釣りに出かける夜の食事は、決まって豚カツだ。何も縁起を担いでのことではない。いつも一緒に行く飯塚が、豚カツ屋をやっているからだ。
閉店三十分前に店に顔を出し、豚カツを頼む。普段なら、ビールも飲むところだが、さすがに深夜の運転が控えているから、濃いお茶にする。たいてい僕が最後の客なので、食べ終わると、後片付けも簡単にさっさと店を閉めてしまう。
飯塚は竿もウェーダーも店に置きっぱなしだ。一人で切り盛りしている小さな店だから、置き場に困るのか、ロッドケースは傘立てに、ウェーダーは壁のコート掛けに掛かっている。それを車に積み込めば、すぐ出発だ。
僕たちが釣りに行くのは、いつも水曜の夜中だ。飯塚の店は木曜日を定休日にしている。僕も、また平日に休みが取れる。僕は、設計事務所の契約社員で、担当は一般家庭のインテリアだ。そのためお客さんとの打ち合わせは週末が多いから、平日に休みを貰っているのだ。おかげで、沢山の釣り人が出かける週末を外して行くことができる訳だ。なぜ、水曜の夜か。それにはちゃんと根拠がある。木曜日なら、週末にいじめられた魚も、月、火、水の三日間休んで、少しは釣れやすくなるはず。そう考えたのだ。それならいっそのこと、金曜日に行けばもう一日魚が休めるからもっと良いのではないか、と思うかも知れない。けれどそれでは、まだ読みが浅い。金曜に休みをとって、三連休にして釣りに行く輩が結構多いのだ。僕たちの住んでいる街から一時間も走れば沢山の釣り場がある。それで、随分と遠くからこの街に来る釣り人も多い。だから、木曜日が一番いいのだ。それに、「ばかやろ。飲食業が金曜定休にしてどうすんだよ」という、飯塚の事情もある。
週末と違って、ただでさえ人通りの多くない街は、繁華街を出ると、急に暗く寂しくなる。国道を一時間も走ったところで、裏道に入る。もう、すれちがう車すら全くない。
「あそこの角の天ぷら屋、つぶれちゃったみたいよ」
二人でたまに飲みに行っていた店だ。
「ええ?あれだけ美味しくて、結構客も入ってたのに?」
「それがひどいんだけどさ、あの雑居ビル、色々飲み屋があったじゃない。あいつら、あの親父の店から、ツケでどんどん頼んどいて、全然払ってくんなかったんだってよ」
やはり同じ業界にいるので、こういう情報がすぐ入るらしい。
「ま、俺ん所は平気だけどな」
「ツケ、やってないのかい」
「いや、まずいから、いちげんの客ばかりだ」
「しょうがねぇなぁ」
暗闇の中で、他愛もない話が続く。
小さな集落を抜け、いよいよ山道に入る。
テールを少しスライドさせながら、ひたすら続くカーブを縫ってゆく。
左側から、沢が流れ込んでいるところで車を停める。ようやく夜が明け始め、ライトを消すと、山並みがうっすらと灰色に浮かび上がった。
沢沿いに百メートルも下りると、もう本流だ。開けた谷の中を、澄んだ流れが右に左に折れ曲がっている。河原に下りて、釣りの準備を始める。
「フライ、何がいいかなぁ」
「僕は黒びょうたんかな、やっぱり」
黒びょうたんと言うのは、僕が勝手に作り上げたフライだ。自分でフライを巻いているが、まだうまく巻けない。甲虫に似せたつもりが、まるで瓢箪のようになってしまった。それで、黒びょうたんと、自嘲的に呼んでいるのだ。
釣り始めてすぐに、まず飯塚がかけた。竿を上げるのと同時に、銀色の魚が宙高く跳んだ。三十センチくらいの虹鱒だ。それを横目で見ながら、ひとつ上の瀬に入る。
真っ直ぐな流れが、緩やかな波を作っている。その中ほどで、波とは違う、小さなしぶきが上がったような気がした。しばらく様子を見るが、なにも起こらない。気のせいだったのかも知れない。けれど、ひょっとして、とフライを投げる。波の一番底にフライが来た時だった。ぴしゃりと音を立てて、黒びょうたんが消えた。
「よほほーい、やっぱり居たぁ」
飯塚に聞こえるように、声を上げる。
魚は、リールから糸を引きずりだして走ったと思うと、水面を割って飛び出した。飯塚が釣り上げたのとほぼ同じ大きさの虹鱒だった。ちらと横目で飯塚の方を見ると、にこにこ笑っていた。
交代で竿を出しながら、釣っては放しして、川を遡った。これと言って大きな魚は出てこないが、飽きない程度に30センチあまりの虹鱒がフライをくわえてくれた。
