ヘッドライトに照らされた砂利道が、真っ暗な闇の中に浮かび上がる。うっすらと白み始めた空が、黒い木立の間に細く続く。 夜明けまで、あと三十分。 それまで助手席でぐっすり眠っていた筈の原沢が大きく欠伸をした。林道をかなりのスピードで飛ばしても、峠で右に左にきつく振られても決して目を覚まさないのに、釣り場が近くなると不思議と起きてくる。あまりに見事すぎて悔しさもない。 「ふあぁ、よく寝た。今日はライズ、欲しいよな」 煙草に火を付けながら、原沢が窓を開ける。轟という音と共に外の世界と冷気が流れ込む。 「そうだよなぁ。この間は全然駄目だったもんな」 一口だけ残っていたコーラを飲み干しながら答えた。俺達がこれから行こうとしている湖でライズがあるのは、朝マズメ、夕マズメのほんの一時でしかない。昼間はただの茫洋とした水が広がるばかり。釣りにも何もなりゃしない。そしてそのマズメ時すらも気まぐれなのだ。ライズがあるかどうかは、一か八かの博打だった。ただでさえ少ないチャンスを最大にするためには、なんとしても最良のポイントを選ばなければならない。けれど川の流れ込み、木の覆い被さった所といった誰にでも解る場所は、たくさんの釣り人で賑わう。釣りをする前に場所取りだのなんだので、疲れてしまうくらいだ。だから、ぱっと見た目には解らないポイントを探しだすことがこの湖で釣りを楽しむコツだ。 まず五万分の一の地図を用意する。それを見て、谷筋を全部書きだす。どんなに小さくてもいいから、水が流れ込むところを片端から潰していくのだ。小さな流れが、湖沿いの道路下を潜り、そのまま湖の中へ土管を通って流れ込んでいるようなところがあれば最高だ。車を走らせている限りでは、そんな所に流れ込みがあるとは思わない。いや、岸に立ってすら気づかないかも知れない。だから、他の釣り人はたまたまそこで釣りをすることがあっても、けっして粘ったりはしない。けれど、単に流れ込みが水中に隠れているだけで、上流からは水棲、陸生の昆虫が流れてくるのだ。餌が豊富な場所を魚達が嫌いな訳はない。 そんな美味しいポイントを探り当てたら、これはもう何があっても他の釣り人に知られないようにする。ポイント脇に車を停めるなんて自殺行為もいいところだ。少し離れた場所に停め、十分ほどわざわざ歩く。僅かな労を惜しんで、大きな楽しみを壊すのは愚かなことだ。 その朝も、いつものように大きな流れ込みの脇にある駐車場に車を入れた。もう既に一台停っている。軽のバンだ。 釣りだろうか。どうせ流れ込みに入っているんだろう。 が、よくみると車の窓ガラスがどれも内側から白く曇っている。中にまだ誰かいる気配すらある。 それに気づいた原沢が下品な笑いを漏らす。 「おいおい、見ろよ。お盛んなことですなぁ。こんな所じゃなくて、モーテルくらい行けばいいのにな」 「いいじゃないの。こう言うのが好きって人もいるんだからさ」 原沢が中にいるだろうとおぼしき人に聞こえるようにわざと声を上げる。 「好き、好き、好きよぉってか。あぁあ、風邪なんかひいたりしないように、気をつけてねぇ」 おまけに釣りの準備を終えると、車の脇を一際大きな足音を立てて湖に降りていく。やっかみ半分どころか丸出しだ。 「原ちゃん、最近、いい思いしてないんだろう」 「うるせぇっての」 ぐだぐだとくだらない話をしながら、薄暗い湖岸を歩く。駐車場から先に進むのではない。今車で来たばかりの道の下を、湖沿いに戻るのだ。ポイントのすぐ脇にも車を停められるけれど、わざわざ歩いて戻る。なにもかもとにかく美味しいポイントを人に知られたくない涙ぐましい努力だ。 しばらく歩いて岬を廻ったところで、突然森が明るく浮かび上がった。湖岸道路を一台の車が走ってきたのだ。 二人とも申し合わせたように懐中電灯を消す。僕たちが駐車場から戻って来ていることを知られたくなかったのだ。 が、なんとしたことか、ヘッドライトは急にスピードを落とし、停ってしまった。 嫌な予感がする。 「おいおい、やめてくれよ。どっかに行ってくれよ」 原沢が吐き捨てるように呟く。 「まさか、釣り人じゃねえよな」 俺がそういうのを否定するかのように、ヘッドライトが消えた。森が暗闇の中に沈む。 