冬も終わりに近い、どことなく春の気配が感じられるある昼過ぎ。ぶらぶらと歩いてくる若い男がおります。 買い物帰りでしょうか、白いビニール袋を下げ、あちこちの店を覗き込みながら、いとも呑気な様子です。本屋では雑誌を立ち読みし、CD屋ではあれこれ試し聞きをし、電柱に張ってあるいかがわしい広告の前では、わざわざ立ち止まって隅から隅まで目を通して、いや、「もう本当にわたし暇なんでございます」と、首から看板を下げているような歩き方です。 とある釣り具屋の前まで来ますと、中から声が掛かりました。 「おっ、弥二郎ちゃんじゃない。今日も精が出るね」 「あ、半田さん。こんちは」 弥二郎ちゃんと呼ばれた男は、そのまま店に入って、カウンターの横にあった椅子にどっこいしょと腰を下ろします。 「精が出るねはないでしょう、半田さん。買い物するのに、精を出すも何もないすよ」 「アハハ、悪かった。いやぁ、平日の昼間に、そうやってぶらぶらと買い物をしてるなんて偉いなと思っただけだよ」 「いやぁ、そうでもないっすよ」 この男、半田さんの皮肉が、全く通じていないようです。 「ほんとにお前は、幸せなやっちゃな。ところで、来週の火、水は空いているかい」 「え? なんかあるんすか」 「いや、ほら弥二郎ちゃんも知ってる石川さん、あの人が、あの例の禁漁区の特別解禁の許可証、あれを手に入れてさ、三人までオーケーって話なんだ。それで、弥二郎ちゃんもどうかって言うんでね」 「ええっ? あの話、ほんとだったんすか。ああ、行きたいです。すっごい、行きたいです。でも、、、」 「でも、なんだよ」 「でも、先週も釣りに行ったんで、かみさんにちょっと、、」 「そうか、弥二郎ちゃん、愛子ちゃんの働きで食ってんだもんな。奥さんの機嫌はちゃんととっとかなきゃいかんな。じゃ、別の人に、、」 「駄目っす。それは駄目っす」 「なんだよ、駄目ったって、愛子ちゃんの機嫌損ねたら、ヒモとしては失格だろう」 「違いますよ、僕、ヒモじゃないっすよ」 「じゃ、なんだよ」 「ちゃんと、仕事してますよ」 「仕事?」 「はい。朝、洗濯をして、昼、掃除をして、で、かみさんが帰ってくる前に夕飯の用意をして、、、」 「それを、ヒモってんだよ」 「いや、専業主夫と呼んでください」 「なんだ、そりゃ。でも、どっちにしても、愛子ちゃんの機嫌損ねるわけにはいかんでしょ」 「お願いします。そこを何とかお願いします。あの川で釣りができる、一生に一度あるかないかのチャンスをみすみす逃すなんて、考えただけでもう、悔しくって、悔しくって、、、」 弥二郎ちゃん、もう半分涙ぐんでいます。 「わかった。わかったから、店先で泣くのはやめてくれ。道を通る人が何事かと思って見てるだろ。大体、俺にどうにかしろってお願いされてもなぁ」 そう言って、半田さんは腕組みをして、じっと天井を睨んでいます。しばらくして、ふっと何かが思い浮かんだ様子です。 「なあ、弥二郎ちゃん、愛子ちゃんが好きなこと、一番喜ぶ事って何かあるかい?」 「ええと、美味しいケーキを食べること、美味しい羊羹を食べること、美味しいカレーを食べること、美味しいワインを飲むこと、それから、えーっと、、、」 「なんだよ、全部食い物ばっかリだな」 「ウン、家のかみさん、卑しいから」 「おまえに言われちゃ、世話ないな。他に何かあるかい?」 「あ、そう言えば、最近、ガーデニングに凝ってるっすよ」 「ガーデニングかい。あれは随分と流行っているらしいね」 「それで、ナニナニとかいう花が欲しいんだけど、日本じゃ中々手に入んないって、こないだも言ってました」 「ナニナニじゃ、よくわからんな」 「はぁ、僕もよくわからないっす」 「ったく、しょうがない人だね。よし、よくお聞きなさいよ。今から言うことを、間違えずに愛子ちゃんに言うんだよ。ひょっとしたら、うまく行くかもしれないから」 「ひょっとしたらですか?もうちょっと、強そうなやつはないんですか。小錦くらい押しの強そうなやつ」 「欲張りを言うんじゃないよ。いいかい。弥二郎ちゃんが釣りに行く。