僕の中には、一尾の山女魚が棲んでいる。
 暑い日も寒い日も、さらさらと涼しげにヒレをそよがせながら、僕の中を泳ぎ回っている。
 時折さっと泳ぎ上がり、何かを食べる。
 あ、ライズ。
 思わず声が漏れそうになる。
 その度に、まるで水面に波紋が広がるかのように、柔らかく仄かに暖かいものが体中に染み渡ってゆくのだ。
 微かな波が次第に消え去るのを感じながら、僕は目を閉じ、遠い遠い川に想いを寄せる。決して辿り着くことのできない、懐かしい流れの中にいつまでも浸っていたくて。

 ことの始まりは、こうだ。
 暮れも押し詰まったある日のことだった。てっきり深夜までの残業になると思っていた仕事が、予想していたより随分と早く片づいてしまった。そのまま家に帰るのもなんとなく勿体なく思われたので、久しぶりに飲みに行くことにしたのだ。
 街は平日だというのにたくさんの人で賑わっていた。僕は人の流れに乗って、ぶらぶらと表通りを歩いた。ぽっかりとできた時間と肩の重荷が降りたせいで、まるで休日のように心が軽い。
 どこに行こうかな。一人だから、この間のカウンターバーに行ってみるか。
 そんなことをぼんやりと考えていると、突然、
「ますつりだよ」
という言葉が耳に入った。六〇歳ほどの猫背の老人が、すれ違いざまに呟いたのだ。
 鱒釣り?
 一体、なんのことだろう。思わず立ち止まってしまった。老人が過ぎ去ってからもしばらく、あれはなんだったんだろうと首を捻った。
 あ、そうか、鱒釣り、とは限らないぞ。
 つい最近の出来事を思いだしたのだ。やはり仕事の帰りに、駅のホームで電車を待っていた時だ。向こうから歩いてきた二人連れの若い男の一人が、
「犬の首は、腐り」
と、とてもシュールなことを口にしたのだ。まるで、現代詩の一節を読み上げているようだった。
 が、ふと、それが「犬の首は、腐り」ではなく、「犬の首輪、鎖」だと気づき、吹き出したことがあったのだ。
 だから、「ますつりだよ」も「鱒釣りだよ」とは限らない。
 口の中で「ますつりだよ」を転がしながら歩き、煤けたビルに入って六階までエレベータで上がる。
 カウンターだけの小さなバーに入り、僕はラムをストレートのダブルで頼んだ。
 ビル・エバンスのピアノが低く流れる店内には、平日だからだろうか、あまり客はいなかった。
 僕はグラスを傾けながら、ぼんやりと、「ますつりだよ」の謎を追いかけ続けた。けれど、ダブルを三杯飲んでも、糸口は何も見つからない。
 マッスル・ツリーだよ。今スーツ売りだよ。
 似たような音の言葉の中にもサインは潜んでいない。
 それで僕は心のポケットに「ますつりだよ」を放り込み、店を出た。時間がまだ早いせいか、通りには相変わらず人が多い。僕は駅に向かってゆっくりと歩き始めた。ラムの緩やかな酔いが、耳の後ろで揺れている。
 と、向こうから来る老人に目が留まった。先ほどの「ますつり」老人だ。ニコニコと笑いながら、道行く人にくりくりとした目を向けては、何か話しかけている。誰も相手にしようとしないのに、一向に気にかけるふうでもなく、歩道を右に寄ったり、左に揺れながら歩いてくる。
 僕は、彼が何を言っているのか聞き取りたくて、立ち止まって彼を待つことにした。
 下膨れの顔にちょびヒゲを生やし、短い髪は脂ぎってぺたりと頭にくっついている。浅黒く焼けた顔の真ん中で、丸い目がいたずらっぽく動き回り、いかにも楽しそうだ。
 袖の擦り切れた古びたコートを着た老人は、僕の顔を見ると、心の底から嬉しそうににやりとした。僕の前に立ち、斜め下から見上げるように顔を傾け、口を開いた。
「ますつりだよ」
 やっぱり、鱒釣りだよ、と聞こえる。
「おじさん、なに、そのますつりって」
 風俗の新しい流行りかなんかだろうか。そう思って聞いてみた。
「ますつりは、ますつりだよ」
 ちっとも答えになってない。僕はちょっとスケベ心を出して、ちょっかいを出すことにした。
「おじさん、そのますつりって、面白いの?」
 老人は、だらしないくらいにニマァと口を開いた。
「おもしろいよぉ、ますつり。やるかい?ますつり」
「ふーん。いくらすんの、そのますつりって」
 老人は、僕のことを頭の天辺からつま先まで二度、じっくり品定めをするように見てから片手を広げた。
「え、なに、五万円?高いよ、それ」
 僕は、「ますつり」がどんな遊びか分からないけれど、それは高いように感じられた。
 老人は、頭をぶるぶると横に振って、また手を僕の前に突きだした。
「五千円?」
「はいな」
 老人が嬉しそうに首を振る。
 五千円?