「ええ?嘘だろう」 懐中電灯を付けようともせず、二人とも次第に足早になりながら湖岸を急ぐ。 ようやくポイントが見えるところまで来て、心底がっかりした。最悪の事態だった。折角の苦労して見つけたポイントに、四人もの釣り人が入っていたのだ。暗い湖面に四つの小さな懐中電灯の明りが揺れ、人の話し声がここまでとぎれとぎれに流れてくる。 誰にも知られぬよう密かに温めていたポイントがばれた悔しさで、二人の口から次々悪態がついて出る。 「なんだよ、馬鹿やろ。どこのどいつだよ」 「あんなとこに車停めたらバレバレじゃんか。ここで魚が釣れますって大きな声で宣伝してるようなもんだろ。脳味噌ねぇのか、お前ら」 しかし、どうしようもない。小さなポイントだから、四人も先に入られていたら、俺達の入り込む余地はない。まさか力づくで追い出すわけにもいかない。 納まりきらない気持ちを抱えたまま道路に上がる。 「どうする、原ちゃん」 「どうもこうもねぇよ。ほかに行くしかねぇじゃん」 さっきの駐車場には車は一台しかなかった。しかもアベックだ。なら流れ込みがまだ空いているはず。 慌てて俺達は駐車場に戻った。が、ついていない時にはとことんついてないものらしい。さっき停っていたバンの廻りには三人の男がいて、ちょうど釣り支度を終えたところだった。アベックでもなんでもなかったのだ。釣り人が夜明けを待って中で仮眠していただけらしい。道路を歩いてくる俺達に気づくと、半分駆け足のようなスピードで流れ込みを目指して消えていってしまった。 「あああ、なんだって、また」 俺も原沢ももうやる気を削がれてどうでもよくなっていた。それでもとにかく竿を出そうと、あちこちポイントを廻ったけれど、ここと思しい所にはことごとく人が既に立っていた。人のいない所に立ち込んでしばらくフライを投げてはみるものの、やはりそんな場所では魚の気配すら感じられない。 「これってさぁ、北海道の山奥で女の子をナンパしようってのに似てる?」 原沢が自嘲気味に言う。 「っつうより、南極でラーメン屋探すようなもんじゃない?」 ぶうぶう言いながら一日釣り続けたというのに、結局その日は二人とも坊主のまま帰る羽目になった。 それから数日後のことだ。珍しく原沢から飲みに来ないかという誘いがあった。近所の居酒屋で飲んでいるらしい。これと言って用事もなかったので、のこのこと出かけてみると、原沢は一人ではなく、女の子と二人で飲んでいるのだった。 俺が始めて会うその女の子は、原沢の小学校の時の同級生で、もう十年以上会っていなかったということだ。名前を名乗って原沢の横に座ろうとすると、原沢は席をずらし、彼女と原沢の間に俺を座らせた。 「おいおい、いいのぉ。なんか、俺、邪魔しに来たみたいじゃん」 「いいんだってば」 「私もちっとも構いません。それよりこの方がいろいろとお話をしやすいと思うんです」 まだ、状況がよく掴めない。ブラインド・デートか。いや、原沢はそんな気の利いたことのできる奴ではない。 「えーと、今、原沢さんにもいろいろとお話してたんですけど、新しい、すっごくやりがいのある仕事をご紹介したくてそれで来ていただいたんです」 ん?なんか、変だぞ。 「普通のこれまでのお仕事って、なかなか難しいと思うんです。どれだけ一生懸命やってもそれに対する正しい評価ってなかなか貰えないじゃないですか。誰が感謝してくれる訳でもないし、それどころか大して何もしていない上司の方が遥かに良いお給料貰ったりして」 「はぁ」 「でも、それって絶対にやっぱり間違っていると思うんです。だったら自分たちで変えていくしかないと思うんですよね」 「まぁ、そうかも知れませんが、、、」 「人と人の繋がりを大切にして、仕事をした相手からありがとうって感謝されて、それでいてとってもいい収入につながる仕事。そういうやりがいのある仕事をしなきゃ駄目かなって」 どこかで聞いたようなセリフ。ちらと原沢の方を見ると、眼を合わせないようにツイと背けた。 「やっとそういう仕事に巡り合えたんです、私。それで、これは是非とも私だけじゃなくて皆にも広げていこう、そう思って原沢さんにも今日来ていただいたんです」 わかった。マルチだ。