せせらぎの音がする。
 あれ、僕、どこにいるんだっけ。
 半分寝ぼけたまま身体を起す。夢の残り香がまだうっすらと世界を包んでいて、心が宙に浮いている。
 僕は河原に仰向けになり、顔に帽子を載せて眠っていたのだった。昨夜、寝ずに車を走らせ、朝マズメから釣っていたのだ。そしてすっかり陽も高くなり、魚の出も悪くなったので、河原で昼寝をしていたのだ。そんなことを思い出すのに、しばらく時間がかかる。
 あああ、あ。
 大きなあくびが出る。横になった時には雲ひとつなかった空に、いつの間にかいわし雲が広がっていた。太陽はすでに高い山の端の向こうに隠れ、谷は日陰になってしまった。けれど夕方になるまではまだだいぶ時間がある。夕マズメまでの暇つぶしに、ここからちょっと上にあるダムの放水口でもやってみるか。
 僕は、よっこらしょと立ち上がり、広い河原を歩き始めた。辺りの緑は盛りを越して、色合いも少し沈んだ様な気がする。紅葉するまで、もうさほど間も無いのだろう。そんなことを考えながらしばらく行くと、二十分もしないうちに放水口に着いた。それまで広かった河原が急に狭まり、両岸は切り立った岩盤と深い木立に囲まれ、薄暗く、剣呑な雰囲気が漂っている。山女魚でなく、岩魚の流れだ。
 ひょっとして下の方から産卵にさして来た大岩魚がいたりして。
 そんな甘いことを考えながら、放水口下の大きな溜まりにフライを投げた。
 が、期待に反して出てくるのは、どれも小さな魚ばかりだった。かわいい山女魚、かわいい岩魚。
 お父さん、お母さんを呼んどいで。
 そう声をかけながら、釣っては放し、釣っては放しを繰り返す。けれどいつまでたっても、手の平にすっぽり納まるような魚しかフライに反応しない。
 全く釣れないわけではないので、釣りをやめる踏ん切りが中々つかないまま、だらだらとロッドを振り続ける。一時間あまりも、重たいニンフを沈めてみたり、大きめのストリーマを引いてみたりいろいろやってみた。しかし、これと言った反応はない。どうやら、産卵大岩魚の当ては外れたみたいだ。
 仕方ない。車まで戻って、夕マズメに賭けるとしよう。
 河原を歩き出そうとして、ふと、崖の上を林道が走っていることを思いだした。崖といってもたいした高さも傾斜もない。登って登れないことはないものだ。川を下りながら釣りをするつもりもなかったので、林道に上がってしまうことにした。
 ロッドを口にくわえ、崖を攀じ登ってゆく。苔むした岩肌を、滑らないように気をつけて足場を選ぶ。崖は思いのほか登りやすく、ぐんぐんと高度を稼げる。
 と、目の前に、背丈ほどの段差が現れた。その先は斜面も緩くなり、草が生えている。踏み跡さえあるようだ。
 ここさえ越えれば、後は楽勝だ。
 一杯に伸ばした手で出っ張りを掴み、身体をぐいと引き上げた。
 うわっ!
 突き出した顔のすぐ前に、蛇がいたのだ。もうちょっとで落ちそうになるのをどうにか堪えた。
 落ち着け。落ち着け。急に動いちゃ駄目だ。
 僕は自分に言い聞かせ、ゆっくりと下に降りようとした。
 その様子を、真っ黒な背中に黄色い顔をした蛇は、ちろちろと舌を覗かせながら、じっと見ている。そして、あろうことか、ゆらゆらと頭を振りながら、僕の方に首を伸ばした。
 段差から飛び降りようかと迷った瞬間、蛇の口がカッと開き、目の前に大きく広がった。
 僕はそのまま後ろ向けに崖から落ちた。

 頭がずきずきする。心臓が脈打つたびに、痛みの波が頭中を駆け回る。呻き声が口から漏れる。
 遥か上の方に、僕がさっきまでいた崖が見える。
 あんなところから、、、。
 起きようとして、背中から脳天に激痛が走った。
 どこか骨でも折ったんだろうか。
 それでもどうにか上半身だけ起そうと頭を上げて驚いた。
 うわ、へ、蛇。
 崖の上にいたはずの蛇が、なんと僕の胸の上に乗っている。そして鎌首をもたげ、じっと僕のことを見ている。
 どうして、、、。どうしたらいいんだ。
「いやぁ、えらいすまんことしたな。そんなつもり、ちっともなかったんやけど」
 へ?
