僕のことは諦めてください。
  いくら探しても無駄です。
  絶対に見つかりません。
  でも、これだけは分かってください。
  決して、家庭から離れたくて、仕事から  逃げたくて、失踪したのではないのだと。

 あれは、ちょうど一年前のことだった。しとしとと降り続いた雨がようやくあがり、随分と久しぶりに空の隅々まで晴れ渡った。
 このままどうにか梅雨が明けてくれないものだろうか。
 車から降りると、山の新緑が陽に輝いて踊っている。
 長い冬で押さえ付けられていた生命のバネが、思いっきり跳ね返った。そんな感じだった。これがもうしばらくすると、バネも伸び切り、だれてしまうのだが、今はそんな気配は微塵もない。
 よおし、釣ったるぞ。
 ロッドを継いで、ウェーダーを履く。
 魚はいるだろうか。水棲昆虫はハッチするだろうか。ライズはあるだろうか。
 農道をしばらく歩き、周りを見回して誰もいないのを確認してから、素早く薮の中に分け入る。緑の壁を通り抜けると、中は陽も当たらない、朽ち果てた落ち葉や枯れた小木ばかりの単色の世界が広がっている。じめじめとした中をそろそろ進んでいくと、うっすらと踏み跡が浮かび上がる。それがいつしかしっかりとした道になる。十分も歩かないうちに、木々の間から流れが垣間見えてきた。誰もいない。
 この区間は上の橋からも、下の橋からも遠く、しかも流れと農道の間には深く暗い薮がどこまでも横たわっている。よほどの健脚でないかぎり、下の橋から釣り上がって来る者はいない。
 しかし実は、人を拒んでいるかのように見える薮の中に、こうしてこっそりと踏み跡がつけられているのだ。誰が付けたのかは知らない。邪魔な枝は全て折られ、思いのほか歩きやすい。道は薮の中を縫うようにして川と農道を結んでいるが、ただ農道の近くまで来ると次第に踏み跡は薄くなり、終いにはかき消える。この踏み跡を利用している者は皆、毎回違う所から薮の壁を通り抜けるようにしているのだ。だから、農道に立って薮を見ると、壁のように葉が厚くどこまでも生い茂るばかりで、とてもその向こうに道があるとは思えない。
 僕がこの道を見つけたのは、偶然だった。
 ある時、上の橋から釣り上ろうと農道を車で走っていて、ここまで来てどうにも我慢ができなくなった。朝から怪しかった腹具合が限界に達したのだ。橋の袂には店があるからそこでトイレを借りようと我慢していたのだが、もう駄目だった。ぎこちない姿で車から降り、薮の中に転がるように隠れた。ベルトを外すのももどかしく大木の陰にしゃがみ込む。昨夜食べた物が余程いけなかったのか、なかなかすっきりしない。かなりの時間そこにいた様な気がする。
 ふと視界の隅を何かが動いた。
 え?人?
 こんな醜態を見られては恥さらしもいい所だ。見つからないよう身体を動かさずに、目だけで姿を追う。
 あれ、釣り竿を手にしてるぞ。なんでまた、こんな薮の中に?ひょっとして僕と同じ?
 そう訝しがっている僕の姿に釣り人は一向に気づく様子もなく、すたすた薮の中を進んでいく。そして、一頻りばさばさと枝を掻き分けていたかと思うと、農道へと出てしまった。
 用を済ませた僕は、釣り人の姿を見かけたあたりまで薮の中を歩いてみた。そして、この踏み跡に出くわしたという訳だ。
 踏み跡の川への出口は、深い笹で覆われ、やはりちょっと目には気づかない。これなら誰も知らないはずだ。
 笹を掻き分け、流れに出る。両岸から大きく枝が張りだし、トンネルのようになっている。おかげでフライは振り難い。短めの竿先から、ほんのちょっとだけラインを出して、小さなポイントを丁寧に拾いながら釣り上がる。
 仕事も、何もかも忘れられる、ほんの一時の楽園。
 流れの脇の石に、カゲロウの抜け殻がいくつも干からびたまましがみついている。結構な大きさだ。こんなのが流れてくれば、魚も嬉しいだろう。そして、そうなれば僕も嬉しい。
 が、今は残念ながら、どこにもカゲロウの姿は見られなかった。ごくたまに、ずっと小さなものが流れてくるだけだ。
 それで、魚も釣り人もこぢんまりとした愉しみを、ぽつぽつ追い求めるよりなかった。
 しばらく釣り登ったところで、ある石の後ろの縒れに、細目に巻いた小さなカゲロウのフライを浮かべた。もうちょっと長く留まっていて欲しいのに、速い流れに糸を引かれ、水面を横に走ってしまう。
