前日までの暑さが嘘のように和らいで、ほっと一息つきたくなるような、そんな日だった。
 山道を行ける所まで車で入り、河原に降りる。標高が高いせいだろうか、ふうわりと秋の気配が漂っている。
 やっぱり、渓流はいい。
 その日の午後一杯ロッドを振り、そのまま車に泊まる。そして、翌日の午前中も遊んでから戻る。それこそ身体の隅々まで釣りを詰め込んで帰るつもりでいた。
 釣りの準備を終えて河原に腰を下ろし、しばらく流れを見つめる。どうやら水棲昆虫の羽化はないようだ。そんな時の定番ということで、アリを模したフライを結び付ける。
 細長く切ったウレタンフォームを、鉤の上に糸で留める。もう一ヵ所糸で巻き留めると、ぷくぷくとくびれ、まるで本物のアリの腹部の様に見える。一つ目のくびれに、太めの鹿の毛を数本取り付けてある。足のつもりだ。その上に浮力を付け足す意味でハックルを一巻きだけ。
 魚から見て、上流から流れてくるものは、餌ばかりではない。いや、ゴミの方が多いくらいだろう。その中で、食べられるものをどうやって見分けているのか。
 枝の切れ端、小さな木の実、綿毛を伸ばした草の種。それに混ざって流れてくる、カゲロウ、カワゲラ、トビゲラ、アリ、甲虫。
 足の有無ではないか。そう思ったのだ。それで、わざわざ鹿の毛を付けてみた訳だ。
 その自信のフライで釣り登っていったのだが、芳しくなかった。やはり昼間の暑さがたたって、魚達は涼しい日陰で休んでいるようだった。
 ここと思われるポイントにアリを流し込んでみるものの、なかなか出てこない。
 終いには、オモリを巻き、フライを落としの白泡に潜り込ませて、ようやくまあまあの岩魚を掛けることができた。
 もう少し陽が傾いてからの方がいいのかも知れないな。
 そう思った私は、取りあえず、随分と遅い昼食にすることにした。コンビニで買ってきたソーセージとサンドイッチだ。
 子供の頃に食べたものの味というのは、どうやら舌に染み込むらしい。いまだに本物のソーセージより、魚肉ソーセージに手が出てしまう。ひょっとして、海に降りて大きく育ったスティールヘッドが、小さなフライで釣れたりするのも、これと同じなのかも知れない。そう思うと妙に納得できるから面白い。
 その時だ。視野の隅で動くものがあった。
 はっと顔を上げる。対岸に黒い動物がいる。
 熊?
 思わず身体を硬くした。
 が、黒い犬だった。熊かと思ってどきりとした分、心底ほっとした。
 こちらの様子を窺っている。野良犬だろうか。それにしては、随分ときれいな犬だ。飼われていたのが、はぐれたのか、それとも捨てられてしまったのか。
「おーい、こっちにおいで」
 声をかけると、しばらくためらってから、川の緩やかな所を渡って来た。
 水から上がっても、その場に立ちすくんだまま動こうとしない。尻尾を半ば足の間に隠すようにしている。多分私のことを警戒しているのだろう。
「これをあげるよ」
 ソーセージの切れ端を投げてやった。
 黒犬は、びくっと二、三歩後ずさりする。がソーセージの匂いを嗅ぎつけるや、ぺろりと食べてしまった。
「そんなに食べたいなら、こっちにおいで」
 黒犬は、私が手にしているソーセージの匂いにつられ、ゆっくりと寄ってくる。近くで見ると、純血かどうかは分からないが、どうやらラブラドールのようだ。
 恐る恐る近づいてくる。警戒しながら首をぐっと伸ばして、遂にソーセージを口にした。
 しかし一度手から食べると、すっかり安心したようで、尻尾を振って私の手や顔を舐めようとさえする。
 デイパックの中からもう一本ソーセージを出したら、ちょこんとお座りをした。
「おお、いい子だねぇ」
 ひょっとして首輪でもしていて、飼い主の連絡先でも書いていないだろうか。そう思って、手を伸ばしたら、何を思ったのか、今度はお手をした。
 思わず笑ってしまった。
「アハハ、ほんとにいい子だね」
 ご褒美にソーセージをあげた。残念ながら首輪はしていない。飼い主のことはおろか、犬の名前すら分からない。撫でてやると、犬もだいぶ慣れてきたのか、終いには腹を出して甘える始末だった。
 結局その日、私が釣りをしている間中、黒犬は私の後をついてきた。ポイントを狙っていると、後ろの河原で横になり、じっと私を見守っている。