 誰だ?眼だけを動かしてあたりを見るが、人影はどこにもない。
「おい、こら、どこ見てんねん。わしやがな、わし、わし」
 え?
「そや、わしやがな」
 な、な、なんだぁ?蛇が喋る?
「いやぁ、ほやけど、わしもびっくりしたで、ほんま。てっきり御陀仏やと思たがな。それで心配になって降りて来たんやで」
 僕は何かおかしな夢を見ているに違いない。蛇が喋る。おまけに言葉は聞こえてくるのに、口は全く動いていない。蛇のくせに腹話術もできるのか。いや、だから、そもそも蛇が喋るわけがないじゃないか。
 意識が混乱して、まともに考えることができない。
「そないに驚かいでもええがな」
 奇っ怪な関西弁が次から次へと頭の中に流れてくる。
「釣りやろ。あそこの淵でやってんの、見とったで。みんなあそこでやるねん。そないにあそこ、ええのんかいなぁ」
 違う。これは現実じゃない。僕は崖から落ちて、頭を打って、それでそのショックで少しおかしくなっているんだ。
「そないに思うて、おまはんの気が済むんやったら、そうしときぃな」
 僕がうろたえているのに構わず、蛇はそのままひとりで喋り続けた。山のこと、川のこと。次第に僕は蛇の話に聞き入るようになり、相槌さえ打ち始めた。蛇の話は続く。森のこと、魚のこと、命のこと、時間のこと、魂のこと。
 けれど話が進むうちに蛇の言葉が曖昧模糊としてきた。何か蛇が喋っているなというのは分かるのだが、意味が上滑りする。まるで僕の頭の中に奇妙な関西弁の塊が隙間なく積み上げられ、何も入れることができなくなったかのようだった。言葉は空に浮かぶいわし雲と変わりなかった。ただそこにあるだけ。
 そのうちに言葉ばかりか、辺りの景色も次第に朧げになり、あやふやになっていった。
 僕はそれを遠くからぼんやりと眺めていた。

 頭がずきずきとする。心臓が脈打つたびに、痛みの波が頭中を駆け回る。呻き声が口から漏れる。
 白衣を着た男が僕を覗き込んでいる。
 蛍光灯の灯る廊下を仰向けになったまま進んでいた。
 低いモーターの音ともに、狭いチューブに入れられる。

 ほの暗い部屋で目が覚めた。吐き気がする。
 ここはどこだろう。
 見覚えのない部屋。
 途切れる記憶。

 その次に気がついた時には、傍らに妻がいた。
 僕の手を握っている。
 しっとりとした温もりが感じられる。
 頭がまだふらふらして、焦点がなかなか定まらない。まだ、少し吐き気がする。世界がぐらぐら揺れている。
 目を覚ました僕に気づいて、妻が嬉しそうに声をかけた。
 改めて見回すと、僕は病院の一室で寝ているのだった。何が起こったのか、どうしてここにいるのか、よく理解できない。そのうちにまた眠ってしまったようだった。
 ようやく僕が何故ここにいるのか分かったのは、そんなふうに起きたり眠ったりを丸一日も繰り返した後だった。
 崖から落ち河原で倒れているところを、ダムの保安要員がたまたま見つけ、通報してくれたそうだ。頭をかなり強打して、気を失っていたらしい。
 入院二日目には、意識はもう普通に戻ったものの、まだ頭痛だけは時折思いだしたように襲いかかって、僕を悩ませた。CTスキャンなどで脳の精密検査もして、後遺症などの心配はないだろうとのことだったので、ひとまず妻も僕も安心した。しかし、念を入れて様子を見るためにさらにもう一日病院にいるようにと医師に言いつけられた。
 翌日ようやく無事退院できたが、さらに二日ほど自宅で休養し、仕事に出られたのは、事故から丸々一週間も経ってからだった。
 頭を包帯でぐるぐる巻きにした姿を見て、同僚は一瞬ぎょっとした顔になったが、原因が釣りだと分かると、皆呆れ果てていた。
「ったくもう、新井さんは好きなんだから。そうまでして魚釣りたいんですか。釣り堀に行けばいくらでも釣れるでしょうに」
「いやぁ、でも釣り堀は、、、」
「魚は魚じゃないですか。怪我で済んだからいいようなもんの、そんなことで死んだら馬鹿みたいじゃないですか」
 今回のことでは妻にも同じように釘を刺されている。