 と、そのすぐ後を追うように、小さな小さな水しぶきが上がった。
 多分、山女魚の子供ががっついて食おうとしたのだろう。
 それなら今度はちゃんと食えるようにと、そのあたりを狙ってフライを流してやる。
 一発で出た。合わせるのと同時に水面から小さな魚が舞い上がり、足元まで飛んできた。あまりの小ささに、自分で釣っておきながら可哀想なことをしてしまったと後悔する。なんだか幼児虐待をしているみたいな気になる。
 ごめんな。
 流れに戻してやり、ふと、時計を見ると、いつの間にかもう帰る時間だった。もっともっと釣っていたいのだが、家族持ちともなるとそうも言っていられない。妻や子供の相手をしなければならないのだ。
 来た時と同じように、薮を通って農道に戻る。
 川と魚と僕だけの時間。束の間の幸せを反芻しながら、僕はハンドルを握った。
 それからしばらく経ったある週末、僕は妻の買い物に付きあって町に出かけた。月に一度、市営駐車場の一角を使ってフリーマーケット、ノミの市が開催されるのだ。妻は沢山のがらくたの中から、掘り出し物を探し当てるのが好きだった。
 黒山の人でごった返す中をぶらぶらと歩く。使い古したデイパックに馬鹿高い値段が付いているかと思えば、真新しいデジカメが格安で売られていたり、見ていて飽きなかった。
 その中の一軒になんとも奇妙な出店があった。所狭しといろいろな物が並べてあるのだが、どれ一つ何に使うのか見当が付かない物ばかりなのだ。ちゃんと一つ一つ説明書きが付けられているものの、それを読んでも一向に要領を得ない。
「心眼洗面器 チャクラを通じ、汚れを洗い清めるべし 五万円」
「ソクラテスの壺 悪法も法なれば、毒薬もまた薬なり 五万円」
「混合フッサール液 100CC カクテルについて語れ、それは哲学だ 五万円」
 とにかくなんでも五万円らしい。売られている物が奇妙なら、それを売っている老人も負けず劣らず奇妙だった。裾を端折ったつんつるてんの着流しの上から、てかてかに光る坊主頭が突き出ている。薄黒く陽に灼けた顔を左右に振り、時折ぎろりと目をむいては、にやりと笑う。もう六十に手が届こうというところだろうか。皮膚の疲れ具合や皺には明らかに年齢が感じられるのだが、顔の表情を見ていると、まるで悪戯盛りの悪ガキのようだった。そのアンバランスが、ますます彼の特異さを際立てている。
 老人が突然僕の方を振り向くと、これまでにないくらいの満面の笑みを浮かべた。
「ははぁ。あんただ。あんただよ」
 そして足元にあった何かを手に取り、こちらに突き出した。
 妻は気味悪がって、僕の腕にしがみつく。僕も立ち去ろうとして、ふと足が止まった。老人の手にした物の説明書きが目に入ったのだ。
「魚視鏡 私は魚、来たれ、水中王国 五万円」
 水中眼鏡のようだが、よく映画やテレビの特殊部隊モノで出てくる、暗闇でもあたりが見えるナイトスコープのような物がガラスから突き出ていた。
 老人は、おっとそうそうと呟いて足元を探っていたかと思うと、薄汚れた小冊子を拾い上げぱんぱんと叩いた。
 見ると茶色く染みだらけの表紙に、「硬骨魚類の視覺 醫學博士 理學博士 久保寺正衛門」と記されてあった。老人から受け取ってぱらぱらと捲ってみる。中はあちこちに線が引かれ、前の持ち主が真剣に読んだことが一目で分かる。
「純水においては、460nm付近において、最大伝達(すなわち、最小減衰共関数)をもち、それより長い周波数でも短い周波数でも、伝達は減少する」とか「紫外線に感応する周辺単体錐体細胞は、一年魚では見受けられるものの、二年魚の殆どの網膜からは消滅している」など、何やら難しいことがずらずらと書かれている。どうやら、魚の視覚について述べた論文らしい。目次を見ると最後の方に、「魚類視覚の実際」と題されて一文があった。
「以上に述べてきた事柄をまとめ考察するに、硬骨魚類が感受している視覚世界は、、、」
 そこまで読んで、突然本を取り上げられた。
「そこから先はただというわけにはいかないわな。これで、お前さんもこの魚視鏡の意味が分かったろうが」
 老人が小冊子と水中眼鏡を持ってにやにやしている。