 それって、なんか、すっげぇ危なくないっすか。どんな遊びだか知らないけど、随分やばそうな気がする。
 けれど同時に、五千円でできる「ますつり」というものが、一体なんなのか、覗いて見たい気も湧き起こった。
「おじさん、それ、あとで恐いお兄さんが出てきたりすんじゃないの?」
「ますつりは安心、安全第一」
 老人は、拳で胸を叩いて頷いている。
 どうしようか。もしやばそうだったら、走って逃げてもいいか。昔から逃げ足には自信があるし。
 どうにも好奇心を抑えることができなくなってきた。
 よし、行くか、ほんとに。
「おじさん、じゃあ、そのますつりっての、やってみようかな」
 老人は、ぐふぐふと笑いながら、大きく首を縦に振った。
「はいな、わかった。それじゃ、ますつりにまいりましょう」
 老人はくるりと向きを変え、ずんずん歩き出した。僕は、慌てて彼の後を追った。
 彼の隣に並ぶと、すえた汗と酒の匂いが仄かに漂ってきた。肩のあたりには、うっすらと白くフケも溜まっているようだ。
 なんだか、かなり怪しい。普通の風俗の客引きなら、もう少しマシな格好してるもんな。
 老人は、僕が怪しんでいるのを知ってか知らずか、時折僕の顔を覗き込んでは口を横に大きく開け笑いかける。僕はそれに愛想笑いで応える。


 老人が先になって交差点を渡り、表通りから細い路地へと僕を招き入れた。僕たちはきらびやかで明るい世界から、いきなり暗くうらぶれた世界へと足を踏み入れていた。路地の奥では、くすんだようなスナックの看板がぼんやりと灯っている。中では、男が暇そうにテレビを見ていた。斜め向かいの焼鳥屋では、くたびれた顔の男が二人、ビールを飲みながら低い声で話している。
 路地を突き当たりまで歩き、ブロック塀に沿って曲がると、今にも沈みそうな木造のアパートが目の前に現れた。錆の浮いた鉄骨の階段が二階に伸び、薄桃色のベニヤのドアが半開きになっている。
 老人は、その階段の下をくぐり、一階の一番奥の部屋の前に立った。どこからともなく猫が現れ、みゃぁみゃぁと鳴きながら、老人の足に身体をすり寄せている。
「おお、お前かい。今、帰ったよ。ちょっとお待ち。これから仕事だから」
 老人は猫を抱き上げ、ドアを開けた。
 僕は、「ますつり」に来たことを後悔していた。いくら何でもこれはひどすぎる。洒落にも何にもならない。逃げるのなら、今だ。
 そう思っていると、老人が振り返って猫を地面に置いた。茶トラの猫は僕のところに来て、老人にしたのと同じように僕の足に身体をすり付けた。僕のことを見上げて、みゃぁとか細く鳴いた。
 それで、なんだか逃げるタイミングを逸してしまった。
 老人に促されるままに部屋に上がる。六畳ほどの大きさで、部屋の中にはほとんど家具がない。狭い流しが隅にあり、真ん中にこたつが一つあるきりだ。
 僕は、なんだかとても落ち着かない気分で、部屋の中を見回した。「ますつり」はもういいから、帰りたかった。おかしなスケベ心を出した自分が恨まれた。
「それじゃ、ますつりですが、まず、お代を」
 もうここまで来たら、とにかく金を払って、さっさとすませて帰るよりない。財布からお金を出し、老人に払った。
「ありがとうございます。で、なんにしましょ」
「なにって?」
「はい、ますつりですがな。餌、テンカラ、ルアー、フライとありますが」
 へ?それってまるでほんとの鱒釣りみたいじゃん。
「じゃぁ、フライでお願いします」
「フライですね、最近は、結構フライに人気がありましての」
 老人はそう言いながら、押し入れを開けた。中には、ウェーダー、ベスト、ロッド、リールなど、様々なフライ用品が並んでいた。それを一つ一つ出しては、こたつの上に並べてゆく。
「これをお使い下され」
 僕はロッドを手に取ってみた。見たことも聞いたこともないメーカーだった。軽く振ってみる。柔らかくのったりとしたしなり具合は、グラファイトではなくグラスだろうか。
 リールをロッドに付ける。これも初めて見るメーカーだ。アンティークというには新しく、けれど決して今風のデザインではない。とても不思議な雰囲気を醸し出している。
