鳥の声で、目が覚めた。
 もうすっかり明るくなっている。天井では、まだゆるゆると扇風機の大きな羽根が回っていた。
 開け放った窓の向こうから、潮騒の音が流れ込む。
 今日も天気がいい。雲一つなく晴れ渡った空が、椰子の後ろに広がっている。とろりと流れ出しそうなほど蒼い空だ。
 ベランダに出て、海を見る。今日も風があって、波が高い。しかし島をぐるりと取り巻いたサンゴ礁のおかげで、波は岸まで届かない。遥かかなた沖で白く砕け散っている。部屋のすぐ外から砂浜になり、海までは二十メートルもないのに、波の音がうるさくないのはそのおかげだ。
 環礁の外が黒に近い深い青なのとは対照的に、内海は透き通る薄水色だ。その所々に黒く岩が散らばっている。ふと、その一つがゆっくりと動いていることに気づいた。エイだろう。
 簡単に朝食を済ませ、ロッドを持って出掛ける。ズック靴、ショーツ、Tシャツ。それに帽子とサングラス。そのままざぶざぶと海に入る。胸の辺りまで水が来るのも気にせず沖に向かって歩く。と、今度は逆に浅くなり、とうとう踝くらいの深さになる。
 リーフの外側は、まだ波が高いので、内側で遊ぶことにした。
 青味の濃さで、水深が分かる。なるべく青が深く、底に岩が沈んでいる所を探して歩く。狙いはカスミアジ。ジャイアントトレバリほどの大きさはないものの、アジの仲間だけあって、引きは凄まじい。
 偏光グラスに手を当てて、揺れ動く青の底から、何か浮かび上がらないか、じっと注視する。
 光と陰が舞い踊る中で、薄灰色の何かが、ゆっくり動いたような気がした。
 ロッドをロールさせて、ラインを前に出し、一度のバックキャストだけで、ホールと共に思いきり投げる。腰に括り付けたラインバスケットから、するするとラインが出ていく。
 クルージングしている魚を相手にするには、スピードが何よりも要求される。悠長に何度もフォールスキャストしているのでは、その間に射程範囲から泳ぎ去ってしまう。
 着水したフライがうまいこと魚の目の前を横切るように、リトリーブを始める。
 左手で大きくラインを引く。
 何度目のリトリーブだったろうか、いきなりラインが張った。
 ロッドを立てる。
 突き刺さった灰色のラインが、一直線に水面を切り裂いて横に疾走する。
 ラインを持つ指がかっと熱くなる。
 慌てて力を緩める。
 すかさず弛んだラインをリールに巻き取る。
 海の魚を相手に、素手でやり取りするなんて馬鹿げている。普段の鱒相手の釣りなら、右手の人さし指にラインをかけて張りを調整するが、そんなことをしたら火傷をするのが落ちだ。全てリール任せにする。
 魚が走る度にロッドがぐんと伸される。
 次の瞬間、リールのドラッグが堪え兼ねて、逆回転を始める。甲高い音とともにラインが吐き出されてゆく。
 ロッドがまた高く上がる。
 ゆっくり後ろに撓めたロッドを、勢いよく前に倒しながら、リールを巻く。
 そしてまた魚が走る。
 何度繰り返したろうか。
 その間中、ただ根ズレで糸が切れないことばかりを祈っていた。
 ようやく、それこそ腕も肩もだるくなって力が入らなくなった頃、やっとのことで魚を寄せることができた。立派なカスミアジだった。鮮やかな薄青がかった背に、淡い斑点が散らばっている。
 口の脇に刺さっていたフライを外して、逃がしてやる。
 しばらくそこに座って、白いサンゴの砂浜と、低い椰子の林をぼんやりと眺めていた。波の音が沖から低く響く。
 これで、今回の釣りは終わりだ。
 ホテルの部屋に戻って荷物を整理し、ベッドに横になる。もっと釣っていたい気持ちと釣るだけ釣った満足感、それに冷えたビールが混ざり合って、胸の中でじわじわと発酵を始める。
 気だるい島の午後が足先から忍び込み、いつの間にか、眠りに落ちていた。

 旅行から帰ると、ごっそりと仕事が溜まっていた。輸入代行業が俺の仕事だ。一人でやっているから気楽といえば気楽だが、何でも自分でやらなければならないので、忙しくなると目も当てられない。そして、今がそれだ。
 輸入代行業と一口に言っても、仕事の内容は色々ある。
 カタログの通信販売をしたいのだけれど、英語ができないから、その注文手続きなどをして欲しいというもの。
 日本では簡単に手に入らないもの、たとえば健康食良品を原産地から輸入するもの。厚生省がうるさいから、薬品関係の輸入にはちょっとした裏技が必要になる。
 また税関、検疫手続きだけ、俺が代わってするもの。平日に税関や検疫まで出向けない人からの依頼が多い。
 届いていたファックスが机の上から溢れ、床にまで垂れている。それを一つずつ切り離し、順番に片づけていく。
 アメリカからコンピュータの部品を三つ。
 イギリスからアンティークの家具を一揃え。
 ニュージーランドからミドリムール貝のエキスを半ダース。
 まだまだある。
 オーストラリア、フランス、ドイツ。輸入先はほぼ世界中に散らばっている。
 片端から注文のファックスとメールを送り、請求書のファイルに入れていく。
 ごっそりとあった郵便物の中に、ジャンクメールに混ざって税関から荷物が届いた知らせがあった。昼飯を食べがてら、出向くことにする。
 依頼主はお得意の柴沼さんだ。二ヶ月に一度くらいの割合で注文が入る。東南アジア系の物が多いが、今回はタイから釣り竿を四〇本ということだった。いつも俺が頼まれているのは、税関手続きだけ。その割りには貰いがいいからかなり美味しい仕事だ。
 顔見知りの税関の職員と当たり障りのない話をしながら、手続きを済ませてゆく。
「一応確認のために、中を開けさせてもらいますよ」
「どうぞ」
 木枠の蓋を取り、中を確かめる。
 あれ?