ひとしきり釣り続けたあとで、ふと時計と見ると、もう五時間も経っていた。薄暗かった谷の中にも陽がさし、夏の暑い一日が既に始まっていた。
あと二曲がりほど釣り登ると上流の橋に出る。そこで林道に上がって、一旦車まで歩いて帰る。車で林道をさらに奥に走ってダム湖に行き、昼近くまでそこの流れ込みで粘る。そして、昼寝のあと、帰り道のどこか適当な所で夕方の一時、もう一勝負する。それが、この川での僕と飯塚の定食コースだ。
流れが岩盤に当り、直角に折れた淵に来た。ここは、先月でかい岩魚を掛け損なったところだ。あまりの大きさにびっくりして、せっかくフライに出てくれたのに、早く合わせ過ぎて、飲み込む前に口からフライを引き抜いてしまったのだ。
淵の尻を腰まで水に浸かって対岸に渡り、魚に気づかれないよう、流れからなるべく距離を置いて歩く。斜面から、ブナの梢が大きく張り出し、木陰を作っている。下に入るとひんやりとした空気に変わり、汗が、さっと引く。
淵の中ほどまで来た時だ。河原のテーブルほどの大石の脇に、なにか奇妙な物がある。黒いぐにゃぐにゃの塊が、バスケットボール大の石に乗っている。その石だけ、赤錆色に染まり、他の石から際だっていた。そろそろと歩いて、塊まで10メートルまで近づく。そこまで来て、初めてそれが人間であることに気づいた。
「おい、飯塚。あれ」
「ああ」
「生きてるかな」
「死んでるみたいだぜ。だって、息してねぇもん」
黒い塊だと思っていたのは、長い髪に覆われた頭で、体は大石の蔭に隠れていたのだ。うつ伏せに倒れている。微動だにしない。
これまでも、釣りに出かける途中で車に排気ガスを引き込んだ自殺の第一発見者になったり、交通事故の目撃者になったりしたことはある。けれど、河原で死体を見つけたのは初めてだ。石が赤錆色になっていたのは、血が凝まったものらしい。
「どうしたんだろうなぁ。転んで、打ち所が悪かったのかな」
「そうかもな。ひょっとしたら、この間の週末かもね」
「あれっ?おいっ!飯塚。今、動かなかったか」
確かに、頭がぐらりと揺れたような気がしたのだ。ひょっとして、まだ生きているのだろうか。
確かめようと歩きだしたら、飯塚がきつい口調で叫んだ。
「やめろ!」
「なんだよ、びびってんのかよ」
かまわずさらに近づくと、飯塚が僕の腕を掴んだ。
「おい、なにすんだよ」
手を振りほどこうとするが、飯塚は僕の腕をきつく握り締めたまま放そうとしない。
「なんだよ、痛てぇよ」
ようやくのことで飯塚から離れ、竿先で届く距離まで近づいたら、また頭がぐらりと揺れた。と、顔を覆っている長い髪の間で、淡い桃色ものが蠢いているのが見えた。ぐにゃぐにゃと形を変え、伸びたり縮んだりしている。なんだ、こりゃ、と一歩足を出した途端、それが僕の顔をめがけてすごい勢いで伸びてきた。
「うわぁっ」
顔を背け、慌てて手で払いのける。同時に、ぴしりと鋭い音が響く。が、手にはなんの感触もなかった。
「逃げろっ!」
背けた顔のすぐ先に飯塚がいた。
「早く、逃げろっ!」
もう一度飯塚が叫んだ。声の勢いに押されて、数歩後ずさりする。
飯塚は、竿を地面に突き差していた。よく見ると、竿先で、死体の頭から伸びたあの薄桃色のヒモが蛇のようにのたくり回っている。僕にぶつかる直前で、飯塚が竿で叩き落としたらしい。
「おい、なんだ、そりゃ」
「いいから、逃げろって言ってるだろ!」
ヒモはまだ僕の方に伸びようとしている。飯塚が、ヒモから目を離さずにもう一度叫んだ。それで、僕は数歩またさがった。ヒモは今度は竿にまとわりつきだした。飴色の竹の竿の上を、淡い肉色の細長いものが、うねりながら登ってゆく。飯塚を狙っているみたいだ。
竿の半分くらいまで伸びた時に、飯塚が竿をこねくるように回し始めた。その度に、ヒモが跳ね上がり、死体の頭が揺れ動く。何度か竿を回したあとで、いきなり水平に大きく振った。ヒモは、細くなりながら竿の動きに合わせて伸びていく。竿が振り切られようとするまさにその時、ズポリと言う音と共に、ヒモは完全に死体の頭から抜け出た。そして、そのまま勢い余って、竿からも離れ、明るい河原を飛んでいく。死体の頭が、石から転げ落ち、鈍い音を立てた。