マルチだろう。ちくしょう。原沢はこういう手合がすごく苦手なのだ。しかも相手が女の子だから邪険に追い返すこともできない。それで俺を呼び出したのだ。 馬鹿やろうと舌打ちしながら原沢を睨みつけるが、そっぽを向いたままこちらを見ようともしない。 それから一時間、俺はその女の子を相手に四苦八苦することになった。一端この類いに染まりきってしまった人間を相手に話すのは、非常な忍耐と苦痛を伴う。いくら易しい算数と論理を使って分かりやすく説明してあげても、なぜネットワーク商売がそんなに簡単にうまくいくものでないのか、理解しない。いや理解しようとしないのだ。 俺が苦労しているのを尻目に、原沢は関係ないといった顔で酒を飲んでいる。ようやく女の子になんとかお引き取り願った時には、原沢を殴っていい理由を十個はすらすらと言えるような気がしていた。 「なんだよ、てめぇ」 「ごめん、許して」 「どうして俺をわざわざ呼び出すんだ!」 「いや、ほら、お前、議論するの好きじゃん。だからああいうのを相手にするのも楽しいのかなって」 「ばかやろ。今度やったら殴るぞ、ホント」 「ま、ま、ま、ま、社長、ここは一杯ぐっと飲んで、納めてくださいよ」 「ったくしょうがねぇな。大体あの輩ってさ、自分の欲望を満たすために、それをただ先送りしているだけだってのにどうして気づかないんだ」 俺は、テーブルに溢れた酒を箸で伸ばしながら、ピラミッド構造を書いた。 「ここの人間の仕事をこの下に回して、それをそのまた下に回してるだけじゃん。おいしい思いをするのは天辺にいる奴だけでさ。とにかく一番先に始めなきゃ駄目なんだ。誰かの尻馬に釣られて始めたんじゃ遅いんだ」 「じゃ、お前、やってみるかい」 「いいよ、馬鹿馬鹿しい」 けれど、そう言った途端、突然頭に閃くものがあった。 「いや、ちょっと待て、いいかもしんないぞ」 「よせやい、俺はやらないからな」 困惑した目を向けている原沢に俺はアイデアを話し始めた。 「いや、金儲けじゃないんだ」 マルチ釣り情報ネットワークシステム。釣り情報をこのピラミッド構造をそっくり使って集めるのだ。 まず俺が親になる。その下に子を二人勧誘する。子は親に入会金がわりに美味しい釣り場情報を二つ差し出す。親はその見返りに、子が差し出したのとは別の釣り場情報を一つ渡す。二人子がいるのだから、別の子から貰った情報の中でさほど美味しくないものをくれてしまえばいい。 この二人の子は、それぞれ二人ずつ孫を勧誘する。これで、俺の下には四人の釣り人が入ったことになる。孫は子にやはり入会金代わりに二つずつ情報を渡し、子はそれを親である俺にそのまま流す。そして孫も子も引き換えに新しい釣り場情報を一つずつ貰う。これでそれぞれの子は、二人の孫から二つずつ、親の俺から一つ、合計五つの釣り場情報が入ったことになる。最初に俺に二つ差し出し、そのかわりに一つ貰っているのと合わせて差し引きすれば、孫ができた時点でもう既に四つ得したことになるから、子も満足のはずだ。 もちろん、頂点にいる俺にはこの段階で十二もの釣り場情報が集まる。 そして、またそれぞれの孫がひ孫を二人ずつ誘い入れる。そうなると八人の釣り人からさらに十六もの釣り場情報が俺のところに流れ込む。 で、そのひ孫が、、、。 俺は考えるだけで嬉しくなった。 あたかも釣り場情報を交換しあう相互ネットワークのようなイメージを受けるが、なんのことはない、全て俺が一番上で美味しいところを吸い上げる仕組みだ。 お金では決して買うことのできない、釣りの穴場情報が次から次へと俺の元に集まる。しかも一端ピラミッド構造を立ち上げてしまえば、あとは自然にそれが動いてくれる。俺は頂点に座って情報が集まってくるのをニコニコと見ていればいいのだ。 これって、すっごいことじゃん。 俺は翌日から早速勧誘に走った。走ったと言っても沢山の人を入れる必要はない。たった二人で良いのだ。ただしある程度の釣り場情報を抱えていながら、それでもなおかつ貪欲に新しい穴場を探し求めているようなやつ。そんな奴が理想だった。 最初は原沢から始めようかと思ったけれど、あいつは駄目だった。新しい釣り場にそれほど飢えていないし、それに近頃は道具の方に走っている。 