 出てきたのは、アメリカの有名メーカーのロッドだった。
 何でこんなもんがここに入ってんだ。でも、確かにタイから来ているって事は、、、。これって、ひょっとして偽ブランド品?
 が、係官は、一向に気づいていない様子だ。書類には、釣り竿としか書かれていないし、どこのメーカーのものが有名で高いかなんて知りはしない。
 あちゃぁ。
 冷や汗をかきながら、手続きを済ませ、荷物を引き取った。
 俺が自分で輸入したり、売ったりしている訳じゃないから、もしバレても俺は関係ないって言えるよな。多分。
 自分にそう言い聞かせる。
 事務所に戻って、箱を開け、中のものをもう一度じっくりと見てみた。
 湖か、海用の太いフライロッドだ。ふと、俺も同じメーカーのロッドを持っていたことを思い出し、比べてみる。
 げっ、なにこれ。まったく同じじゃん。
 ロゴマーク、ガイド、ガイドを巻きとめている糸、グリップ。何から何までそっくりそのままだ。
 二本並べてよくよく見ると、ロゴの横に書かれている型番の字体がちょっと違う。しかし、よくここまで真似したものだ。 
 試しに振ってみる。
 違いは歴然だった。偽物の方が持ち重りがして、鈍い。見てくれはなんとかなっても、アクションや重さなど、質までは真似ができないのだろう。もっとも、そこまで同じにできるなら、ちゃんとしたロッドメーカーとしてやっていけるか。
 ちょうどその時、ドアが開いて男が入ってきた。近くで釣具屋を営む野村だった。
「よ、英ちゃん、この間お願いしたロッド、来たかい?」
 野村に頼まれて、何本か、アメリカからロッドを取り寄せる手筈をしたのだ。
「あれすか。いや、まだなんすよ。あと、二、三日で入るとは思うんすけど」
「まだって、今英ちゃんが手に持ってるロッド、それじゃないの?」
「いや、これは別口なんすよ」
「そうなの?ちょっと見せてよ」
 野村はそう言うと、俺の手からロッドを取り、軽く振った。
「いいねぇ。やっぱり違うね、アクションが」
 俺は心の中で苦笑した。
「確かうちで注文した分にも、このロッド入ってたよね?」
 野村がロッドを振りながら言った。
「え、あ、うん」
「じゃ、さぁ、これ、貰ってっていいかな。いや、お客さんから催促の電話が結構来てさ。三日に一回は顔を出すお得意さんもいてさ、早く欲しいんだよ」
「いや、それはちょっと、、、」
「どうしてよ。だって、うちで注文した分もすぐ来るんでしょ?」
「そうすけど、そりゃちょっとまずいんすよ」
 まさか、そのロッドは偽物だとは言えない。それにこれはあくまでも別の客の品物だ。
「頼むよ、な。うちで注文した分全部とは言わないからさ。取りあえず五本でいいからさ」
 そう言うと、野村は俺が止めるのも聞かずに、箱に顔を突っ込んでガサガサやり始めた。
「駄目っすよ、ホント。困るんすから」
「そこを何とか頼むよ。今度、ほら、こないだ行ったスナックできっちり奢るからさ」
 カウンターで働いていた女の子の顔がふっと浮かぶ。小さな鼻が可愛い子で、確かラミちゃんとか言ったはず、、、。
「しょうがないすね、ったく。今度だけすよ、野村さん」
 野村には大きな借りがある。俺がこの商売を始めたばかりの頃、あまりにもお客がいないのを見かねて、色々と輸入の注文をしてくれたのだ。何人かお客も紹介してもらった。だからその借りを返すのだ。決して、スナックのラミちゃんに釣られたのではないと、自分に言い訳をする。
「ありがと。恩に着るよ、英ちゃん」
 野村は、箱から五本ほどロッドを取りだし、そそくさと帰っていった。
 
 野村の注文したロッドが届いたのは、その翌々日だった。俺は野村が持っていった分のロッドを抜き出し、素知らぬ顔でお得意さんの箱に移し替えた。そして柴沼さんに連絡を入れる。
「もしもし。いつもお世話になっております。輸入代行の島田です。ご注文の品物の税関手続きが終わりましたので、早速そちらにお送りさせていただきます」