夏の日差しに焼かれた広い河原で、薄桃色のヒモがのたくっている。
僕は、声もなく、ただ茫然とそれを見ていた。
「ありがとうございました」
最後の客を見送って、飯塚が声を掛ける。僕は、その後ろ姿を見ながら、まんじりともせずに、カウンターに腰を下ろしている。もう三十分近くそうしているだろうか。
「今、店、閉めっから。そしたら」
そう言って飯塚が手際よく、看板やら暖簾やらを片付けだした。
あの日の帰り道、車の中で、飯塚に、今日のことは絶対に誰にもしゃべるなと口止めされた。なぜと食い下がる僕に、来週店に来い、そうしたら話してやるからと飯塚は繰り返すだけだった。
ビールとグラスを二つ持って、飯塚が僕の隣に座った。
「ま、一杯飲めや。話は長くなるから」
つまみに、豆腐とおしんこを出されたが、食べる気になれない。
飯塚が一息にグラスのビールを飲み干し、また注ぎながら話し始めた。
「びっくりしたろう。俺も初めて見たときはそうだったよ」
俺が初めてあれを見たのは、もう五年ほど前だ。実物じゃない。ビデオだ。なんでそんなビデオが俺の手元にあったかは、ちょっと教えられない。おまえを信用していないわけじゃない。ただ、もし万が一おまえが捕まったとしても、知らなかったらしゃべりようがないからな。
ビデオは、何回くらいコピーされたのか、画像はあんまり鮮明じゃなかった。それでもよく見れば、何が写っているか分かった。
妙に白い部屋だった。中央の銀色に光る台の上に、若い女が素っ裸で仰向けに寝かされていた。最初あまりにも色が白いから死体かと思ったんだが、腕に点滴をまだ付けていたから、どうやら生きているらしかった。部屋の様子は、どこかの病院か、研究室のようで、沢山の機械が並んでいたよ。心電図を図る機械もあって、規則正しい信号音が聞こえていた。
画面の下の方から、クリーム色の、ほら、歯医者で使うドリルが付いているやつがあるだろ、あんなロボットみたいな手が伸びてきて、女の上で止ったんだ。それから首の所に移動すると、細長い白い、注射器みたいなものを突き刺した。
ものの一分もしないうちに、心電図が、これまでの定期的なものから、急に乱れて、そのうち遂に笛のように長く鳴りだした。
それが5分も続いたかなぁ。誰かがスイッチを切ったのか、細く高い信号音は消えてしまった。
しばらくするとまたさっきの手が出てきてさ、何か茶色に動き回るものを掴んでるんだ。よく見ると、小さな猿さ。ハーネスを付けられて、それからぶら下げられているんだ。
その猿が近づいてくると、女の顔が少し動いた。あれっ、死んだのかと思ってたのに、とよく見ると、女の鼻が急に膨れてさ、もぞもぞ動くんだ。そのうちに、鼻の穴からあいつが、ほら、この間河原で見た、あいつが出てきた。
平べったくなったり、尖ったり、とにかく形を変えて、ぶよぶよ揺れ動いていたのがさ、猿がほんのちょっと近づいただけで、急に糸のように細くなって、飛ぶように伸びていった。猿はびっくりして避けようとしたんだけど間に合わなくてさ、あれはとうとう猿の鼻の穴に入っちまった。慌ててひきちぎろうとしても、滑るのか、うまくいかなくてさ、猿は手をばたばたさせるだけなんだ。
でも、それも十秒も続かなかった。急にがくんと頭を落として、手も足もだらりだ。
女の鼻と、猿の鼻がちょうど肉色のヒモで繋がれた格好になってね。ヒモは、三十秒くらい、太くなったり細くなったりを繰り返していた。そのうちに、女の鼻からするりと抜け出してさ、猿の鼻からぶら下がるみたいになった。それが、ずるずると上がって、とうとう全部猿の中に消えてしまったんだ。
それから三分もたったかなぁ、突然猿の頭が、ゆらりと持ち上がった。目をかっと見開いてね。目玉が左右てんでばらばらにぐるぐる動き回ってんだ。それがひとつのものに焦点を合わせるかのように、ぴたりと止る頃に、今度は、手、足、指がごちゃごちゃにくねりだした。
とても生き物とは思えない、見事なまでに統率のとれていない動きだったよ。
飯塚の話は、夜遅くまで続いた。