「あなただけの身体じゃないのよ。釣りに行くなとは言わないけど、気をつけてよ、ほんと。正明だってやっと小学校三年になったばかりなんだし、まだまだあなたには頑張ってもらわないといけなのよ」
 そう言われ、しかも頭に包帯を巻いているのでは、いくら身体の調子が良くなったからといって、とても釣りに行きたいなどとは言い出せない。孫悟空が頭に輪っかを巻かれているのと同じである。馬鹿なことを口にしようものなら、キリキリと絞まりそうだった。それで何とか早く包帯だけでも取れないかとやきもきしながら、フライを巻いたりして気を紛らわせるよりなかった。
 やっと念願の包帯が取れたのは、事故から三週間もしてからだった。早くしないと禁漁になってしまう。そうなってからでは遅い。
 焦る気持ちを抑え、どうにか妻を説き伏せた。
 会社、仕事、家庭。みんなとっても大切なことばかりじゃないか。重い責任が僕にはかかっている訳だ。だからこそ、たまの休みくらい息抜きしないと、とか何とかうまく屁理屈を立てて。
 久しぶりにロッドを手に、流れのほとりに立つ。
 ほんの僅かの間にすっかり山は色づいていた。時折、澄んだ流れに、黄や朱に染まった葉が浮いている。
 ウェーダーを通して伝わってくる流れの感触が心地よい。フライボックスを開け、どれを結ぼうか考える。
 ボックスを開けた途端、なぜか、一番上に整列していたフライが気になった。すごく釣れそうな気配を放ち、それが今にもオーラとなって目に見えそうな位だ。
 こんな時は、第六感に従うのが一番。
 そう思って、茶色のボディに横一直線のウィングを付けたスペントを結んだ。
 釣れた。とにかく釣れた。自分でも信じられないくらいに魚が反応した。淵でも、瀬でも、瀬脇でも、魚が居そうと思われる所にフライを落とすと、すっと暗い流れから魚が浮き上がってフライをくわえてくれるのだ。
 川の様子を見ても、特に産卵して息絶えたカゲロウが流れてきている様子もなかったのに。多分、昨夜遅くか、今朝早くにでも大量に流れたに違いない。それで、その記憶が僕のフライへの反応と繋がったのだろう。
 でも、理由などどうでもよかった。こんな馬鹿釣りをしたのは、生まれて初めてだった。
 選んだフライ、投げた場所、魚の状態、僕のコンディション。その全てがぴたりと揃い、まさにツボに嵌まったというところだろうか。
 フライを食べきれないような小さな岩魚から、産卵間近の黒ずんだ山女魚まで、次から次へと釣れ続け、まるで川は魚で溢れ返っているようにすら思えた。
 思いきり、それこそ腹いっぱい釣りを堪能した。そう心の底から感じられた一日だった。
 これだけいい釣りをしたから、しばらく行かなくともいい。その時はそう思ったのだが、数日もしてまた休みが近づくと、釣りに行きたくてウズウズする。
 翌週末は、いつも行く釣り具屋の常連客の和田と堀と一緒に出かけることになった。僕が馬鹿釣りした話を聞いて、それなら俺も俺もと言うわけだ。昨日釣れたから今日も釣れるとは限らない。ましてや一週間も前の話である。条件が同じはずがない。しかし、そんなことは百も承知のうえで、たくさん釣れたという川にはどうしても行きたくなる。釣り人の浅ましくも悲しい性だ。
 交代で夜通し運転し、川に着くや、すぐさま釣りの準備を始めた。
「よぉ、新井ちゃんよぉ。この間は何で釣ったんだって?」
「あ、スペント。これ」
 胸のパッチに付けっぱなしになっていたフライを取り、和田に見せた。
「ふーん」
 和田は、そんなもんで釣れたのかねという顔をしている。
 僕はそれを、釣れた者の優越感で無視しながら、さて、今日は何で釣ろうかとボックスを開けた。
 と、またも、一番上の列のフライに惹きつけられる。自然と手が伸びる。何の根拠がある訳ではない。ただ、なんとなくこれなら釣れそうな気がするのだ。それで、列の左の端にあったカディスをボックスから出し、結びつけた。
 早速、魚が居そうなところに、フライを落とす。
 パシッ!