それで釣り場、釣り具屋に出かける度にそれとなく探りを入れて、適当な釣り人を探し続けた。ようやくこれはと思える人物に出会えたのは、ひと月あまりも経った後だった。 一度あたりをつけてしまえば彼らを誘い入れるのにはたいした苦労も要らなかった。彼らの深い欲望をくすぐる言葉をそっと囁くだけでいい。 「雑誌に紹介されていない秘密のポイントで釣りをしたくないですか」 「この間流れてきた情報は、もう取って置きのやつで、夢のような釣りを楽しんだんですよ」 「一度入会すればあとは寝ころんでいても、次から次へとそんな穴場情報が転がり込んで来るんです」 「勧誘するのは、たったの二人でいいんです。二人くらいならあなたのお友達で釣り情報を抱えている人なんて、簡単に見つかるでしょう」 それからの数カ月、俺は自分でも何が起こっているのか信じられなかった。これまで見たことも聞いたこともない川の名前、場所、細かい情報が次から次へと俺の元に舞い込み始めたのだ。 情報が入って来る度に、もちろん俺はほくほくと喜び勇んで釣りに出かけた。 いや、あるある。毎回こんな穴場がまだ残っていたのかと感心させられる様な美味しい釣り場ばかりだった。ある時など情報通りに行ってみると、住宅街のど真ん中、三面ともコンクリートで護岸され、立ち並んだ家しか見えない用水路のような川だった。なんだ、ガセを掴まされたかと思いつつ水面に眼を移して驚いた。尺あまりの山女魚がそこここに居り、明らかに五十を越すと思われるニジマスが数尾ゆらゆらと泳いでいたのだ。なんでも近くのトンネル工事で清水が湧き出し、それが流れ込んだために水温、水質ともに鱒達に最適になったらしい。突然町中に出現したオアシスである。 俺はもう釣り場には困らなかった。次から次へと入ってくるものの中から、適当な場所を選んで出かければよかった。どれも天国のようなポイントばかりなのだから。 ある川の名もない枝沢に行った時のことだ。本流との出会い付近では伏流となり、ほとんど水がない。しかもひどい薮が両側から覆いかぶさっているので、誰も釣り登ったりしないらしい。が、そこをどうにか抜けて三十分も詰めると、次第に水が戻り、まぁまぁの水量になる。そしてふと気づけば、型こそ小さいものの、岩魚がそれこそ雲霞のごとく群れているのだった。 フライなどなんでもよかった。多分、餌の量の割に、あまりにも多すぎる数の岩魚が棲息しているのだろう。水面にフライが落ちるのより早く、何尾もの魚が我先に飛び出してきた。 初めのうちは面白くて次から次へと釣っていたのだが、しばらくすると段々飽きてきた。簡単に釣れすぎるのだ。それで、少しでも大きなものを狙って釣ることにしたのだが、それも大して意味のないことだった。なぜなら、どの岩魚も似た様なサイズだったからだ。 もう帰ろうかどうしようか逡巡していると、下から人が上がってくるのが気づいた。 釣り人だ。 近づいてきたのは、初老の釣り人だった。挨拶をすると、にこやかに笑っているのだけれど、目の回りにどこか険しいものが漂っている。 きっと彼の取って置きの釣り場だったのに、俺が先行していたのが気に入らないのだろう。 けれど、こればかりは仕方がない。自分のプライベートな川でもないかぎり、見つけた者勝ち、早く入った者勝ちだ。 「こがぁな所で人に会うたぁ思いませんじゃった。あんたぁ、ここにゃぁよう来るんか。」 「いえ、初めてです」 「じゃぁ、どうしてから、ここのことを知ったんか。」 「いや、ちょっと知り合いから聞いて」 俺は初老の釣り人と話しをしながら、彼がこの辺りの人間ではないことに気づいた。訛りがぜんぜん違う。となると、こんな所に釣りに来るなんて余程の釣りキチか、事情通に違いない。 ふと、この男を俺のマルチ釣り情報ネットワークに誘い込んではどうかという考えが浮かんだ。かなりの遠方から、しかも普通の釣り人ならまず入らないポイントに釣りに来ているのだ。他にも美味しいところを知っているに違いない。それに彼を新しい子として組み込めば、彼の地元の穴場情報もごっそりと戴けるかもしれない。 俺は、男にそっと誘いの言葉を投げ掛けてみた。 「ほほう。そりゃ、面白そうじゃの。