釣り人というのは、嘘をつくものだ。
 釣リ逃した魚を大きく言うのは当たり前。釣りに出かけるためには、ありとあらゆる言い訳をでっち上げ、さらには高価な釣り道具をまるでお買い得商品だったかのように嘘をついて買い込む。
 そんなふうに世間一般では見られているらしい。いや、中には、釣り師と話をする時には両手を縛っておけだのと、自慢げに自ら吹聴する釣り人もいるくらいで、まったく始末に終えない。
 僕は何も全ての釣り人は嘘をつかないなんて言いたいのではない。確かに釣り人の中にも嘘をつく者もいる。しかし、それは世の中には一定の割合で嘘つきがいるという、当たり前の事実を反映しているだけのことで、なにも釣り人の皆が皆嘘つきであるということにはならない。
 それが証拠に、僕はこれまで釣りに行くのに、妻におかしな言い訳などしたことがない。普段から妻との関係を大切にし、お互いの胸の内を思いやる気持ちがあれば、言い訳などせずとも、気持ち良く釣りに行くことができるのだ。だから友達と約束しただの、呪いがかかって行かなければならないだのと、言い訳に四苦八苦しているのを聞くにつけ、それはお前が釣り人だからでなく、ただ単に普段のつけが廻っただけだろうと言いたくなる。
 確かに、僕の仕事は自宅で翻訳やら文章を書くことなので、時間は比較的自由になる。それで他の人に比べて行きやすいということもあるだろう。けれど、自分で言うのも恥ずかしいかぎりなのだが、僕の稼ぎだけでは食べていけない。妻にも働いてもらっている。共稼ぎである。だから俺の稼ぎで食っているんだと威張れる立場にはまったくいない。そんな中で、自分のやりたいことをやるためには、一にも二にも普段の心がけなのだ。
 もちろん、相手を気づかうあまり、自分のやりたいことを犠牲にしたのでは何にもならない。うまく、バランスを取ることが大切である。
 それでその日、まだ陽は真上に来たばかりだというのに、僕がもう帰ることにしたのは、そのバランスのためだった。実際、釣りに出かける前から早上がりを決めていたのだ。
 今日は、六回目の僕たちの結婚記念日。今から帰れば、三時頃には家に着くだろう。そして、二人でゆっくり夕飯を食べ、ちょっと高めのワインでも飲んでお祝いをするのだ。
 釣りにも行き、家庭も大切にする。その秘訣は、つまりこういうバランスをうまく保つことなのだ。
 明るい河原を、辺りの景色を眺めながらのんびりと歩く。今朝、まだ暗いうちに歩いてきたのと同じ場所だとは思えないほど、伸びやかに広がっている。
 大岩の脇に溜まった流木の塊の上を歩いていて、ふと、視界の隅に意識が飛んだ。淵の対岸ぎりぎりでライズがあったのだ。
 あれ、今のは結構いい型だぞ。
 そう思った瞬間に、バランスを崩した。左足を踏み抜いてしまったのだ。
 おっと。
 もうちょっとで倒れるところをなんとか堪える。流木と流木の隙間に膝くらいまで落ち込んでしまった。
 体勢を立て直してから、足を抜こうとするがなぜか抜けない。細い枝が変に絡み合い、足首を押さえているらしい。
 足をこちらに回し、反対に捩じりしてなんとか抜こうとする。その度にウェーダーが枯れ木にバリバリと擂れる。最悪なことに、野ばらでもあるのか、小さなトゲがちくちくと刺さる。
 げっ。穴が開くんじゃんかよぉ。
 ようやくのことで足を抜き出す。ウェーダーは特にどこも破れているようには見えない。しかし、試しに流れに立ち込んでみると、脛の上からいきなりひんやりする。
 あちゃ、やっぱり駄目だ。
 眼には見えない小さな穴が無数に開いたに違いない。折角今シーズン買ったばかりだというのに、これじゃまた新しいのを買わなければ。
 しょうがねぇなぁ。そう舌打ちしながら、車へと戻る。
 釣り道具を全て片づけ、林道をゆっくりと走る。こんな人里離れた所で事故でも起したら、折角の記念日が台無しだ。
 時計を見ると、予定の時間からちょっと遅れている。
 まずい。すぐに町まで出て、ワインと花を買わないと。
 僕はアクセルを踏み、林道を急いだ。
 大丈夫だ。買い物をする時間はぎりぎりある。
 だいぶ走ったろうか。もう後少しで林道が終わり、舗装道路になるはずだった。
 と、突然、前方に灰色のものが横切っているではないか。慌てて、急ブレーキを踏む。
 な、なんだぁ?