 水面に飛沫が散って、ロッドがぐいと曲がる。
「ウホホ」
「えー?ウッソだろ。もう釣ってんのかよ」
 いつも準備の遅い堀が、フライを結びながら、声を上げる。和田は、僕の魚の大きさだけ確認すると、さっさと上流のポイントに入り、せかせかとロッドを振り始めた。
 それから三人で先頭を代わりながら釣り登ったのだが、どういう訳か、僕のフライに反応する魚が圧倒的に多かった。
「何使ってんだよ」
「これだよ」
 フライを見せる。
「ただのカディスだよな。ひょっとして何か変なもんでもまぶしてあんじゃねぇの」
 あまりの釣れなさに和田が苛立ち混じりで毒づく。
「おお、おお、自分の腕を棚に上げて、何でも好きなように言ってくれ」
 釣れているから鷹揚である。僕はとても気持ち良かった。
 結局その日、堀も和田もある程度釣れはしたものの、僕の比ではなかった。おかげで帰りの車の中では、いまひとつ納得のいかない和田が、いつまでも僕のフライに何か仕掛けがあると言い張った。完全にそうだと思い込んでいるようだ。
 濡れ衣もいいところだ。釣れる時もあり、釣れない時もある。そういうもんだ。
 いくらそう言っても聞かない。
 仕方ないので、そのまま放っておくことにした。
 釣り具屋で二人と別れ、家に帰り着く。が、なぜか電気が消えている。真っ暗のままだ。
 買い物に行ったにしては時間的に遅い。
 そう思いながら玄関を開け、中に声をかける。誰もいない。電灯をつけると、テーブルの上にメッセージが置いてあった。
「正明、ケガ。至急市立病院まで来てください」
 僕は慌てて、着替えもせずに病院に駆けつけた。
 受付で訊ね、病室まで小走りに行く。ドアを開けると、正明が頭に包帯をして横になっていた。ベッド脇にいた妻が僕の姿を認め、
「もう大変だったのよ。ほんとに大切な時にいないんだから」
といきなり詰った。
「それより、どうしたんだ」
「近くの公園で遊んでて、階段から落ちて頭を切ったの」
 三針ほど縫ったらしい。頭を打ってかなりの量の血が出たので、一緒に遊んでいた友達はもちろん近くにいた人もびっくりしてしまい、救急車を呼んだりして大騒ぎだったようだ。ただ正明を診てくれた医者の話では、怪我は外傷だけで、脳には全く問題ないとのこと。それを聞いて、僕はほっとした。
 痛々しい頭の包帯をかばいながら、正明を抱きかかえ、車に乗せて家に連れ帰った。
 翌朝、正明は、怪我をしたことなど忘れたかのような様子で元気に学校に出かけていった。それを見て僕は、やっと本当に安心することができた。それでも妻は、僕が釣りに行って居なかったことを、いつまでもぐちぐち言い続ける。
「関係ないだろ。僕が釣りに行ってたことと、正明の怪我と」
「そうですけど、何かあった時にあなたが居てくれるのと、居ないのとでは大違いなのよ」
 こういう時は、とにかく聞き手に廻るに限る。結論として何かを導き出すという会話ではないのだから。妻は、内に溜まった鬱憤を晴らしたいだけなのだ。そう思って、とにかく話を聞く。下手に反論しようなどとすれば、とんでもないことになる。
 話を忍耐強く聞いたせいか、妻の機嫌も少しは納まったようだ。鬱憤はこうして小爆発でガス抜きをするに限る。さもないといつ大喧嘩になるか分からない。
 さすがにその週末は遠出をする勇気はなかったので、家の近くにある管理釣り場で半日ほど遊ぶことにした。
 このところ当たっている直感で選んだフライが、この日も爆発した。あまりに釣れるので、いつしか僕の廻りに釣り人が集まり始めたくらいだ。僕の立っている所が余程の当たりポイントだと皆思ったのだろう。けれど、僕から一メートルも離れていない所でキャストし、似たようなスポットにフライを落としているのに、他の釣り人にはほとんど当たりがない。
 我ながら不思議と思いつつも、胸の内は優越感で満たされていく。
 意気揚々と家に帰ると、妻が困った顔をしている。正明が突然熱を出し、倒れたというのだ。子供部屋のベッドでは正明が赤い顔をしてうんうん唸っていた。早速車に乗せ、病院に行き、解熱剤を打ってもらった。お陰で夕方にはどうにか微熱程度まで納まった。
「あなたが釣りに行く時に限って、こうなんだから」
 妻が溜め息混じりに言う。