 犬をお供に連れて釣りをするなんて初めての経験だ。
 案外悪くないもんだな。
 犬連れで、ぶらぶらと釣り上がるうちに、ようやく陽が傾いた。木々の間から見える山脈の頂がオレンジ色に染まる。
 待ちに待った夕マズメは、思った通り、それまでどこに隠れていたのだろうと不思議になるくらい沢山の魚が出てきた。
 私は夢中になって、水面が見づらくなってからも釣り続けた。自分の立つ場所と頭の位置をうまく調整して、丁度魚が跳ねた所に月が映るようにするのだ。そして月に向かってフライを投げるのがコツだ。
 揺れ動く白い月の中に、フライが陰となって浮かび上がる。
 突然、波紋が広がり、ロッドが撓む。
 何尾釣ったのか。
 気がつくと、魚が残す波紋は随分と間遠になっていた。
 それまで川面に集中していた意識が、ゆっくりと開いてゆく。暗闇を、流れの音だけが満たしている。
 ああ、いい釣りだった。そろそろ上がるか。
 この先で、登山道に続く小道がある。それを辿って登山道を下れば、林道まではすぐだ。
 確か、ここだったはず。そんな薄い記憶を頼りに、斜面を登り始めた。相変わらず、黒犬は後を付いてくる。真っ暗な中に黒い犬だから、殆ど見えないのだが、時折、薄青色の瞳が暗闇に浮かぶ。
 どれだけ歩いたろうか。もうそろそろ登山道に出てもいい頃だというのに、いつまでたっても、踏み跡すらなかった。
 おかしいな。迷ったんだろうか。
 悪い時には悪いことが重なるもので、霧雨が降りだした。身体が芯から冷えてくる。
 やばいな。
 こんな時は無闇に歩き回らずに、少し休んだ方がいい。
 大木の傍らに腰を下ろす。黒犬は側に来て、じっと私を見ている。
 しばらくして、黒犬がすっと歩き出した。
 寝ぐらに帰るんだろう。薮に消えていく後ろ姿を見て、寂しくなった。こんな山の中で、本当に一人になってしまったという思いがひしひしと湧いてくる。
 と、黒犬が立ち止まって、振り返った。
 じっとしたきり、動こうとしない。そして、また私の傍らに戻ってくる。そして、また、行こうとする。
 黒犬は、それを何度か繰り返した。
 ふと、ひょっとして黒犬は私についてこいと言っているのだろうか、と思った。まさか、黒犬が林道までの道を知っているとは思えない。だから、多分、自分が寝ぐらにしている大岩の下とか、あるいは崖のくぼみとか。
 それでも、雨風が避けられるなら、少なくともここよりはましだ。ついて行ってみよう。
 立ち上がって、歩き出す。黒犬は、尻尾を振りながら、先を行く。時折、私がちゃんとついてきているか確かめるように、振り返る。
 気づくといつの間にか、踏み跡を辿っていた。獣道のようだ。覆いかぶさるように遮る枝の下を、踏み跡が消えては現れして細々と続いている。この辺りには鹿が多いと聞くから、鹿の通り道なのだろう。急峻な斜面を、ぐいぐいと登ってゆく。
 息が切れ、冷えた身体が暖まった頃、尾根に登り着いた。そこには、踏み跡よりも一回りしっかりした道がついていた。けれど、登山道ではない。地元の山人が使う杣道だろうか。黒犬は、それをトコトコと降りてゆく。
 時計を見ると、川を上がってから、かれこれ二時間も歩いていた。
 一体どこまで行くつもりなんだ。とりあえず、下に降りているようだから、そのうちどこかに出るのだろうけど。
 それから三〇分も歩いたろうか、突然、ぽかりと目の前が開けた。
 木立の闇が壁のように聳えた中に、小さな空間が広がっている。その中央には、小屋が建っていた。今にも倒れそうな古いあばら屋だ。
 黒犬は、慣れた様子で木戸を鼻で押し開け、中に消えてしまった。
 恐る恐る続いて中に入る。
 ペンシルライトのか細い光を頼りに、辺りを見回す。
 中は土間で、真ん中に囲炉裏らしきものがあった。村の人が、山仕事の休憩に使う小屋らしい。黒ずんだヤカンが囲炉裏の上にぶら下がり、茶わんや湯飲みも見える。壁の一角には、粗朶が積まれている。囲炉裏の周りには、ゴザが敷かれ、黒犬はもうそこで丸くなっていた。
 今夜は、ここで過ごすことになりそうだ。これだけの小屋があるのだから、ここから村に降りる道もあるだろう。明日、明るくなってから、それを辿ればいい。
