静々と入れた右手をゆっくりと上流に忍ばせていき、、、。 ばしゃっ! 派手な水しぶきとともに、政樹が魚を投げ上げました。宙を舞ったヤマメは、佳子の足元に落ち、びしゃびしゃと跳ねています。 「やった、やった、きゃぁー、すっごおい」 「ふううう。疲れたぁ。一尾の魚を釣るのに、こんだけ神経使ったのは生まれて初めてだぜ」 それからもそんな調子で、あそこのポイント、ここのポイントと盗むようにして釣って、どうにか二尾のヤマメを手に入れることができました。 「これだけあれば、今晩はいいだろう」 「そうね。ああ、よかった」 なんとか夕飯のおかずが手に入り、にこにこ顔でペンションに帰り着くと、玄関の前に車が止まっております。 外車。しかも高そうな車です。 「誰、あれ。ひょっとして借金取り?」 「縁起でもないことを言うなよ。銀行のやつにしちゃ、車がよすぎるな」 二人が恐る恐る近づいて行くと、チャッと乾いた音ともにドアが開き、中から男が出てきました。 淡いオレンジ色のポロシャツに、ベージュのコットンパンツを合わせ、靴は紺のデッキシューズ。年のころは、政樹と同じくらいでしょうか。しかし、着ている服ばかりか顔つきにも、どこか裕福そうな雰囲気がにじみ出ています。 「あ、このペンションの方ですか」 低くよく透る声でした。 「はい、そうですが」 「今日、お部屋は、空いてますか」 「え、部屋?ひょっとしてお客さん?」 「部屋が空いていれば、二、三日お世話になろうかと」 「うっしゃあ」 思わず政樹は拳を握っておりました。 「どうされました、マスター」 「いや、あはは。はい、はい、空いてますよ。もう、選り取り見取りでお部屋を選んでいただけますですよ」 後ろで小躍りしている佳子を急かせて、ペンションの玄関を開けます。 男は車のトランクから、革の鞄と、やはり革製のロッドケースを取りだし、ペンションに入りました。 「こちらには釣りで来られたんですか」 「いや実は、仕事で近くまで来たんですが、商談が思ったより早く片づいたんで、リフレッシュしようと思いましてね。あ、そうだ、マスター。お宅には金庫はありますか。いや、ちょっと預かって欲しいものがありまして」 男はそう言うと再び車に戻り、小さなアタッシュケースを持ってきました。 「いや、中身はほとんど空なんです。もう、お客様にお届けしたんで。ただ一つだけお客様の気が変わって、デザインの変更をしなければならなくなってしまいましてね」 男がアタッシュケースを開けると、中にはもう一つ箱が入っておりました。黒のビロード地の小さなもので、上に何かロゴのようなものが金字で書かれております。男は無造作に左手に箱を乗せ、ぽかりと蓋をあげました。 中から現れたのは、まばゆいばかりの指輪。金色に輝くリングの中央で、大きなダイヤモンドがきらきらと溢れるような光を放ち、その回りを綺羅星のように小さいダイヤが取り巻いております。 「うわぁぁ、これ、本物ですか」 「馬鹿、佳子、失礼なことを聞くもんじゃない」 「だってぇ」 「あはは、マスター、いいんですよ。実はこの下の街の駅前ビルを持っている不動産屋、あそこの奥様に頼まれて持ってきたんですが、いつもながらに気難しい方で。メインのダイヤは気に入っていただけたんですが、どうしても、この台座の飾りに使っているダイヤが駄目だとおっしゃられてね」 「どこがいけないんですか」 「小さすぎるとおっしゃって」 「ええ?私、その飾りダイヤ一つでもいいから欲しいわ」 男は、パタリと箱を閉じ、アタッシュケースにしまいました。 政樹と佳子は、口を半ば開けだらしない顔で、その様子を見ております。 「じゃ、マスター。これをお願いします」 政樹は押し戴くようにしてケースを預かると、台所の床板を上げ、その下にある隠し金庫にしまいました。 ほんとは、ここに俺達の売上金が入るはずなのになぁ。でも、欲張っちゃいけない。まずはこの客に気に入ってもらい、常連さんになってもらわねば。 「はい、確かにしまわせていただきました」 「ありがとう、マスター。これで、安心して釣りに行けます。ああ、そうだ。この辺で夕マズメをやるとしたら、どこがいいんですか」 政樹は、もうそれは懇切丁寧に、これ以上細かい地図はないというくらいに釣れるポイントを説明いたします。 「じゃ、夕飯は、夕マズメのあとにお願いいたします」 出ていく男を見送って、政樹と佳子はそれこそ本当に抱きあって喜びました。 「あんた、お客さんよ、本当のお客さんだよ」「うん、うん。くうう、泣けてくるぜ」 「でも、あんた、夕飯はどうするの」 「さっき釣った魚があるだろ」 「そりゃあるけど、ご飯と魚だけ?」 「そうだよなぁ。よし、ちょっと待ってろ」 言うが早いか政樹は外に駆け出し、両手に何か掴んで戻ってまいりました。 「あんた、それ、なんだい」 「庭に生えてた草だ」 「そんなもん、食べられるの?」 「いや、分からん。でも、ないよりマシだ」 政樹は、早速その訳の分からない雑草を、一つはお浸しに、もう一つは炒め物にしました。