 それは、林道の入り口のゲートだった。太い鎖のゲートが林道を閉ざしている。来る時には真っ暗で気づかなかったけれど、両脇にガッシリとした鉄柱が立っているではないか。鎖は鉄柱から鉄柱へと渡され、大きな南京錠で留められている。外すことも切ることもできない相談だ。僕が入っている間に閉められてしまったのだ。
 う、うわぁ、どうすんのよ、これ。
 ここから、一番近くの人家までは歩きでは三時間はかかるだろう。それから電話をして、人に来てもらって鎖を外してなどとやっていると、いったいいつになったら家に帰れるか。
 まいったなぁ。
 ふと、この林道を逆に走ってどこかに出られないものかと思った。車に積んであった五万分の一を見る。林道は小さな尾根を一つ越え、隣り町の近くで県道に出るようだ。もちろん遠回りになるが、距離的にはそれほどではない。多分、一時間程度だ。
 僕は一か八か賭けてみることにした。それに買い物は隣り町ですればいい。
 早速Uターンして、今来た道をごとごとと走り始めた。
 もう少しでさっき川から上がったところに指しかかるというところで、何か、黒く丸いものが道路に落ちているのに気づいた。
 あれ、なんだろう。
 近づいて、それがフライリールだと分かって、僕は真っ青になった。さっき、釣り道具を片づける時に、ぽいとリールを車の屋根の上に置いて、そのまま走り出したのだ。
 でも、よかった。不幸中の幸い。もしあのまま林道から出てしまっていたら、このリールをなくすところだった。
 けれどリールを拾いあげ、それほど幸いでもないことがわかった。リールのハンドルが折れ、しかも軸が狂ったらしくスプールを回そうとすると引っ掛かって廻らない。
 使えないじゃん。ひぇええ。
 せめて、ラインを回収できただけでもよしとしよう。
 僕は泣きたい気持ちになりながら、車を走らせた。林道はうねうねと右に左に折れ曲がりして、次第に高度を上げてゆく。狭い道を曲がり続けていると、自分で運転していながら、気持ちが悪くなりそうな位だ。
 ようやくのことで尾根を越え、下りになる。尾根の反対側の道は思ったより走りやすい。快調に距離を稼げる。二、三日前に降った雨のせいか、所々に水溜まりがあるが、気にもせず、派手な水しぶきをあげて下り続ける。
 それまで左右に迫っていた緑の山々が次第に遠ざかり始める。県道はもうすぐだろう。
 やれやれ、これでどうにかなる。
 そう安心した矢先だった。少し大きめの水溜まりが道路一杯に広がっていた。ひょっとしてという不安が胃の底からもたげる。それで用心してスピードを落として車を進める。
 水溜まりの中程まで来たろうか、ゴトゴトと足の下を擦り付ける嫌な音がした。
 やばい。
 慌ててアクセルを踏み込むが、そのまま車は止まってしまった。エンジンの音ばかりでちっとも進まない。タイヤが空回りをしているらしい。ギアをバックに入れてみるが、車はぐらりと揺れるだけで動かない。
 うわぁ、参ったなぁ。
 窓を開け、タイヤを見ながらアクセルを踏んでみる。全く廻っていない。となると反対側だろうか。
 ああ、こんな時に四駆だったらなぁ。
 普通の前輪駆動のステーションワゴンだから、片方のタイヤが空回りしただけで、もうお終いだ。せめてタイヤの空転を防ぐリミテッドスリップデフでも付いていれば、、、。
 しかし、そう思ったところでどうなるものでもない。
 車の中でウェーダーに履き替え、外に降りてみる。
 思った通り、左側の前輪が埋まっている。泥水を跳ねながら、ばちゃばちゃと水溜まりを歩いてみると、不幸なことにそこだけが深かったらしい。もう少し、あと三〇センチ右か左に寄っていれば、無事抜けられたのだ。
 ついてねぇ。なんとかここから出ないと。
 僕はジャッキを取り出し、スタックしたタイヤの後ろに入れ、ボディを持ち上げることにした。それで、タイヤの下に石でも入れればなんとかなるだろう。