 そうと決まったら、だいぶ気が楽になった。
 黒犬様に大感謝だ。屋根があるところで眠れるとは思ってもみなかった。よし、火を起こそう。
 細い粗朶をなるべく小さく折って、囲炉裏に積み上げる。ライターで火を付けると、ぱちぱちと小気味いい音をたてて燃え出した。小屋の中が、すっと明るくなる。火の勢いを殺さないよう、粗朶を足し、薪を入れてゆく。少しずつ、炎が高くなる。
 たった一つの火なのに、なんと頼もしいことか。心が静かに解きほぐされてゆく。
 ウェーダーを脱いでゴザに座り、濡れた服を火にかざして乾かした。
 山中で迷ったという緊張感から開放されたせいか、急にお腹が空きだした。買ってきたサンドイッチもソーセージも昼間食べてしまって、何もない。車まで戻れば、キャンプ道具も食料も全てあるのだが。
 食べられないとなると、余計に食べ物のことが頭に浮かぶ。一晩くらい食べなくとも死ぬわけではないから、緊迫感も焦燥感もない。暇つぶしのいい相手だ。
 街に戻ったら、何を食べようかな。いつものラーメン屋にしようか。それとも、久し振りに駅前の寿司屋に行ってみるか。甘エビにイカ。ねっちり食い込む歯応え。たまらんなぁ。それとも、ぐっと奢った食材を買い込んで、手の込んだ料理を作るのも面白いかも知れない。空腹で目が回りそうなのに、わざとワインでも飲みながら、ゆるゆるとやるのだ。
 豚の塊を茹でて、炒めて、蒸す、東坡肉。
 腹の中にトリュッフを詰めた鴨の丸焼き。
 頭の中いっぱいに、思いつけるだけの料理を並べてゆく。満漢全席ならぬ、和洋中勢ぞろい。
 ん?
 ふと、甘い、誘うような香りがした。
 鼻をひくつかせてみる。
 何もない。気のせいか。
 よっぽど腹がへってるんだな。
 でも待てよ。村の人が休憩に使っているなら、お菓子かなんか置いてあるかも知れないじゃないか。
 そう思って、小屋の中を探してみることにした。ペンシルライトを手に、隅から隅までくまなく探ってゆく。
 小屋の奥まった一角に、棚がしつらえてあった。どうやら、神棚らしい。白い紙で作った幣が両脇に垂れ下がっている。その真ん中に黒塗りの高坏がある。何か、その上に乗っているようだ。
 また、さっきの甘い香りが鼻をくすぐった。
 気のせいじゃなかった。
 罰当たりなこととは知りながら、高坏に手を伸ばす。
 見ると、黒豆のようにつやつやと光るものが山となって積まれていた。黒豆よりもっと丸く、色はちょっと赤みがかり、そして不思議な透明感がある。幾つあるだろう。百個以上はあるに違いない。
 顔を近づける。柔らかな香りが鼻から頭の後ろに抜け、そしてゆっくりと腹へ降りていった。
 やばいよ。まずいよ。
 そう思いながら、誘惑に勝てなかった。
 こんなにあるんだから、一つくらいならいいだろう、、、。
 一つ摘んで口に入れてしまった。
 舌に乗せた途端、崩れるように溶けだした。
 あっ。
 中からとろりと何かが出てくる。
 じわりと、仄かな甘さが舌に染み込んできた。それが舌の先から奥の方へゆっくり広がってゆく。舌全体が、まるで痺れたかのような静かな感覚に包まれる。舌の内部、奥深い所で、透き通るような甘さが小さな核となって後から後から生まれてくる。その周りを薄い塩味ともつかぬ淡い感覚がさらさらと流れてゆく。ぴちぴちと弾けるような、それでいてふうわりと舞うような。たとえて言うなら、深く揺らぎのない森の静寂、きらきら踊る木漏れ日、そして音もなく流れてゆく霧、それが口の中に味覚で描き出されていくようだった。しかも細部に至るまできめ細かく描写されているのに、それが刺とならず、全体とうまく調和している。部分それだけをとれば、皆好き勝手に歌い踊っているのに、重ね合わさると一つのハーモニーを奏でている。
 私は、埋没した。味覚に身を委ね、森の中を散策した。
 しばらくすると甘美の森はゆっくりと薄らいでいき、夕焼けの残照が消えるように、いつの間にか無くなっていた。
 舌先にブドウの皮のような丸玉のかすが残っている。上顎に押し付けるように潰してみた。中にほんの少しだけ残っていた汁が、滲み出る。
 微かな甘味が舌先で踊って、昇華した。
 陶然。