 ウェーダーはゴム引き、ベストもポケットの数が少ない。
「そのウェーダーも履いてくださいな」
「え?ウェーダーまで履くんですか?」
 部屋の中でウェーダーを履いて、何をするっていうんだ。どんな遊びがこれから始まるのか、いよいよ訳がわからなくなる。けれど、もう半分捨て鉢になっていたので、言われたままに、足を通し、肩ひもまでかけた。
 畳の上にウェーダーで立つのは、すごく変な気持ちがするものだ。してはいけないことをやっているばかりか、とても場違いな気がするのだ。
 老人は畳が汚れるのも一向に構わないふうで、腕組みをして、にこにこしながら見ている。そして僕が釣り支度を終えるのを待っていたかのように、先ほど釣り具を取りだした押し入れを閉め、今度は反対側を開けた。そこには何もなかった。上の段も下の段も空っぽだ。
「そこに上がってくださいな」
 老人が上の段を指さした。
 僕は、ロッドを傍らに立て掛け、よっこらしょっと片足をかけようとした。ゴム引きの重いウェーダーのせいで、膝がつかえて足がうまく上がらない。どうにか身体を持ち上げ、転がり込むようにして押し入れに入った。老人が壁に立て掛けておいたロッドを手渡してくれる。
「それじゃ、ごゆるりと」
 軽く頭を下げ、老人が押し入れを閉めた。
 おいおい、待ってくれよ。真っ暗じゃん。こんな押し入れにおかしな格好をして閉じこめられて、どうしろって言うんだよ。
 いやだよ。やめようぜ。
 僕は押し入れを自分で開けて出ようとした。が、ふすまに向かって伸ばした手が空を切った。そこにあるはずのふすまがない。どこまで手を差し出しても、何も触れるものがない。
「おじさん、もういいよ」
 老人に開けてもらおうと、そう呼びかけた。が、何か変だ。狭いところにいるとはとても思えない。声が反響も何もせず、抜けていってしまうのだ。
 耳をそばだてて、老人の気配を探ろうとした。しかし近くに人がいるような雰囲気はない。 
 かわりに聞きなれた音が耳に入ってきた。
 あれ、この音は?
 川のせせらぎだった。それもさして遠くない。
 どうなってんの。
 混乱したまま、辺りを見回す。
 その頃には目が慣れたのか、少しずつあたりが見えるようになってきた。
 うっすら何かがあるような気がする。じっと目を凝らす。
 おぼろげながら分かるのは、正面には真っ黒い壁が高く聳え、どこまでも連なっているらしいことだ。その上には、無数の光の点がちりばめられている。まるで星のようだ。いや、星そのものじゃないか。
 足元には、なぜかごろた石が転がっている。触るとひんやりと冷たい。
 なんだ、これは。
 半信半疑のまま、恐る恐る立ち上がる。そして、もう一度頭を巡らせた。
 左手の奥の方が、まるで夜が明けるようにうっすらと白くなっている。それとともに、辺りがさっきよりもう少しばかりよく見えるようになってきた。
 色彩のほとんどない単色の景色が、ぼんやりと輪郭を取り始める。山が、森が、川がそこにあった。
 僕は、朝マズメの河原に立っていたのだった。
 信じられなかった。
 悪い薬でも嗅がされたんだろうか。
 しかし幻覚や夢にしては、あまりにも生々しい風景が目の前に広がっていた。
 僕はとりあえず、川の方へ歩いていくことにした。足の裏に、石の固い感触が伝わってくる。薄茶の大石に足を乗せたら、ぐらりと揺れ、いかにも重そうな音を立てて転がった。
 押し入れにいたことが現実なのか、朝マズメの河原にいることが本当なのか、自分でもよくわからなくなってくる。
 川のほとりまで来て、目の前にあるものをもう一度凝視する。流れは緩く波だって右から左へと走り、対岸には木が覆い被さっている。川幅は十メートルくらいだろうか。
 しゃがんで、水に手を浸してみる。
 心地よい冷たさが手の平をくすぐった。試しに両手ですくって、指を開いた。水は小さな滝となって手から零れ落ち、どぼどぼと音を立てて川に流れ込んだ。
 やっぱり、ほんとの川だよなぁ。
 僕は、もう、そう思うしかなかった。
 その時だ、目の前でぽちゃりと音がして、小さな波紋が広がった。
 ライズ?