どがぁな仕組みになっとるんか」 俺は、砂地の上に図を書いて、釣り情報ネットワークの説明を始めた。男は身を乗りだして図に見入り、時折ふんふんと頷いている。 俺は、ピラミッドの頂点を指さし、ここにあなたが来るわけですと男の顔を見た。もちろん、その上に俺がいることは言わない。男は眼をぎらぎらと輝かせて 「どがぁにしても、参加させてつかぁさい。 よろしゅうお願いするんじゃけぇの」 と、俺の手を握った。 ふっふ。これでがっちり鉤にかかった。欲に駆られた釣り人を釣るなんざ、他愛もないもんだ。 俺は、電話番号、メールアドレスと言った連絡先を紙に書き、男に手渡した。男はそれを財布の中に仕舞うと、俺に挨拶をして川を降りていった。 その数日後、アパートのドアを力任せに叩く音で俺は目を覚ました。 宅急便だろうか。そう思ってドアを開けると、パンチパーマの若い男が立っていた。と思う間もなく、突き飛ばされていた。 「おい、われぇ、えらいことしてくれたのぅ」 パンチパーマが、床にひっくりかえった俺を見下ろして凄む。 な、な、なんだ。 「え、いや、あれ、なんのことか」 「かばちをたれなよ!」 ゲフッ。 いきなり腹に蹴りを入れられる。 「おやっさんが、大切にしとった場所をわやくそにしてくれたそうじゃないか、え?違うたぁゆわせんぞ」 ゴブッ。 また一つ蹴りが決まる。 「忘れたんなら、思い出させちゃろか。これの話で」 男は、土足のまま部屋にづかづかと上がると、片隅に立て掛けてあったフライロッドを数本纏めて鷲掴みにし、膝に当てた。 バキッ、ぺシッ、ビキビキと派手な音を立てて、ロッドが全てVの字型に折れ曲がった。 「おやっさん、ぶち腹立ってのぉ。あがに怒りはったんは、久しぶりじゃ」 鳩尾を蹴られた苦痛と恐怖でパニックになった頭の中に、いつか名もない枝沢で会った初老の釣り人の顔が浮かんだ。にこやかな笑いの向こうにあった険しさは、先行者に対する怒りばかりでなく、この世界を生き抜いてきた男のものだったのだ。 俺は、どうやら、とんでもないことに巻き込まれたらしい。 パンチパーマに頭をど突かれ、罵声を浴びせかけられながら、俺はどうすることもできなかった。 結局、俺は詫び状を書かされ、その上、俺がマルチ釣り情報ネットワークで吸い上げた情報を全て差し出すことになった。早い話が乗っ取りである。労せずして甘い汁が吸えるのだから、こんないい話を彼らが見逃す筈がなかった。 「たいがいなこと、すなよ。ほいじゃ、また寄せてもらうけぇ」 ドアも閉めずにパンチパーマが出ていく。 なんてこった。折角うまくいっていた釣り情報ネットワークなのに、こんなことになるとは。でも、穴場を全部彼に教えたからと言って、それで俺の取り分が減るわけでなし。まぁ、これで済んだだけいいとするか。 しかしそう安心していられたのも、短い間だった。 ネットワークシステムに新しい情報が流れ込むためには、常に会員が増え続けなければならない。なにせ入会金代わりに情報を持ってきてくれるのだから。けれど親から子、孫、ひ孫と代を重ねるに従って、必要となる新入会員の数は等比級数的に増えていく。親の俺から数えて十九人目がそれぞれ二人の子を作るためには、なんと一〇五万人もの釣り人が必要なのだ。その段階で既に一〇五万人の釣り人が会員になっているというのに。 さらにピラミッドの下に行けば行く程うま味はない。勢い勧誘も鈍りがちになる。その相乗効果で新入会員の数はほとんど増えなくなった。当然情報も入ってこない。 けれど「情報が入ってこないんです、ご免なさい」で済む相手ではなかった。 「嘘をつくんじゃなぁで。どうせ、隠しとるんじゃろう」 そう言われて蹴りを入れられるだけだった。 それで今では、仕事が終わると釣り具屋を廻り、釣り人から情報を集め、休みという休みはあちこちの釣り場へ出かけ、とにかくいいポイントを探している。 もうこれは遊びどころか、釣りですらない。 ひたすら川へ出かけ、穴場を探すだけ。 辛い。 誰か代わってはくれないか。
(初出 フライフィッシャー誌2000年7月号)
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