 いつものように、留守電にメッセージを残しておいた。
 実を言うと、柴沼さんと直接に話したことはない。注文は必ずファックスで来る。そしてこちらからの連絡は、携帯の留守電へのメッセージだ。
 前々から、ちょっと変だなとは思っていたのだ。けれど、今回のことではっきりした。
 今までに俺が税関手続きをしたものも、結構やばい品物だったのかも知れない。偽ブランドのフライロッドなんて可愛い物で済んでいるうちに、手を切ったほうが良さそうだ。言い訳なんて、いくらでもできる。忙しいからとか何とかいい加減なことを言っておけばいい。
 それにしてもあの偽ブランドのフライロッドで、どれくらいの儲けがあると言うんだろう。たかが知れてるはずだ。でもあれか。洋服なんかより単価が高いから、それだけ利ザヤはあるか。それにしたって売れる数が知れてるからなぁ。
 どちらにしても、巻き添え食ってこっちまで警察に引っ張られるのはご免だ。
 早々に事務所を閉めて、野村の店に品物を届けに行った。
「ありがと、英ちゃん。こないだは助かったよ、ほら」
 野村の指さすほうを見ると、この間野村が持っていったロッドは一本だけしか残っていなかった。後は皆売れたらしい。
「いやとんでもない、こっちこそいつもお世話になって」
 持ちつ持たれつというところだ。
 客がいないのを幸いに、野村はこの間俺が行った釣り場の話を聞きたがった。わざわざコーヒーをいれ、カウンターの中の椅子を勧めてくれる。これじゃ、釣具屋というより喫茶店だ。
「あそこってさ、日本から直行便は飛んでんの?」
「それが、日本からもアメリカからもないんすよ。おまけに殆ど知られていないから、釣りに行く人なんて皆無。穴場っすよ、穴場」
「何が釣れんのさ」
「リーフの中でカスミアジ、外に出たら、シイラ、カマス、マグロってとこ」
「なに、それ。まるで天国じゃない」
「そうなんすよ。ただ、まだ海外から殆ど釣りに行く人がいないから、釣り船とかガイドとかあんまり設備がないんすけどね」
 そのままつい話し込んでしまって、ふと気がつくと閉店時間を回っていた。
「英ちゃん、今日、いいだろ。もう店閉めっから、あそこで話の続きをしようよ。約束通り、おごるからさ」
 野村は、さっさとレジを閉め、シャッターを下ろしてしまった。
 その晩、どこをどうやって家まで辿り着いたのか、全く覚えていない。心密かに会えるのを楽しみにしていたラミちゃんはお休みで、替わりの女の子がカウンターに入っていた。その子は、知り合いなのか別の客とばかり話し込んで、一向に俺達の世話をしてくれない。優しいラミちゃんとはえらい違いだ。
 心満たされない俺達は、「これじゃだめだよな、もう一軒行こう、もう一軒」と、やっているうちに泥酔してしまったのだ。
 翌朝、一度は八時前に目を覚ましたものの、とてもベッドから出れる状態じゃなかった。これが会社勤めなら、躊躇なく適当なことを言って休んでしまうところだ。しかし、自営業では、休んだ分だけ収入が減る。何としても働かなければならない。それで、ぐらぐら揺れる世界と、海外旅行で底をついた貯金を天秤にかけ、もう一時間だけ眠ってから、仕事に出掛けることにした。
 ようやく事務所に着いたのは昼前だった。まだふらふらしている。ドアにキーを差し込んで、鍵が掛かっていないことに気づいた。
 あれ、昨日閉め忘れたんだろうか。不用心な。
 ドアを開ける。
 と、中に男がいた。
 あっと思うのと同時に、突然後ろから襲われた。もう一人いたらしい。入り口の脇に隠れていたのだろう。
 ドアがものすごい音をたてて閉まる。
 首を後ろから腕でからめ捕られ、息ができない。振りほどこうと腕をつかむが引きはがせない。もがいても暴れてもびくともしない。
 強靱な力が俺を押さえ込んでいる。
 ふっと、首に掛かっていた力が緩む。
 息がどっと肺に流れる。
 咽がかき切れるほど咳き込んだ。あまりにひどい咳に胃の中の物まで出てしまいそうになる。