釣りに行くと、どうなる?」 「魚をたくさん釣ります」 「嘘をつけ。一尾釣れれば、万々歳じゃないか。それよりも、沢山フライをなくすだろ」 「そう、すっごいんすよ。釣りに行ってんだか、フライをばら撒きに行ってんだか。そのうちあちこちでフライの芽が出そうなくらい」 「そうしたら、フライを補充しなくちゃいけない。そのためには、フライの材料、マテリアルを買わなくちゃいけないな」 「うん、それで、半田さん、大儲け」 「口を挟むんじゃない。何も買やしないくせに。マテリアルと言えば、ハックル、つまり鶏の羽根、ハックルケープが売れるってことだ。羽根をむしられた鶏はどうなる」 「風邪を引く」 「いいから黙ってなさい。鶏の肉がたくさん出回るってことだ。当然、値段が下がる。鶏肉が安くなれば、嬉しいのは焼鳥屋だ。仕入れ値が下がるんだから、もう、儲かる儲かる。そうなったら、店を大きくするよ。店が大きくなれば、儲けはもっと大きくなる。おかげで、店主の気も大きくなる。たいして利子も付かない銀行に金を入れておくくらいなら、マンションでも買おうかってことになる。それでも、まだ余裕がある。それならいっそのことってんで、若い愛人を囲うな。俺なら、まずそうする」 「僕は、囲われたいっす」 「ヒモのお前が、いまさら囲われてどうするんだ。で、愛人だ。旦那が来る時には家にいなくちゃいけないから、そうそう遊び歩いてばかりもいられない。家の中にいてもすることがないから暇だ。じゃ、このベランダを使って、今流行のガーデニングでもしてみようかってことになる。でも、そんじょそこらにあるものじゃ嫌だ。愛人になろうなんて女は、みんなそんなもんだ。昔のお妾さんが普通の犬じゃなくて気取って狆を飼っていたみたいに、どこか人と違うことをせずにはいられない。それで、これまで日本では売っていなかったような珍しい花を花屋に注文するよ。花屋だって、商売だ。しかもお客は、金払いがいいだけじゃないよ。愛人になるくらいだから、見た目もいい、ちょっとぐっとくる女だ。気を引こうとして、注文以外に頼まれもしない花を取り寄せるよ。おかげで店の中は、これまで見たこともない艶やかな花で一杯だ。で、ここだ。そうなれば、愛子ちゃんが花屋に行った時に、ナニナニなんて花が、簡単に手に入るようになるって寸法だ」 「うん、うん」 「つまりだ。お前が釣りに行くのは、お前のためじゃない。愛子ちゃんのことを思えばこそで、好きな花がもっと気軽に買えるようになるためには、無理してでも釣りに行かなくちゃならない。そういう訳だ」 「なぁるほど。そうか、僕が釣りに行くのは、自分のためじゃなくて、かみさんのためだったのか。ちっとも、知らなかった。よし、今日かみさんが帰ったら、さっそく説明してみます。じゃ、さいなら」 弥二郎ちゃん、さっきまで泣きべそだったのが嘘のように晴れ晴れとした顔で、家路を急ぎます。 いつものように、洗濯物を取り込み、軽く掃除をした後、夕飯を作って愛子ちゃんの帰りを待っているというと、、、 「お、あの足音は、かみさんだ」 「ただいま。今、帰ったわよ」 「おかえんなさい。お仕事、どうもお疲れさまでした。今日はね、ちょっと愛ちゃんに話したいことがあるんだ」 「何よ、今更、改まって。仕事でも見つかったの」 「いや、そんなつまらないことじゃないよ。仕事なんてどうでもいいんだから。もっと大切なことなんだ。だから、よく聞いてくれよ」 弥二郎ちゃん、半田さんが言った通りのことを、愛子ちゃんに話しました。 初めのうちは、ふんふんと真面目に聞いていた愛子ちゃんですが、途中から、目の色が変わってきました。 「という訳で、僕が釣りに行くのは自分のためじゃなくて、愛ちゃんのためなんだよ。分かってくれたかい。僕が行きたくて行くんじゃない。愛ちゃんのためを思えばこそなんだよ」 ええ!? なにぃ? ムッカァ。 黙って聞いてりゃいい気になって、何をいけしゃぁしゃぁと、この男は! 本当にどうしようもないぐうたらの癖に、釣りのこととなると必死になるんだから、、、。 愛子ちゃん、心の底から怒りが込み上げてきました。