 そのあたりを注視する。すると僕が見ている前で、もう一度波紋が広がった。
 僕はもう迷うことなく、ベストからフライボックスを取りだした。中にはフライがぎっしり詰まっていた。薄明の中でも見やすいように、白っぽいフライを選んで結んだ。
 前かがみになり、水面の微妙な流れの変化を読み取ろうとするけれど、まだそれには光が足りない。それで、取りあえず投げることにした。
 フォールス・キャストを二度三度したあとで、力を抜いてシュートをかける。ラインを送りながら、腕を内側に捻り込むようにして左にカーブさせた。
 ライズがあったあたりの僅か上流にフライは落ち、ラインはそれからかなり外れた筋に緩やかに伸びた。
 流れに乗って、ラインが走り始める。けれどフライは、ゆっくりと一所に止まっているように見える。
 黒い水面にぷつりと浮かんだ白いフライの少し横を見つめるようにした。薄暗い中ではその方がよく見えるのだ。
 弛んだラインを左手でたぐり寄せながら、じっと息を飲む。
 ふっと音もなく白い点が視界から消えた。
 僕は、すかさず腕を立てた。腰の柔らかいロッドが、一瞬間を置いて、それから反応した。
 魚の重みがラインに乗った。ロッドがぐにゃりと手元から曲がる。
 でかい、かも。
 尾の一振り、頭の一振りがごんごんと手応えとなって伝わってくる。何度かロッドをのされそうになる。慌ててラインを緩め、体勢を立て直す。
 ぐいとラインを引きずり出して、魚が水面から跳ね上がった。菱形の銀色が、飛沫を上げて宙に舞う。
 おお、すげぇ。
 魚は流れを縦横無尽に走り回る。主導権は魚にあった。僕はただ、ラインを緩めたり、手繰ったりして、ひたすら堪えるよりなかった。
 けれど、さすがの魚も疲れたのか、徐々に僕の方が優勢になった。
 どんどんラインが足元に溜まってゆく。
 浅い流れの中を、それでも魚は逃げ回ろうとする。それをうまくいなして、水際に寄せ、ネットで掬った。
 惚れ惚れとするくらい美しい山女魚だった。
 灰青色の楕円の模様が銀色の肌に浮かび、その上にくっきりとした黒い点が散らばっている。
 ヒレはピンと張り、頭は身体に比べて小さい。
 僕は、魚をネットの下から手で支え、つくづく見入ってしまった。
 思わず、溜め息が出る。こんなに美しい魚を釣ったのは、初めてだった。
 いつまでも見ていたいと思った。それで魚を流れに戻してやった時は、本当に後ろ髪を引かれるような思いだった。
 それから僕はその川を釣り登ることにした。歩き始めてすぐに気づいたのだけれど、美しいのは魚だけじゃなかった。空き缶も、吸い殻も、ティペットの袋も、お菓子の箱も、何も落ちていない。ただ、無垢のままの川がそこを流れていた。
 陽が高くなるにつれ、山の緑が輝きだし、澄んだ水がきらきらと光った。風が緩やかに頬をなぜ、太陽が優しく背中を温めてくれる。すべてのものがふつふつと心の奥に染み入り、僕はその一つ一つに心を奪われた。
 僕は釣り飽きることもなく、瀬の中、淵の終わり、石の後ろにひたすらフライを投げ続けた。その度に、ある時は小さくかわいい山女魚が、ある時は精悍な魚が、またある時は気難しそうな魚が顔を出した。


 どれくらい時間が経ったろうか。ふと気づくと、もう陽はすっかり傾き、山の端に隠れようとしている。僕は淵脇の岩に腰を下ろし、一休みすることにした。
 ようやく意識が魚から離れ、ふらふらとあたりへ漂っていく。静かに暮れなずむ渓流のほとりで、僕は移ろう瀬音のままに心をたゆとわせていた。
 あるかないかの残光が対岸の木々に踊っている。それが見る見るうちに彩りが引いてゆき、それを追いかけるように陰が斜面を登っていく。
 振り返ると、山の頂が金色に縁取られている。
 そんな光景に身を浸して、とりとめもなく川や魚のことを考えていると、不意に僕の中で湧き上がってくるものがあった。