 え?じゃ、この魚視鏡は、魚の視覚を再現するものなのだろうか。これを付けて水に潜れば、魚が見るように外界を見ることができるというのだろうか。
 欲しい。
 たまらなく欲しいと思った。これまでいろいろとフライを巻きながら、魚の目にはそれがどのように映るのか、かねがね気になっていたのだ。確かにコップや水槽に張った水に浮かべて、それを下から見ることはできる。けれど、魚と人間では眼球の位置からして違うのだ。
 しかし。五万円かぁ。しかも売っている男もなんだかやたら怪しい。
 ちらと、妻の顔を覗き見る。
 妻は顔を背け、向かいの店の品を見ている。いや、見ている振りをしているだけだ。はっきりと不機嫌なのが伝わってくる。
 うーん、どうしようか。買ってしまおうか、それとも諦めるか。
「おじさん、いつもここで店、出すの?」
 それとなく探りを入れる。もし例えば、老人の連絡先が分かれば、後でこっそりそこに行くという手もある。
「いや、旅から旅の根無し暮らしでな。ここも今日限りだわな」
 万事休す。
「買えばいいんじゃない」
 妻がそう言い残すと、すたすたと向かいの店に歩いて行ってしまった。
 これをどう解釈するか。しぶしぶ承認と読むか、それとも拒否と見るか。散々迷った揚げ句、買ってしまうことにした。
「お前さんなら、きっと買ってくれるだろうと思っていたわさ。でも、決して損な買い物じゃないぜ。そりゃ約束する。お前さんもこれを使ったら、それこそ目から鱗が落ちるって奴だ。とにかくこの本をまず読むことだ。そうすれば、こいつの真価がはっきりと分かる」
 老人は、そう言いながら使い古しのスーパーの袋に魚視鏡と本を入れてくれた。そして僕から受け取った五万円を、数えもせずに無造作に袂に突っ込んだ。
 恐る恐る妻の所に行くと、妻は僕の買い物袋を見て溜め息を漏らした。
「やっぱりね。買うだろうとは思っていたの。でも、これで私も心置きなく欲しい物が買えるって訳ね」
 結局、僕は新しい玩具を手に入れた代償に、随分と高いお金を払う羽目となってしまった。
 家に帰ると、早速本をぱらぱらと斜め読みしてみる。
 序文によれば、この本を書いた久保寺博士はかなりの釣りキチだったらしい。それもただ魚が釣れればいいというのではなく、釣りという行為を包括的に分析して、一大論文集を書く大志を抱いていたようだ。曰く「釣魚行為に至る人間の深層心理」「釣り竿の力学的解析」「釣りの社会的位置の歴史的遷移」「各地で特殊分化した釣りの文化人類学的考察」などを引き続き執筆するつもりだとある。僕が手に入れた「硬骨魚類の視覺」は大論文集の取っ掛かりであったらしい。もっとも、これまで久保寺正衛門という名は聞いたこともないから、多分その大計画は途中で消えてしまったに違いない。
 いずれにせよ博士は古今東西の文献を漁るばかりか、かつ自分でも様々な実験をして、魚が物をどのように見ているのか解き明かそうとしたようだ。たとえば網膜細胞の密度分布から、魚の画像解析性能を割り出し、それが人間の約十四分の一の精度でしかないことを確認したといった具合だ。その他、魚の視野がどれくらい広いのか、色覚はあるのか、なぜ夕暮れ時の暗くなってしばらくは餌を取るのを止めるのかなどが、全て魚の目の構造と実験結果から説明されていた。
 最後の章では、これまでの全てを纏め、さらにそれをできるだけ忠実に再現するために、魚視鏡を作ったこと、そしてその正しい使い方が細かく述べられていた。
 その魚視鏡が今、僕の目の前に転がっている物というわけだ。
 早速説明書きを読みながら、水中眼鏡の要領で頭に着けてみることにした。双眼鏡のようなアイピースが中に突き出ている。まず、その根元を調節し、自分の目にぴたりと密着するようにする。双眼鏡と違うのは、外側のレンズが、右と左、それぞれ横向きに付いていることだ。完全に真横というより、少し角度が付けられている。魚の視野に合わせてあるようだ。
 恐る恐る魚視鏡を付ける。
 あはは、なんだ、こりゃ。
 そこには、全く違う世界が広がっていた。
 自分の真正面から真上にかけてがぼんやりと見える。横はかなりぼやけ何がなんだか判然とせず、足元ともなると何も見えない。
 もちろん、魚の視野を人間の視野に無理やり押し込んでいるので、あの本をちゃんと読んでからでないと、この世界が意味するものを理解するのは無理だろう。しかし、大まかなところは実感できる。