思わず怒鳴ろうとして、ふと気がつきました。 ちょっと待って。こんな手の込んだ言い訳をこの男が自分で考えられるはずもない。ははぁ、さては誰かの入れ知恵だな、よし、それならと、愛子ちゃん、にっこり笑って、 「ごめんね。今日は仕事の上でちょっとごたごたがあって、頭がまだよく回らないの。今の話、申し訳ないけれど、もう一度して貰えるかしら」 「いいよ。愛ちゃんのためだ、何度でもしてあげるよ。ね、まず僕が釣りに行く。釣りに行くとどうなる。僕はまだ下手くそだから、沢山フライをなくすよ」 「そうねぇ、いつも、いっぱい巻いているのに、すぐ無くなるものね」 「そう、だから、巻く材料を買ってこなくちゃならない」 「やっぱり、一番減るのは、巻くための糸かしら、それともフックかしら」 「え?いや、その、ハックル用の鶏の、、」 「でも、あの鶏の羽根って、ハックルケープとか言ったアレを一枚買えば、それから沢山取れるんでしょ」 「う、うん、まあ、そうだ」 「ね、だから、この間、高ーいお金を出して買ったんだもんね。買う時に、これ一枚から取れる羽根で何百ものフライが巻けるんだから、決して高い買い物じゃないって、弥二郎ちゃん、言ってたもんね」 「う、うん」 「じゃ、やっぱりよく買うのは、糸?フック?」 「フ、フックかな」 「だったら、フックメーカーは、注文が一杯来て大変ね」 「そうだろうな」 「フックの材料は、鉄だから、製鉄所も忙しくなるわね」 「ああ」 「もう、忙しくて、ラグビーだなんて遊んでる場合じゃないでしょうね」 「いやぁ、その、、」 「それでラグビーの練習なんて誰も出てこないから、チームは自然解散。外国から、わざわざ呼んできた選手も、お役ご免で帰されちゃう。ああいう外国から呼んだ選手って、一流選手なの?」 「もちろんだ。もっとも、肉体的にピークはちょっと過ぎていて、本国では今一つどうもってレベルの選手が多いかな」 「じゃ、本国に帰っても、選手としてはやっていけないわね。日本を出る時に貰えるお金なんて、たかが知れてるだろうし、すぐ使い果たしてしまう。ということは、久しぶりの祖国に帰ったのに無一文、身一つ、誰も雇ってくれない。ところで、外国でもキャッチアンドリリースってするの?」 「なんだよ、急に。その国によるよ」 「ラグビー選手の来るような国って?」 「ああ、あそこは魚がたくさんいるから、あんまりやってないみたいだよ」 「じゃ腹ペコの元ラグビー選手は、近くの川に行って、魚でも捕って食べようと思うわね、きっと。で、ほら、元々がラグビー選手になるくらいだから、体も大きくて、おかげで食べるの食べないのって、ひたすら食べるわよ。釣っては食べ、釣っては食べしてないと体ももたないから。でも、そんなことをしていたら、いくら魚がたくさんいたとしても、一年もすれば、綺麗さっぱり食べ尽くすわよ」 「う、うん」 「確か、あなた、いつかあの国に行って、思う存分大きな鱒を釣りたいって言うのが夢じゃなかった?」 「うん、そうなんだ」 「でも、その頃には、もう魚なんていないわよ」 「え?」 「だって、あなたが釣りをしたおかげで、ラグビー選手がみいんな食べちゃうんだから」 「そ、そんなぁ」 「ね、そうならないように、釣りにあまり行かない方がいいと思うんだけど」 「え、あれ、おかしいな、でも来週の火曜日は、、、」 「来週の火曜日がどうしたの?」 「いや、その、釣りに行こうかなとか、、、」 「そんなことしてると、あなた、自分の夢を自分で崩すことになるのよ。今説明してあげたじゃない」 「あ、そ、そうだね。でも、来週の火曜日は特別で、禁漁の、、、」 「え、来週の火曜日から禁漁なの?じゃ、ちょうど良かったじゃない、釣りに行かずに済んで」 「いや、あれ、なんか、変なことに、、、」 弥二郎ちゃん、がっくり肩を落として、夕飯をテーブルの上に並べ始めるのでした。 それから、数日後、また、買い物帰りでしょうか、町をふらふらと弥二郎ちゃんが歩いております。例の釣具屋の前を通ると、中からまた声が掛かりました。 「お、弥二郎ちゃん。