 そんな馬鹿なとその日は否定したが、その後どういう訳か似たようなことが何度も重なって起きた。僕が釣りに行くと正明に何かが降りかかる。なぜか怪我をしたり、病気になったりするのだ。
 僕はなんだか薄気味悪くなってきた。しかし釣りに行くことと正明の間にはなんの関係もあるわけがない。そんな非科学的な迷信は信じられなかったし、そんなものに惑わされるのも嫌だった。けれど妻は釣りと正明を結びつけ、僕の釣りを目の敵にした。
 妻の愚痴も頂点に達しようかというある日、ふと夜中に目が覚めた。妻は隣でぐっすりと眠っている。
 眠気も何も感じず、冬の空気のように頭の中は冴え渡っていた。
 なぜか窓の外が無性に気になる。気になるから見ようとするのだが、顔をそちらに向けることができない。いや、顔どころか、指一本動かすことができない。金縛りにあったまま、微動だにせずベッドに横になっている。
 窓の外で何かが動いた様な気がした。
 それが何なのか探ろうと意識をそちらに向けた途端、声が響いた。
「なんやねん、おまえ。ちゃんと約束守らなあかんがな」
 聞いたことのある声。それは、崖の上で見た蛇の声だった。
「おまはんがウンちゅうたから、あげたんやで、あれ」
 あれ?なんのことだ。
「あれ、しら切るんかいな。かなわんな。ほな思い出させたろか。これでも知らん言うたら、わし、ほんまに怒るで」
 その声と共に、僕はぐいぐいとベッドの中に吸い込まれていった。窓も天井も遥か遠くに消え、もう見えない。
 と、いつの間にか僕は河原で崖を見上げ、仰向けに倒れていた。胸の上には蛇がいる。
「釣りやったら、ええもんあるんやけど、買わへんか」
 なにを?
「蛇縄ちゅうてな、これや」
 蛇の頭の廻りに、うっすらとピンクの細い糸のような物が現れた。
「よう蛇に睨まれた蛙がすくむちゅうやろ。あんなん、嘘や。これ、使こてんねん。これをそーっと伸ばしていくやろ、と、蛙のやつ、なんや知らん堪らんようになってな、頭をすっと、この糸に向けて伸ばしよるねん。そこで、この端をきゅっと締めると、いちころちゅうわけや」
 蛇はその糸をゆらゆらと揺らし始めた。なんだかたまらない魅力がある。どうしても手にしたくなる。
「おまはんのなんちゅうたか、その釣りに使ことるやつ。そや、フライな。それにこれをちょっと結んだらええねん。この胸のポケットか、それ、入っとんのん。あ、これやな。ほな、この一番上の列のやつに、こうして、括っといたるわ」
 フライボックスを器用に開けた蛇は、ボックスに刺さっていたフライに糸を結び始めた。
「あ、そや、もちろんお代は貰うで。わしも、えろう年取ってしもて、なかなか身体が言うこと利かんようになってな。結構難儀してんねん。それで、必ず、そうやな、週に一回でええし、何ぞ食べるもんを持ってきて欲しいんや。ええか。それが嫌なら、この蛇縄、なかったことにさせて貰うけど」
 僕自身が蛇縄に絡め捕られていたに違いない。是が非でもその蛇縄を自分のものにしたかった。それで、うんと頷いた。
 と、いつの間にか僕はベッドの中に戻っていた。隣では妻が軽い寝息を立てて、ぐっすり眠っている。金縛りもいつしか解けている。
窓の方に顔を向けるが、何もそこには居なかった。
 そうか。そうだったのか。
 あのフライボックスの一番上の列は、どれも蛇縄が結ばれたフライだったのだ。それでボックスを開ける度に、僕は言い様のない力に魅かれ、そのフライを選ぶ。そして、魚達も同じ力に引きずられ、思わずフライを口にしてしまう。
 それが馬鹿釣れの正体だったのだ。
 そして、そのお代を僕が払わないから、蛇は正明に様々な災難を降りかけていたのだ。
 以来休みの度に、生きたネズミなどを持って、川へ出かけることになった。頭を軽く叩いて気絶した奴を、蛇の元に置いてくるのだ。
 でも、大釣りができるのだから、それくらいの代金はいいだろうって?
 とんでもない。どんなに上手い釣り人でも、いつかはフライを失くすもの。違いますか。蛇縄フライなんか、とっくに全部なくした。
 蛇に言わせれば、失くしたのは僕の責任。お代はお代。そんな訳で、僕は釣れない釣りをしながら、蛇縄の代金だけは今も払い続けている。

(初出 フライフィッシャー誌2000年9月号)

 

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