そして、恐る恐る口に入れてみます。 「どう、食べられる?」 「ぺっ、ぺっ、ぺっ。駄目だ、こりゃ。人間の食いもんじゃねえ」 ごみ箱に捨てようとする政樹を佳子が押しとどめます。 「ちょっと待って」 佳子は、お浸しには雑草が隠れるほどの八丁味噌を混ぜ合わせ、炒め物にはこれでもかこれでもかと唐辛子を振りかけております。 「ね、これでちょっと食べてみて」 言われるままに政樹が炒め物を口にします。 「うわぁ、なんだ、こりゃ。火が出そうだぜ。口が燃えてるよ。どうすんだよ、こんなもん」 「お浸しは、この辺の地味噌を使った昔ながらの田舎料理、炒め物はキムチ風山菜料理って言えばいいじゃない」 「お、おまえ」 「なによ」 「さすが、俺の女房だな」 こうして二人でとんでもないものを作って待っておりますところに、先ほどの男が帰って参りました。 「いかがでした?」 「いや、久しぶりに、いい釣りをさせていただきました」 「それはよかったです。まぁ、お風呂も沸いておりますので、よろしかったら」 「じゃぁ、そうさせていただきます」 男が風呂に入っている間に、テーブルの上には先ほどのインチキ料理が並べられます。 「ああ、いい湯でした。疲れがさっぱり取れますね。ほほう、これはなんでしょう。美味しそうですね」 男はテーブルにつくと、早速お浸しに箸をつけました。 「んぶ、ぐ、こ、これは」 「はい、うちの祖母がよく作ってくれましたこの辺の田舎料理でして」 「な、なるほど。いや、しかし、なんともエグイものが。じゃ、こちらのこれは、と。お、お、お。うわっ、き、きますなぁ」 「田舎料理ばかりじゃなんだと思いまして、山菜をキムチ風にあつらえてみたんですが」 「ううん。凄まじいというかなんというか。この鱒もなにかどこか普通でないとか」 「それは今日私が釣ってきたのを塩焼きにいたしました」 「よかった。うん、日本人はこれが一番。ご飯と魚がやっぱりいいですな。あはは」 男が魚をつついているところに、佳子がそっと目配せをして政樹を呼びます。 「ねぇ、あんた。明日の朝ご飯はどうすんの。お米しかないのよ」 「ううん、そうか。よし。握り飯を作っとけ。塩だけの握りでいいから」 政樹はそう言いつけるとテーブルに戻りました。 「で、明日のご予定ですが」 「ええ、また、一日釣りを楽しもうかと思いまして」 「それでしたら、なるべく朝早く出かけられることをお勧めいたします。この辺の魚はマズメ時が勝負ですから。で、朝ご飯ですがお握りでいかがでしょうか。川でお好きな時にお召し上がりいただけますし。ただ、このあたりの言い伝えで、おかずや海苔を使った握り飯を持っていくと、山神様が嫉んで魚を分けてくれない、塩だけだと哀れんで魚を分けてくれる、そう言われておりまして」 「ほほう、なかなか面白い話ですね。それじゃ、塩だけでお願いいたします。山神様には嫌われたくないですから」 「わかりました」 キッチンに引っ込んだ政樹に佳子が感心そうに頷いております。 「あんたって意外と物知りなんだねぇ。いつ、あんな言い伝えを勉強したんだい」 「馬鹿、デタラメに決まってるだろ」 もう無茶苦茶もいいところです。 さて、翌朝早く、塩だけのお握りを持って男は出かけていきました。 陽が上るのを待ちかまえたように、二人は肉屋、八百屋、酒屋に出かけ、もう拝み倒さんばかりにして、ツケで食材を買い込みます。 「これでどうにかまともな食事を出せるよな」 「よかった、私達も醤油ご飯から卒業できるのね」 ようやくペンションらしい洒落た料理の並ぶ食卓に、釣りから帰ってきた男も満足な様子で、美味い美味いと盛んに舌鼓を打っております。 そんなことが続いた四日目の夜。腕によりをかけた料理を並べ、男の帰りを待っているのですが、真っ暗になってもまだ戻って参りません。あんまり遅い帰りに事故でもあったのではと心配になった二人は、警察に連絡をして捜索をしてもらうことにいたしました。 早速やって来た警察官に、男の風体を告げていると、 「うううむ、それは、ひょっとしてこの男ですか」 と、警察官が写真を取りだしました。そこには、紛れもないあの男が、いくぶんやつれた表情で写っております。 「あ、そうです。この人です」 「この男は、詐欺師でしてね。下の街でさんざん人を騙して、今捜査状が出てるんですわ」 「え?じゃ、あのダイヤは?」 政樹がキッチンに走り寄り、隠し金庫から指輪を取りだしました。 警察官はそれを受け取ると、窓ガラスにぎりぎりと強く擦りつけます。 なんと、ガラスには傷一つ付かず、そのかわりに指輪の方がすり減っています。 「あああああ」 佳子がへたへたと座り込みました。 政樹は、指輪をぐっと睨み、唸りました。 「見上げたもんだな」 「あんた、なにを感心してんのよ」 「いや、さすがはフライマン。本物そっくりの贋物で騙しやがった」 おあとがよろしいようで。
(初出 フライフィッシャー誌2001年1月号)
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