どうした、元気ないけど。来週の話はどうなった?」 「駄目だったす。あれ、全然駄目す」 「え、あれって、俺が教えたやつかい?」 「うん。僕が釣りに行くとフライが無くなるというところまでは良かったんすけど、、」 「どうした、その先を忘れちまったのか」 「そこまで馬鹿じゃないっすよ、ひどいな半田さん」 弥二郎ちゃん、半田さんに愛子ちゃんが言った通りのことを話しました。 「うーん、なるほど、そうきたか。愛子ちゃんの方が、一枚上手だな。それにしても、あれだけしっかりした人がどうしてお前のようなぼんくらと一緒に、、、」 「うーん、やっぱ、僕の人柄じゃないですか」 「お前、自分でそれ言うかぁ?」 「いや、僕が言わないと誰も言ってくれないんで」 「ったく、情けないやっちゃな。じゃ、しょうがない、あの石川さんの話、諦めるしかないな」 「だぁぁぁ。駄目ですよぉ。だって、ずっと禁漁だったあの川に、あの禁断の園に、大手を振って入れるんでしょ。こんな岩魚やあんな山女魚がこんなんなってうようよ居る、そこにお咎めなしで入れるんでしょ。葵のご紋付きの印籠持って、やりたい放題やるようなもんじゃないですか。駄目です、僕も行きます」 「なんだよ、眼が血走ってるよ。まるで、女子高の更衣室に迷い込んだオヤジみたいだな」 半田さん、またしばらく腕組みをして何か考えております。 「弥二郎ちゃんがもし会社勤めでもしていたなら、出張だとか何とか誤魔化せるんだけどねぇ」 「自慢じゃないですけど、これまで、会社と名が付くものにお世話になったことはまるっきりないんですよ。それだけじゃない、医者も、芸者も、愛車もとんと縁がない」 「何を馬鹿なことを言ってんだか。よし、仕方ない。こうなったら当たって砕けろだ。正攻法で行こう」 「せいこう法?」 「おかしな事考えるんじゃないよ。そうじゃなくて、真っ正面からどんと行くんだ」 「釣りに行かせろ、このヤロー、さもないと刃物持って暴れるぞって脅かすんですか」 「どういう頭をしているんだ、お前は。それはただの脅迫だろ?そうじゃなくてだ、、、」 半田さん、なにやら、弥二郎ちゃんにごそごそと耳打ちしております。 弥二郎ちゃんはそれを聞いて、あっと驚いたり、いきなり顔を赤くしたり、硬い顔つきになったりしておりましたが、最後にはフムと何か心得た様子で、そそくさと半田さんのお店を後にしました。 弥二郎ちゃん、家に帰ると、まずは掃除を始めました。いつもより念入りに、部屋の隅から隅まで掃除機をかけ、果ては見えないタンスの裏まで綺麗にしています。 それが済んだと思ったら、いそいそとキッチンに立って、なにやら料理を作り始めました。まだ、陽の高い昼間です。愛子ちゃんが帰ってくるまでには、四時間はたっぷりあります。 しばらく忙しくしていたと思ったら、「あ、そうだ、忘れてた」と小さく一声漏らして、慌ててどこかに出かけていきました。 ものの三十分もしないうちに弥二郎ちゃん、小さな紙袋と、大きな花束を抱えて帰ってきました。 紙袋の中から出てきたのは、ワインが一本。シャルドネでしょうか、うっすらと黄色みがかったボトルをそっと取りだし、冷蔵庫にしまっています。 そして、テーブルの上に、花を飾っています。 もう誰が見ても下心が見え見えの、いじらしくなるような努力でございます。 そうこうしているうちに愛子ちゃんが帰って参りました。 「あ、おかえんなさい」 「ただいま」 「お仕事、今日もお疲れさまでした」 「なに、これ。花なんか飾っちゃって。どうしたの?」 「いやね、いつもいつも、外で働いてきてもらって、愛ちゃんにはほんとにお世話になってばっかリだから、たまにはこれくらいのことしなくちゃなと思ってさ」 「ふうん」 「夕飯の用意もできてるから、先にシャワーでも浴びてきたら?」 「じゃ、そうするわ」 愛子ちゃんが浴室に行っている間に、弥二郎ちゃん、テーブルセッティングを整え、仕上げにキャンドルに火を灯すと、部屋の電気を暗くしました。 愛子ちゃんが着替え終わって出てきた時には、スピーカーから静かにセロニアス・モンクが流れ、すっかりロマンチックな雰囲気が漂っています。 