 僕が今ここにいるということ。僕が世界と一つになり、境界も裂け目もなく、混然となって、ただあるということ。川でもなく、魚でもなく、ましてや僕と世界でもなく、ただそれが一つのものとしてあるということ。
 そんな思いが、まるで手に取って触れる事実となって僕を圧倒し、包み込んだ。
 深く熱い力が僕を揺さぶり、高みへと放り投げた。
 思わず、目が熱くなり、涙が溢れ出る。
 僕はなぜ泣くのか自分でもわからなかった。けれど、涙がこぼれるたびに、心のどこかが少し軽くなり、開いていくのだった。
 それで僕は涙を拭おうともせず、流れるままにしていた。頬を伝わり、口の横を走り、顎からぽとりぽとりと滴り落ちてゆく。
 足元に目を移すと、小石の上に涙がまだら模様になって広がっている。
 僕はとめどなく涙を流しながら、ぼんやりとそれを眺めていた。するとそれが、つつつと伝わって下に垂れた。やがて糸のように細い一筋の水が、小石の下から岩肌へと流れ始めた。蛇のようにのたくりながら、黒々とした筋が伸びていく。窪みに溜まった水は滴となって落ち、再び岩肌を走る。やがて最後の窪みが満たされると、とうとう河原の石の脇に溢れ落ちた。ごろた石の陰に一端隠れた流れは、反対側から心なしか太くなって再び姿を現した。
 流れはどんどん大きくなって、ついに小さな石を覆い隠すまでになり、可愛らしい飛沫を上げ、渦を巻き、さわさわと音を立てて川に向かって斜面を下っていく。
 見る見るうちに大きくなった流れは、とうとう人の頭ほどの石まで乗り越え、最後には水際に溜まっていた砂を押しのけ、川と一つになった。あとからあとから淵に流れ込み、砂煙が渦を巻いて広がっていく。
 すると、その濁りの中から、飛びだしてきたものがある。五センチほどの小さな山女魚だ。淵の底できらきらと輝いたかと思うと、流れ込みに向かって突き進んできた。何度かジャンプした末に、石を乗り越えずんずん遡ってくる。浅い流れを背びれまで出して、がむしゃらに昇ってくる。
 涙の流れに沿って河原を横切り、岩の窪みから窪みへ飛ぶようにジャンプし、凄まじい勢いで上流を目指している。ついには僕の足元の小石まで泳ぎ上がった。そしてそこから僕めがけて一直線に飛んできた。
「うわっ」
 山女魚が僕の目に刺さり、そのままスルリと中に入るのが分かった。そして最後に二度三度、尾ひれをバタバタさせ、とうとう全身が僕の中に入ってしまった。
 その瞬間、世界がかっと明るくなった。
 老人がふすまを押し開け、僕を見て笑っている。
 僕は、押し入れの中でロッドを手にして座っているのだった。
「お時間でございます。お楽しみいただけましたでしょうか」
 僕は、未だに何が起こったのかよく分からず、半ば放心状態で、ああとかうんとか曖昧な言葉しか返せなかった。
 あれは、夢だったのか。それにしてはあまりにもリアルな。
 呆然としたまま押し入れから降り、ウェーダーを脱ぐ。
 その時だ。
 僕の中を山女魚が泳いだのだ。あの元気な山女魚が、僕の中をすっと泳ぎ上がったのだ。
「あっ」
「どうやら、お楽しみいただけましたようで」
 老人は相変わらずニコニコ笑っている。しかし、「全て承知しております」、そんな気配が表情のどこかに感じられた。
 なぜか僕は、あれは何だと老人に詰問する気になれなかった。僕の中にヤマメが棲むことはそれほど悪いアイデアだとも思えなかったし、そんなことをしたら、あの川での釣りの思い出がなんとなく汚されるような気がしたのだ。
 それで、僕はただ、「うん」とだけ頷いて老人の部屋をあとにしたのだった。
 あの日以来、僕の中には一尾の山女魚が棲んでいる。
 暑い日も寒い日も涼しげに泳ぎ回り、そして時折ライズするのだ。

(初出 フライフィッシャー誌2000年2月号)

 

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