 説明に、水の中で使ってこそ本当の価値が分かるとあったので、魚視鏡を手に風呂に入ることにした。ちょっと大きめのドライフライ、ニンフも持ち込む。
 魚視鏡を付け、ぶくぶくと湯船に沈む。ちゃんとシュノーケルも付いているから、息継ぎをする必要がない。
 水面に浮かんだドライフライが、ピントのあっていないビデオのように、斜め上でボワボワと揺れている。視界の上の方では、僕の背面にある風呂場のドアが逆さまになっている。
 そうか、魚は、後ろまで見えるのだ。
 深く潜ったり、近づいたり、頭を回したり、横に振ったりする度に新しい発見があった。
 銀色に波打つ水面に、黒くぽこりと突き出たフライと鉤。
 かなり目立つもんだな。
 風呂から上がって、もう一度本をじっくりと読み直すことにした。読めば読むほど、興味深い内容だった。
 その日以来僕の生活は風呂場で過ごす時間が長くなった。仕事から帰り、夕飯を済ませると、まず数ページ例の本を読み、書かれていることの一つ一つを風呂場に行っては自分の目で確認するのだ。しかし毎日毎晩風呂場との往復を続けているうちに、是非とも実際の川で使ってみたくなった。夜の風呂場と昼のしかも屋外の川では光の入り具合だって違うはずだし、それになにより湯船の水は流れていない。
 一端やろうと決めると週末になるのが待ち遠しかった。人に見られるのはさすがに恥ずかしかったので、滅多に釣り人が来ない例の薮のポイントで試すことにした。
 ダイビングをする知り合いから借りたドライスーツを着て、流れの中に身体を横たえる。露出している顔が意外なほど冷たい水に縮み上がる。ゆっくり沈みながら、流されてしまわないように岩に掴まった。最初はぶら下がるようにしていたのだけれど、それでは自分の手が視野に入ってしまうので、腰の横で突っ張るように身体を支えることにした。
 美しかった。
 光が揺れ、流れ、泡が銀色の球となって走る。聞こえてくるのは水音ばかり。
 絶え間なく動く銀と黒の皺が、視界の上半分を占めている。水面を下から見ているのだ。
 時折銀面を破って何か上流から流れてくる。初めのうちは、何が流れてくるのか見分けることもできなかったが、慣れるに従って、ゴミか虫かくらいの判別はできるようになった。
 僕はすっかり魚視鏡が見せてくれる世界の虜になってしまった。
 それからは川に出かける時はロッドだけでなく、魚視鏡も必ず持っていくようになった。魚の出が悪い真っ昼間など、ウェーダーを脱いで魚視鏡を付け、流れに潜るのだ。息を潜めじっとしていると自分が本当に魚になった様な気がしてくる。それを察するのか、山女魚や岩魚も僕の姿に恐れることなく、目の前でライズしたりした。
 ある時、そうやって川の世界に浸りきっていると、視界の隅がぼんやりと赤くなっているのに気づいた。なんだろうと頭をそちらに振ると、赤い点がひょこひょこ動いている。釣り人の帽子だった。僕は慌てて立ち上がった。
 よもやそんな所に人がいるとは思いもしなかったのだろう。突然川の中から現れた僕の姿に、釣り人は、うわっと叫んで後ずさりしている。僕は急いで魚視鏡を外した。
「あ、脅かしちゃって済みません。そんなつもりじゃなかったんですけど」
「あああ、びっくりした。あああ、びっくりした。なに、やってんすか、そんなとこで?」
 赤帽子の釣り人が怪訝そうな顔で訊ねる。僕が密漁でもやっていると疑っているのかも知れない。僕は魚視鏡のことを説明した。その説明を釣り人は気のない風で聞いている。
「で、その変な水中眼鏡を使うと魚が簡単に釣れんの?」
「いや、別にそういう訳じゃ、、、」
 確かに魚視鏡を使ったからといって、そのお陰で魚がたくさん釣れる様になった訳ではない。それどころか、釣りをしている時間が減っている分、釣れた魚の数は少なくなっているかも知れない。
「ふーん」
 釣り人は半分呆れたような、半分馬鹿にしたような顔で僕を見ると、じゃぁと軽く手を上げ、そのまま上流に去っていった。
 確かに、初めはこの魚視鏡を使って、魚がフライをどう見ているのか知ろうと思っていた。例えば、普通のパラシュートフライ、フックが水面に刺さらず上向きに浮くようにしたキールフライ、同じキールでも鉤先の方にハックルを巻いたフライ、そしてフックが横倒しに水面に浮くように巻いたフライ。それぞれを水に浮かべては下から覗き、そのシルエットを比べたりもした。