「ちょっと、なんなの、やめてよ。魂胆丸出しじゃない。これだけサービスしたから、釣りに行かせろって言うの?」 「おいおい、人聞きの悪いこと言っちゃいけないよ。ま、いいから、座って、座って」 愛子ちゃんが椅子に座るや、弥二郎ちゃん、冷蔵庫から白ワインを取りだし、グラスにそっと注ぎます。乾杯をして一口舐めただけで、弥二郎ちゃん、席を立つとまた冷蔵庫から何かを出してきました。 「あ、これ」 「うん、そう。サーモン・クル。覚えてる?初めてこれを食べた時のこと?」 「もちろんよ。新婚旅行で行ったタヒチのフランス・レストランでしょ。あんまり美味しかったんで、わざわざシェフにレシピを教えて貰ったんだものね」 「生の鮭に、生姜と、コリアンダー、ライム、それにオリーブオイル」 「こんなにシンプルなのに、美味しくって」 それから後も出てくる、出てくる。ベイリーブとオリーブオイルのポテトグラタン、鶏のクルミとバジリコバターのロースト。 そしてワインがすっかり空き、愛子ちゃんの気持ちがのびのびと寛いだところに、畳みかけるようにラズベリーとポートワインジェリーのデザートです。 いくら、魂胆がある、下心があるとはいえ、これだけ一生懸命手の込んだ料理を作られるとさすがに悪い気持ちはいたしません。 ま、釣りに行くくらい許してあげてもいいかな。浮気するわけじゃなし。 愛子ちゃんの心がゆらゆらと揺れています。 ここで、「お願い、釣りに行かせて」と頼まれたら、「仕方ないわね」と言ってくれるのはほぼ間違いなし。 弥二郎ちゃんも、さすがにヒモをやっているだけあって、愛子ちゃんの心の動きが手に取るように分かります。だから、今ここで一押しすればと思うと、「釣りに行かせて」の言葉が首まで出かかるのですが、そこをぐっと堪えています。 うう、まだ、まだ。今頼んじゃったら、確かに釣りには行かせてくれるよ、きっと。でもそのかわり、釣りに行きたくなる度に、こんな苦労をしなくちゃならなくなる。そりゃ、駄目ですよ。そんなことできませんよ。フライも巻かなくちゃいけないし、作りたいロッドもあるし、いろいろと忙しいんだから、こう見えても。目先の雑魚に気を奪われて、大物を逃しちゃならないぞって、半田さんにもきっつく言われたもんな。何がなんでもこっちから頼んじゃ駄目だぞって。 弥二郎ちゃん、それで釣りのことなどおくびにも出さず、甘い言葉を囁き続けます。 「どう、美味しかった?」 「うん、でも大丈夫なの、こんな贅沢しちゃって」 「任せといて。お金はほとんどかかってないんだ。いつもの夕食と同じかな。ワインだって、安いんだよ、実は」 「でも、すっごく美味しかったわ。ワインの香りとお料理の味がすごくバランスが取れてて」 「ありがとう。ほら、僕、名前が弥二郎だからさ、バランス取るのが上手いんだよ」 「名実ともにヤジロベーって?」 「あはは、そうだよ。だから、こんな風に見た目には豪華な食事をしても、家計簿のバランスは取れてるし。それに一応栄養のバランスもちゃんと考えたメニューにしてあるし」 「うん、ほんと、弥二郎ちゃんって、バランスだけで世の中渡ってるみたいだもんね」 「ひどいな、もう」 「ねぇ、弥二郎ちゃん、来週の釣り、行ってもいいわよ」 「え、ほんと?」 「うん、だって、弥二郎ちゃんから釣りを取ったら、何にも残らないもんね」 「そんなことないよ。愛ちゃんがいるじゃない。僕にとっては、愛ちゃんはなくてはならない、とっても大切な一部なんだから」 「またぁ」 「ほんとだってば」 「ほんとに?」 「うん」 「じゃ、これからも好きな時に釣りに行ってもいいけど、釣りばっかりに夢中になったりしないで、私の事もお願いね」 「うん、それなら大丈夫。任せておいて。ヤジロベーだけにバランスが命。釣り、愛が全てでございます」 おあとがよろしいようで、、、。
(初出 フライフィッシャー誌2000年2月号)
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