 後ろのハッチを開け、ジャッキを取り出す。ドアを半分ほど閉めたところで、ロッドが転がったのが目に入った。竿先が車の端にかかっている。
 あ、まずい。
 が、一端動き出した腕を、動作の途中で咄嗟に止めることはできなかった。
 バタン。
 ああ、ああ。
 恐る恐るドアを上げてみる。ごく普通の見慣れたロッドティップがそこにあった。
 ラッキー。
 が、手に取ってみて、ラッキーでもなんでもないと思い知らされた。竿先は折れなかっただけの話で、ぐっしゃりと潰され縦に割れている。修理ができるような状態ではない。
 うわぁ、この間入った原稿料で買ったばかりなのに、、、。なんでだぁ。
 が、いつまでも嘆いていても仕方がない。今はとにかく、この大切な日、結婚記念日を祝うために家に帰らなければならないのだ。
 馬鹿やろ、糞、こん畜生と心の中で毒づきながら、車をジャッキアップする。
「大丈夫すかぁ」
 突然、後ろから声をかけられた。見ると、薄汚れた服に身を包み、破れかけたスーパーの袋を下げた男がいる。前歯が一本欠けた口元をだらしなく開き、髪は脂ぎっている。
「車、埋まっちゃったんだね。手伝うよぉ」
 浮浪者だろうか。それにしても、なんでこんなところにいるんだろう。
「ああ、ええ」
 そんな曖昧な返事を僕が口にする前に、男はもう既に水溜まりにジャブジャブと入って、ジャッキを回し始めていた。
「いやぁ、こういうのって、あれなんだよなぁ。うん、わかるよ、うん、ツライーってね」
 男は、なぜか嬉しそうに一人で喋りながらジャッキを回し続ける。そして、それが終わると、やはり意味不明のことを口にしながら辺りから適当な石を持って来るのを手伝ってくれるのだった。
「うん、うん、昔を思いだして楽しいよなぁ。泥んこ遊びをした子供の頃のことさぁ。この楽しさは、女優で言うと吉永小百合かなぁ。小百合ちゃぁん」
 何を言っているのかさっぱり分からず気味が悪かったが、とにかく男が手を貸してくれたお陰で、車がほどなく水溜まりを脱することができた。
「どうもありがとうございました」
「なぁに、いいってこと。で、町まで乗っけて乗っけて乗っけてサーフィン。ね。お、ね、が、い。はぁと」
「えぇ」
 はっきり言ってあまり乗せたくはなかった。しかし、助けてもらったこともあるので、仕方なく乗せることにした。
 ドアを閉めると、男の異臭が車の中に充満した。鼻の奥に匂いが突き刺さる。慌てて窓を開けた。走り出してほどなく林道は舗装に変わり、県道にも問題なく出ることができ、ほっとした。が、今度はこの男だ。
「お兄ちゃん、釣りかい?」
「ええ、そうなんです」
「ううん、僕も釣りは好きだな。うん。ツーツー、レロレロ、ツーレロだよね。あははぁ」
 とにかくどこでもいいから早く降りて欲しかった。
 男は、ダッシュボードの上に置いてあった僕の偏光グラスを手に取った。
「ああ、かっこいいサングラス、私、グラグラきちゃう」
 そう言いながら、サングラスをかけ、ルームミラーを勝手に動かして自分の顔を見ている。
「んんん、決まるね、千葉ちゃん」
 つい最近出たばかりの、フレームの細いかなり値の張るものだったので、壊されるのではないかと気が気じゃない。
 ちょうど信号にさしかかり、車が止まった。
 男がいきなり手を伸ばして、クラクションを鳴らす。
「走れぇ。行けぇ。止まるなぁ」
「やめてくださいよ」
「んん、そうか、よし、分かった。じゃ、そういうことで」
 男はドアを開け、車から降りてしまった。僕のサングラスをしたままだ。
「あ、僕のサングラス」
 男は、開いたドアから頭だけ再び車の中に付きだし、にっと笑った。
「なに言うてんねん記念物。ほな」
 それだけ言うと、男は全速力で駆け出した。
「え?」
 僕も慌てて外に出て、男の後を追おうとした。が、男はもうかなり遠くを走っている。車で追いかけようにも信号は赤のままで身動きがとれない。その間にも男は走り続け、そのうち角を曲がり見えなくなってしまった。
 な、なんだぁ?ええ?持ち逃げぇ?
 ちっくっしょー!