あいつは、まず鼻から入る。そして嗅覚神経を食い破る。ここが一番脳に近いことをあいつらは知っているのだ。細く、糸のように細くなりながら、鼻腔から嗅覚神経をたどって脳に侵入する。大脳皮質から、さらに奥に進み、間脳、小脳に向かう。この段階で、あいつに入られたものは、気を失う。決して死にはしない。あいつは、一端小脳に達すると、今度は、沢山の触手を大脳皮質のあちこちに延ばす。そして最後には、小脳を中継地点に繋がれた、あいつのネットワークができあがる。この段階で、あいつに入られたものは、意識を取り戻す。が、あいつが脳に居座っているために、以前とは違う者になってしまっているのだ。
あいつが脳の中で、どう言う風に働きかけるのか、その仕組みは具体的にはまだわかっていない。ただ、脳全部を完全な支配下に置くのではなく、ごく一部、心理学的な言い方をするなら、潜在意識に当たる部分を軌道修正するらしい。だから、それまでに脳が蓄積した記憶や、性格と言った、表面にでてくるものはこれまでとほとんど変わらない。
あいつが潜在意識を軌道修正する方向は、あいつも生命体であることを思うと、ある意味でもっともと言えるものだ。
生命は、自分を取り巻く環境を少しでも自分の過ごしやすいものに変えようとする。一番簡単な例を挙げれば、巣だ。巣を作ることにより、雨や風を防ぎ、気温の変化を和らげる。それと同じように、あいつも、入り込んだ宿主が少しでもよい条件で生きられるように宿主を変えて行く。宿主の利益は、あいつの利益でもあるからだ。あいつに入られた宿主は、とにかく自分がよい条件で生きることを第一に考えるようになる。わかりやすく言えば、自分さえよければいいと言う風になる。かなり自分勝手になるということだ。宿主が繁栄すれば、それだけあいつもおこぼれに預かれる。そう言った意味では、あいつは単に寄生しているのではなく、共生して言えるのかも知れない。
しかし、長期的に見れば、やはり問題はある。自分の都合のいいことしか考えない、そんな人間がこれ以上増えたらどうなるか。宿主以外の人間、そして生物にとってこれ程住みにくい世界はないだろう。他人や他の生物がどれだけ痛めつけられ苦しもうとも、あいつらは一向に構わないのだ。いや、もしそれが宿主の繁栄につながるなら、喜んで他人や他の生物を踏みにじるだろう。
だからと言って、あいつらに正面切って挑むことは難しい。例えば誰かにあいつの存在を説明したとしよう。もし実物を見ていないなら、こんな馬鹿げた話、鼻から信用してくれはしない。そして、もし実物を見たことがあったにせよ、その人の脳内に既にあいつが入っていたら、それは自分に都合の悪いことだから、信じようとしないし、また忘れてしまう。潜在意識が働くわけだ。あいつらが自分を守るために、潜在意識を通して操作するんだ。だから、あいつをめぐって、表立った動きは起きようがない。まるで、功名に仕組まれたトリックのようにあいつらは生きているんだ。
それでも、本当にごく一部だけれど、あいつらと戦っている者たちがいる。その人達の間で、様々な調査と実験が繰り返されてきている。あのビデオもそうだし、あいつらの生態が少しづつだけれど、解かってきたのもその人達のお陰だ。もちろんおおっぴらには何もできない。あいつらにとったら、敵以外の何物でもないから、なにかと邪魔をされる。もし、宿主の性格が元々凶暴だったりしたら、あいつが潜在意識を通じて働きかけて、とんでもないこともやりかねない。だから、あいつらと敵対していることは、決して悟られてはならないんだ。
あいつらを消す方法は今のところ見つかっていない。ただ繁殖を鈍らせる手段はある。あいつらは一端神経組織に入り込むと、しばらくは繁殖しない。入ってから、十年近くはそのまま増えないらしい。その後、四年か五年に一回の割合で、二つに分裂する。分裂した片方は、入ってきたのと同じ経路を逆にたどって、鼻腔から触手を出す。宿主が夜、眠っている間だ。近くに宿主になりえるものがいたら、その鼻に触手を延ばし、脳に忍び込んでしまう。もしいない場合は、そのまま本の母体に吸収されてしまい、またひとつに戻るらしい。
だから決して、大繁殖するというタイプの生き物ではない。