 これまでにも数多くの美味しいと評判のものを味わってきた。名の知られたシェフの料理や、あるいは新鮮な魚介類。年代物のワイン。それを口にした時には、それなりに感銘を受けた。
 しかし、そのどれもこの黒玉には比べたら、色褪せ、ただの食べ物でしかないことを思い知らされた。
 そう、黒玉は食べ物と言う範疇を凌駕していた。食べ物、それは、あくまでも私が食べるものだ。しかし、黒玉は違う。
 黒玉が口に入った瞬間、私という存在が消えてなくなる。私が何かを味わうのではない。黒玉の味が世界そのものとなり、全ては味覚の中に滅却されてしまう。味覚される物と味覚する者という彼我の二元論が超越され、味そのものだけが君臨する世界。味覚による創世記。
 躊躇うことなく、私は二つ目を口にした。
 舌の先から、暗いけれど温かい愉悦の世界に引き込まれてゆく。
 一つ目と同じようでいて、どこかが違った。同じ旋律の変奏曲というところだろうか。舌の脇で楽しそうに弾けるピチカートが加わっている。
 また一つ。もう一つ。
 新しい黒玉を口に入れる度に、新しい世界が生み出されていった。世界は幾層にも重なり合い、複雑に入り組み、舞い上がり、花開いた。
 とうとう最後の一つを食べ終わってしまった。
 時折、ほっ、ほっと沸き返るように味覚の旋律が立ち戻ってくる。けれど、それはほんの一瞬で、追いかける間も無く遠くに消え去ってしまう。その度に必死になって余韻を頼りに旋律に追いすがろうとするのだけれど、何もない闇が広がるばかりだ。
 もし、もしあの黒玉をもう一度口にできるなら、死んでもいい。
 そう思った。
 薪をくべ足して、ゴザに横になる。
 ちろちろと燃える炎を見つめながら、いつの間にか、眠りに落ちていた。

 ドン。
 何か、大きな音で目が覚めた。
 自分がどこにいるのか、思い出すのにしばらく時間がかかる。
「おい、起きんか」
 低くしわがれた声が、頭の上から降り注ぐ。
 ぼろぼろの服を着た老人がそこにいた。小柄で、白髪の混ざったぼさぼさの髪を振り乱して怒鳴っている。
「おい、起きんかと言うとるんじゃ」
 今にも蹴飛ばしかねない勢いだ。
 慌てて飛び起きる。
「おい、貴様ここで何しとるんじゃ」
「あ、ごめんなさい。勝手に入り込んだりして。実は昨夜道に迷ってしまって、、、」
 私は、一部始終を老人に説明した。もちろん、黒犬に導かれてここに来たことも。
 老人は、口をもごもごさせながら、私の説明を聞いていたが、黒犬の件を知ると、咽喉の奥からうがぁと唸り声ともつかない声を上げ、黒犬を睨みつけた。黒犬は、耳を後ろに引き、縮こまっている。
「ったく、食い意地の張った奴じゃのう。食いもんなんぞで釣られおって」
 その「食いもん」という言葉で、神棚にあった黒玉のことを思い出した。正直に言っておいた方がいいだろう。
「あの、実はですね、その、昨夜あんまりお腹が空いていたものですから、あそこに祭ってあった、黒いお菓子をいただいてしまったんですが」
「なに!」
「あ、もちろん、その、お代はちゃんとお支払いさせていただきます」
「馬鹿もんがぁ!」
 いきなり怒鳴られた。すごい剣幕だった。
「あ、だから、もう、ほんとにいくらでもお支払いしますから」
 老人はその言葉を無視して、神棚にづかづかと歩いていく。空っぽになった高坏を鷲掴みにすると、ギロリとこちらを睨んだ。
「自分が何をしたか、分かっておるのか!」
 老人のあまりもの形相に、返す言葉が出てこない。ひたすら頭を下げて謝る。
 老人は、高坏を神棚に放り投げるように戻し、肩を怒らせ荒々しい息をしている。眼を合わせるのが恐かったので、頭を垂れたまま、土間の地面ばかりを見ていた。そこに老人の足が割り込んできた。わなわなと震えている。
「おい、顔を上げんかい」
 そう言われて、恐々、老人の顔を見た。
 切りつけるような眼がそこにあった。
 いきなり、老人の右手が伸びた。
 殴られる。そう思った。
 が、額にぶつかる寸前で、手の平が大きく開かれ、そこで止まった。
「弩!」
 私の眼を掴むように、手の平がぎゅっと握り込まれる。左手を顔の前に上げ、何か呪文のようなものを唱え始めた。