 いくら腹を立ててもどうにもならない。信号が変わったので、車に戻り、男の姿が消えた辺りをしばらく走り回ったけれど、影も形もない。
 だぁ、今日はいったいなんちゅう日じゃ。
 至れり尽くせりじゃねぇか。
 うわぁっと大声で叫びだしたくなる気持ちを無理やり押さえて、家路を急ぐことにした。もう日はすっかり傾き、夕暮れ時になっている。早く帰らねばならない。なんと言っても今日は記念日。花とワインを買って、家に帰るのだ。今なら、もう遅刻だとは言え、まだぎりぎり限界のセーフだ。
 そんな僕の気持ちを嘲笑うかのように、車の流れは次第に遅くなリ、ついに止まってしまった。渋滞である。苛々がつのる。遠くの山の端が赤く染まり、そして金色に縁取られたオレンジ色の夕焼けが空一面に広がる。その美しさが余計に虚しく感じられる。
 走っては止まり走っては止まりして、のろのろと進む。前方で、赤いトーチを振っている男が浮かび上がった。警官だ。事故でもあったのだろうか。
 近づいてみると、どうやら一斉検問をやっているらしかった。酔っ払い運転にしては、やる時間が早すぎる。なんだろう。とにかく、ここさえ過ぎればスムーズに車は走っているようだ。早く、やってくれよ。
 ようやく、僕の番になった。若い警官が僕の免許証と僕の顔を見比べる。ナンバーまで控えだした。前の車が簡単に通してもらったのに比べたら、なんだか念が入っている。そして、胸の無線に向かって何か口早に話し始めた。
「はい、はい。そうです、同じ型のやはり赤のステーションワゴンです。はい、手配中の車と同じものと思われます。はい、了解いたしました」
 警官は、硬い表情で道路脇に待機しているパトロールカーの方を指さした。そこにいた二人の警官が、トーチを縦に振って手招きしている。
 おいおい、なんだよ。僕が何をしたって言うの。
 しかし、逆らうわけにもいかず、車をパトカーの後ろに寄せた。
「は、お忙しいところ誠にすみません。捜査にご協力お願いいたします」
 少し年嵩の警官が僕に再び免許証の提示を求めた。
「誠にすみませんが、車の中を拝見させていただいてもよろしいですか」
「はぁ、それはいいですけれど、何があったんですか」
「は、近くで強盗殺人事件が発生し、その犯人が逃走中なんです。それで、市民の皆様にもご協力を願っているわけで」
 え?ひょっとして、僕がその犯人だって疑ってるわけ?勘弁してくれよ。
「一時間ほど前はどこにおられました?」
「釣りの帰りで、林道を走ってました」
「釣りですか、ほう」
 車の中をいろいろと漁っていたもう一人の若い警官が、話しかけてきた。
「フライフィッシングですね。僕も少しやるんですよ。あれ?このロッド、折れてますよ」
「ああ、それですか。ドアに挟んでしまって」
「やるんですよね、あれ。哀しいですよね、あの瞬間って。おや、このリール。ハンドルが取れてますが」
 折れたロッドに壊れたリールで、本当に釣りに行っていたのか。若い警官の顔には、はっきりと疑いの気持ちが現れている。慌てて事情を説明する。
「ほう、車の上に置き忘れたものを運良く見つけたと。ほう、ほう」
 なんだよぉ。信じろよぉ。本当に釣りに行っていたんだからさぁ。
「で、魚は釣れました?」
「ええ、お陰様で何尾か、まぁまぁの山女魚が」
「その魚はどこに」
「いや、あの、リリースしました」
「リリース?逃がしたということですか?」
「はい、そうです」
「なるほど、キャッチアンドリリースねぇ。ふーん」
 疑ってるよ、疑ってるよ。
 年嵩の警官がパトカーに戻り、無線でどこかと連絡を取っている。何か喋りながら、ちらちらとこちらを見ている。
 やめてくれよ、これで、署までお願いしますなんてことになったら、折角の二人の記念日が、、、。
 年嵩の警官がゆっくりと歩いてくる。
「ご協力ありがとうございました」
「え、じゃ、行っていいんですか」
「は、お陰様で犯人は無事逮捕された模様ですので」
 ああ、良かった。最悪の事態にはならなかったみたいだ。それにしたって、これはもう限界を越えた遅刻だぜ。
 時計を見て驚いた。
 げっ、もうこんな時間。これじゃ店も閉まってる。酒屋は家の近所の店が遅くまでやってるからいいとしても、花はどうする?