その繁殖スピードが、宿主の体にある種の硅素化合物が蓄積されていると、もっと遅くなるんだ。非常に微量でいい。それだけで多分半分以下、つまり十年に一回の分裂になるだろうと言われているんだ。
だから、少なくともあいつらの繁殖を抑えるために、その硅素化合物を沢山の人にとって貰う必要がある。水道の水に入れると言うのはひとつの手だ。が、これは地域が限定されてしまう。ある特定の地域だけにあいつらがいるのではないし、また効果に地域性が出るので、ばれやすい。
そこで考えられたのが、食物への混入だ。正確に言えば、食材への混入だ。例えば、米。米なら、流通に乗って全国にばら撒かれる。効果に地域性がないから、発覚しにくい。
米にその硅素化合物を混ぜるのに、一番効果的な方法は、育ち盛りの頃に、水田にぶち込んでやることだ。それができなければ、川に入れてやればいい。水田には、川の水が流れ込んでいる。また川に入れてやることには別の利点もある。川の水を灌漑に使っているとしたら、畑の植物にも硅素化合物が入るということだ。もちろん飲み水にも使われるかもしれないし。
「ほら、これだよ」
飯塚が、カウンターの脇に手を延ばし、引き出しの中から、緑色のものを取り出した。高さ五センチ程の円筒形のプラスチック容器だった。
「え?これ?」
それは、フライフィッシングをする時に、よく使うフロータント、つまりフライの浮きを良くする粉が入っているものだ。
「もちろん、中身はちょっと違うさ」
飯塚が小さく容器を振った。シャカシャカと乾いた音が中から響いた。開けると、いつも見慣れた白い粉が入っている。どこが違うとも解からなかった。
「そりゃ、そうさ。見てすぐに解かるような違いだったら、ばれちまうだろ」
これを持って、毎週川に行く。なるべく同じ川に通わず、できるだけ遠く広く出かけるようにする。そして、そっと粉を川に流すのだ。時には、手を滑らせて落としてしまったような振りをして、中身をぶちまけることもある。そうして、川水の硅素化合物の含有率を少しづつだけれど、濃くしてゆくのだ。川水自体に含まれる濃度は僅かでも、稲に吸収され、米に蓄積されれば、最終的には高くなる。
以来、僕と飯塚は、以前にも増して足しげく川に通うようになった。もちろん、あの白い粉を持ってだ。粉が減ると、飯塚がどこかからか、補充分を持ってきてくれた。
ある日、ふと疑問に思っていたことを飯塚に尋ねてみた。
「このフロータントの白い粉を使っている人は、結構仲間が多いのかな」
飯塚が苦笑した。
「そんな訳ないじゃん。自分さえ良ければいい釣り人、釣った魚がどうなろうと知ったことのないやつら、そんなやつらが沢山いるだろう。ひょっとしたら、俺達の仲間どころか、あいつらがもう入っちまってるかも知れないぜ」
「そう言われてみればな」
「おまえに打ち明ける時だって、俺はすごく悩んだんだ。ひょっとしたら、おまえも既にってね」
でもその心配は今のところないだろう。もし僕のなかにあいつが入っているのだったら、こんなに熱心に川へ出かけたりはしない。それどころか、飯塚の邪魔をするようになるはずだ。
今、僕は、川へ出かけては、どうしたら、もっと魚や他の生き物達が住みやすい環境にしてあげられるのかを考えている。そのためには、とにかくあいつらの数を減らさなければならない。繁殖のスピードを遅くできるだけだから、効果は低い。本当に小さなことでしかないけれど、なるべく数多く、そして長い年月積み重ねてゆくことで、いつかは大きな実りとなるはずだ。
この地球の、豊かな生物相をあいつらに踏みにじられないためにも、僕はもっともっと川へ行かなければならないのだ。
決して、僕は自分のわがままで、自分の楽しみだけで釣りに行っているのではない。
地球を守る使命で川に出かけている。
大げさと思うかも知れない。何を馬鹿なことをと、思うかも知れない。けれど、僕は真面目だ。そして、この使命を感じられている間は、少なくとも、まだあいつが僕に入り込んでいないという証拠でもあるのだ。
あなたは、大丈夫だろうか。
(初出 フライフィッシャー誌1992年8月号)
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