「オンマクハラシマ、オンマクハラシマ、ギャーテーギャーテー、マガレ、マジコル、、、」
 五分も続いたのだろうか。それとも、もっと短かったのかも知れない。あるいは長かったのか。時間の感覚が崩れていた。
 呪文を唱え終わった老人は、私をゴザに座らせると、自らもそこに正座をして、訥々と黒玉の由来を語りだした。
 聞いていて、それはとても信じられるような代物ではなかった。ただの夢物語、あるいは狂人の戯言としか思えなかった。
「お主の食べたものじゃがな、あれは魚霊じゃ。木に木霊が、言葉に言霊があるように、魚には魚霊というものがある。魚の魂の塊じゃ。魚霊は、魚が死んだからといって、すぐに消滅するものではない。その死に方によるのじゃ。たとえばじゃ、小魚がカワセミに食われたとしよう。魚の現世の身が、鳥の血となり肉となるように、魚霊もカワセミの鳥霊に取り込まれる。なくなるのではない。魚霊と鳥霊が混ざりあい手を取りあって、更なる高みを目指して歩み出すのじゃ。そして、そのカワセミがイタチにでも捕らえられれば、魚霊、鳥霊が、イタチの魂に流れ込むのじゃ。」
 老人は、大きく、まるで溜め息のような息を吐き出した。
「じゃがな、霊に取り込まれずに死んでしまうものもおる。なに、子孫を残し、天寿を全うした奴らは何も心配いらん。円は閉じられたのじゃ。魚霊も燃え尽きるがごとくに消えてゆくわい。しかし無念も無念、死んでも死にきれん魚達もこの世の中にはたんとおる。子孫も残せん、食われもせん、無駄死にのような死に方をした魚達じゃ。おかげで成仏できん魚霊がその辺りをうろうろしておる。仕方ないから、それをわしが拾い集めてきてな、懇ろに弔ってやっておるのじゃ」
 老人は、すっと立ち上がった。それまで、小屋の隅で丸くなっていた黒犬も立ち上がり、老人の傍らに寄ってきた。老人は、黒犬の頭をなぜながら、最後の言葉を告げた。
「よいかな。お主が食ろうたのは、その魚霊じゃ。お主は、それを川に帰さねばならぬ。さもないと、魚霊がお主の霊に入り込むことになる。いや、入り込むどころでは済まぬわ。あの黒い玉は、わしが拾い集めた魚霊を固めて作ったものと申したが、ちっぽけな魚の魂、一体いくつ固め合わせればあの様な玉になると思う。十や、二十ではない。九九九九でやっと一つの玉になるのじゃ。それをお主いくつ食ろうた。わしの呪文で取りあえず固めておいたがの。心して供養するのじゃぞ」
 それだけ言うと、老人は黒犬と一緒に小屋から出て行ってしまった。
 私は、慌てて老人の後を追った。が、小屋から出てみると、そこには誰の姿もなかった。声を出して呼んでみても、返事はない。
 とりあえず杣道を下るよりなかった。程なく河原に出た。一端河原に降りてしまうと、今来た辺りは深い薮に覆われ、そこに道があるとはとても信じられなかった。
 深い疲労感に捕らわれながら、河原をよろよろと歩く。老人の言葉が頭の中を駆け巡る。
 川の風景が見覚えのあるものになり、もう少しで車というところだった。
 突然、体中の力が抜け、水辺にへたり込んでしまった。胃袋が膨張して、胸の辺りまで突き上げている。かすかな耳鳴りもする。
 咽喉が開く。頭に血が昇る。
 吐いた。
 口から黒いものがどろりと出てきた。それは、形だけは昨夜食べた黒い玉とそっくりだったけれど、ぶよぶよに膨れ上がり、ナマコほどの大きさになっている。
 それが水に落ちた瞬間、黒い被膜が粉々に砕けた。中から、無量無数の小さな光の玉が弾け飛ぶ。
 四方八方に飛び出した光は、散り散りに流れの中を走り回り、そして次第に見えなくなっていく。
 浅瀬で逃げ遅れたかのようにうろうろしていた光に手を伸ばすと、慌てて流れに消えていった。
 私は、河原に突っ伏したまま、立つこともできず、けれど不思議な高揚感に包まれていた。
 まだ、あと幾つ黒玉が体内に残っているのだろう。随分と食べたのだ。
 どうやら休みの度に川へ出かけ、魚霊送りをしなければならないようだ。
 でも幸せだった。涙が溢れた。
 帰るべき魂を、帰るべき所に帰してやる。
 その手伝いを自分ができることが、言い様もなく嬉しかった。

(初出 フライフィッシャー誌2000年1月号)

 

「釣り師の言い訳」に戻る