 そうだ。この街のショッピング・センターの中に一軒入っていたはず。
 僕は、焦る気を押さえて、ショッピング・センターに車を走らせた。ぎっしり詰まっている駐車場になんとかスペースを見つけて車を停める。
 薄っぺらい蛍光灯の光に照らされたショッピング・センターに駆け足で入る。花屋は、たしか一番奥だ。ぱらぱらと歩いている人をぬって、滑りやすいコンコースを走る。
 よし、まだ開いている。
 花屋に入ると、先客が一人いた。
「んん、どうしようかな。えーと、この花はなんて言うんですか。ふんふん。ああ、コスモス。花言葉なんか分かりますか。え、乙女の真心。なるほど。ううむ、なんだか、それはいまいち。じゃ、そっちの花は?」
 おい、こら、早く決めろ。そう怒鳴りたくなる位、うだうだとしてなかなか花を決めない。
 ようやく男が支払いを済ませるのももどかしく、僕は、店の者に欲しい花を次々と指さした。
「ありがとうございます。代金の七千二〇〇円に消費税がかかりまして、全部で七千五六〇円になります」
 思いのほか高く付いたが、仕方がない。これくらい奮発しないと、大遅刻は許して貰えそうにもない。
 が、財布を出そうとして、車の中に置き忘れてきたことに気づいた。
「あ、すみません。ちょっと取ってきますので、そのまま待っててください」
 フィッシングベストの中に入れっぱなしだ。滑りやすそうな床に気をつけながら、またコンコースを走り抜ける。
 車に戻ってみると、室内の電気が付いている。
 あれ、つけっぱなしだった?
 不思議に思いながら、キーをポケットから出して、ドアが半開きになっているのが目にとまった。
 え?
 ドアはロックされていなかった。
 しまった。さっき慌てていて、ロックし忘れたんだ。でも、半開き?
 中を見て愕然とした。確かに後部座席に置いたはずのベストがない。
 げぇ。
 後ろのドアを開け、もう一度よく見たけれど、どこにもない。
 よりによってこんな時に車上泥かよう。
 怒りと落胆が入り交じって、泣き喚きたかった。さっきの花屋に戻ったところでお金がないのではどうにもならない。
 花もワインも何もなしの手ぶらかよ。まずいよ。どうすんのよ。
 しかし、どうしようもない。家に帰るしかない。とりあえず、携帯で家に連絡をと思って、その携帯すらベストのポケットに入れておいたことを思いだした。
 それから家までの一時間あまり、ハンドルを握りながら、干潟に首まで埋まり、ゆっくりと満ちてくる潮を見ているような気分だった。できればこのままどこかに逃げ出したかった。あるいは、今日の朝から、もう一度全てをやり直したかった。
 アパートに帰り着く。釣り道具や荷物を出していて、助手席に、あの持ち逃げ男のビニール袋が残っているのを見つけた。
 ちぇ、ゴミだけ置いて行きやがった。でも、捨てるにしろ、とにかく部屋まで持っていかねば。
 部屋に戻ると、妻は本を読んでいた。かなり機嫌がよくないのが、ありありと分かる。
 道具を片づけながら、今日一日何があったのか、順を追って話して聞かせる。
「で、そこに持っているのが、その持ち逃げ男が残してったゴミ?」  
「うん、そうなんだ」
 そう言って、僕は中を覗いて驚いた。
「あっ」
 その声につられて妻も中を覗く。そこにあったのは、数尾の山女魚だった。
 妻の表情が見る見るうちに変わった。
「あんた、なによ。これ。今日がどういう日か知ってるんでしょ。それをこんな遅くまで帰ってこないで。夕マズメまで釣りをしていたならしていたとはっきり言えばいいじゃない。それをさっきから聞いていたら、ウェーダーを買わなきゃだの、ロッドを買わなきゃだの、車は四駆にしたいだの、おかしな言い訳ばかりしてぇ!」
「ち、違う。違うってば。本当に今日は」
 その言葉も終わらないうちに、妻はバシンと本を投げ出した。そして、これ以上できないというくらい物凄い勢いでドアを叩きつけ、外に出て行ってしまった。
 ああ、違うんだ。信じてくれ。僕は決して嘘なんかついたりしないんだよ、、、。

(初出 フライフィッシャー誌2000年8月号)

 

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