 けれど、最近ではそれもあまりやらなくなった。今だって、釣り道具は河原に置きっぱなしで、ほとんど振っていない。
 そのかわり、ただただ流れの中に沈んで、光と水の中に横たわり、川と魚と僕だけの世界に浸りきる。逃げたくなるような仕事のいざこざも、重苦しい家族の責任も、何もかもは陸の上の出来事だ。僕が陸に立っている限り逃れられない諸々のものは、水に入った途端、綺麗に流れて去ってしまう。
 もっと魚が釣りたくて、そのための魚視鏡だったはずなのに、いつの間にか本末転倒している。けれど、だからといって、僕はそれを無理に元に戻そうという気はなかった。また釣りがしたくなったらするだろうし、取りあえずそれまではこうして水の中で流れに身を委ねていればいいさ。
 僕はまた静々と流れの中に入っていった。
 今年産まれたばかりの山女魚だろうか、指先ほどしかない可愛いやつが一生懸命泳いでいる。時折、勢いよく水面に駆けつけては、何かを食べる。
 それを追い立てるかのように、一回り大きな山女魚が石の陰から飛び出す。泡に混ざって流れてくる昆虫を目ざとく見つけ、横走りにくわえ込んだ。
 どれだけ流れの中に居たろう。陽が傾いたのか、身体がすっかり冷えてしまった。けれど、もうそろそろ上がろうという時になって、突然水棲昆虫の羽化が始まった。沢山の幼虫が水面に泳ぎ上がっては、そこで殻を脱ぎ捨て、空へと舞い上がる。それまで、中層で餌を食べていた魚達も、それにつられて段々水面近くに定位するようになった。水面からぶら下がるようにして流れてくる水棲昆虫を、右に左に泳ぎながら、しきりに食べ続ける。
 ライズだ。沢山のライズだ。
 それを見ても、陸に上がって、釣ろうという気にはならなかった。それよりも、今自分の目の前で繰り広げられているドラマを水面下から見ている方が面白かった。
 しばらく見とれているうちに、異様に大きなカゲロウが流れてくるのに気づいた。よく見れば糸が付いている。フライだ。頭を巡らすと、いつの間にか岸に釣り人がいる。先ほどの赤帽子ではない。見慣れた釣り人の格好ではなく、なんとも異様なシルエットが朧げながら判別できる。頭を傾け、一番よく見える角度にして、驚いた。
 坊主頭に着流し。あの老人じゃないか。
 なんでまた、こんな所でそんな格好で釣りなんぞしているのだろう。水から上がって挨拶でもするか。
 そう思って、ふと、悪戯心が芽生えた。
 あのフライにライズしてやれ。きっとびっくりするぞ。
 僕は、流れてくる不格好なフライに向けてゆっくりと頭を伸ばした。

 ぐんと釣り人のロッドが撓った。勢いよくラインがリールから出てゆく。
 ほほうと驚きと歓びの混ざった声が釣り人から漏れる。ロッドを右にいなし、左に倒しして、魚の疾走を巧みにかわし続ける。魚が怯めば、すかさず素早くラインを手繰って、距離を詰める。随分と手慣れているふうだった。
 そんなやり取りの末、とうとう魚は岸に横たわった。でっぷりと太ったいい型の山女魚だ。尺は軽く越えている。
「うわぁ、いい魚っすねぇ」
 いつの間にか赤帽子の釣り人が傍らに立ち覗き込んでいる。
「ははは、ええじゃろう。わしの見立てに狂いはなかったわ」
 老人はそう言うと、ジャバジャバと流れに踏み込み、腕を肩まで水に入れて何かを探っている。
「お、あった、あった」
 老人が掴み上げた物は、魚視鏡だった。
「あれ?俺、それ、見たことあるっすよ」
「ほほう、そうかね。なら、どうだ。これを買わんか」
 値段を聞いて、赤帽子はかぶりを振った。
「ははは、そうじゃろう、そうじゃろう。お前様にはまだ早いわ」
 老人はそう言うと魚視鏡を懐に仕舞った。そして、まだフライを口にくわえたまま浅瀬で横になっている山女魚を手に取り、とっくりと眺めた。
「いい魚になったのう。ふっふっふ。これでこの川に来る楽しみがまた一つ増えたわ」
 老人は、山女魚の口から鉤を外すと、流れの中にそっと戻した。

(初出 フライフィッシャー誌2000年6月号)

 

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