 首を捕らえていた力がまた強くなった。が、今度は息をできないほどではない。
 目の前に、銀色に鈍く光るナイフが現れた。男は、左腕で俺の首をからめ捕り、右手にはナイフを持っている。ちょっとでも変なことをしたら、容赦はしない。そういうことらしい。
 事務所の中は、全てがぶちまけられていた。引き出しは皆抜き出され、ひっくり返って、床に転がっている。キャビネットも倒れている。書類が散乱し、コップが割れ、カレンダーが剥がされていた。
 その中で、パンチパーマにクリーム色の背広を着た男が、俺の仕事用の椅子に腰掛け、黙ってじっと見ていた。俺より一回りくらい年上だろうか。細い銀縁の眼鏡をかけ、その向こうにやはり細いけれど鋭い眼が微動だにしない。
 男が口を開いた。
「島田さん。困るじゃない。こういうことされちゃ」
 俺はなんのことか分からずに、何も答えられずにいる。
「どこに隠したのさ」
「い、いや、なんのことか」
 咽を締め上げられ、それだけ言うのが精一杯だった。
「しらばっくれんじゃねぇよ」
 男は、足元にあった段ボール箱を蹴飛ばした。
 横倒しになった箱の中から、がらがらと細長いものが沢山転がり出た。
 見ると、それは短く切り刻まれたフライロッドだった。俺が柴沼さんに送ったものだ。
「部屋中探さしてもらったけど、どこにもありゃしねぇ。一体どこに持ってったのさ。ありゃ手前みたいな素人が扱えるものじゃねぇんだよ」
 そうか、あの偽ブランド品のことか。
「いや、違うんす、違うんす。盗ったなんてそんな」
「だったら、どうしてこんなもん俺の所に送ってきやがった」
 芝沼はフライロッドの切り端を踏みつけたかと思うと、いきなり机の上にあったキーボードを床に叩き付けた。キーがあちこちに飛び散る。柴沼は表情一つ変えず、俺を睨みつけたまま、今度はゆっくりとコンピュータに手を伸ばす。そして押しやるように机から落とした。派手な音をたてて、スクリーンが炸裂する。
「説明してもらおうじゃないか」
「あ、あれはですね、、、」
 俺は、しどろもどろになりながらも、一部始終を話した。
 話しながら、俺はもう駄目なんだろうか、殺されるのだろうか、野村も一緒に殺られちまうのだろうかと、様々な考えが意識の端を掠め飛んだ。
 話を聞き終わった柴沼は、唇を歪ませた。
「な、島田さんよ。これが普通の品物だったら、金でカタが着く。けれど、ありゃそんなもんじゃないんだ。お前さんに払えったって、払えるような額じゃないんだよ。どうやってもいいから、あれを取り返して持ってこい。でなきゃ、ちょっと厄介なことになるぜ、島田さん」
 俺は頷きながら、聞くしかなかった。
 柴沼が、つっと立ち上がり、俺の方に歩いてきた。ひと足ごとに、フライロッドの切り端やコップの破片が足の下で砕ける音がする。
 柴沼は俺の真ん前に立つと、背広の内側に手を入れた。
 俺の眼を睨みつけたまま、手を引き抜く。黒くごつい拳銃が握られている。トカレフだ。
 ゆっくりと腕を上げ、銃口を俺の眉間に向けた。
 銃口の溝が見える。
 柴沼が撃鉄を起こした。
「さよならだ」
 柴沼の人さし指をゆっくり曲げ、引き金にかけた。
 そのまま止まることなく、指が曲がってゆく。
 撃鉄が落ちる。
 思わず目をつぶった。
 カチリ、という音が脳天を駆け抜けた。
「この次は空じゃないぜ、島田さん」
 柴沼がトカレフを持ち上げる。マガジンが入っていなかった。
「じゃ、待ってるぜ」
 柴沼が出ていくのと同時に、俺の首を押さえていた力が消えた。そして、鳩尾に一発食らった。
 息ができない。床に転がって、悶え苦しむ。
 ようやく息ができるようになってからも、起き上がる気力はなかった。そのまま、床に倒れたまま、天井を見ている。
 股間が生温かい。どうやら、失禁したらしい。
 一体、俺は何に巻き込まれてしまったんだ。
 あの偽ブランドロッドに何が隠されていたんだ。
 覚醒剤。
 まず最初に頭に浮かんだのはそれだ。しかし、ロッドの中に隠せる量なんて僅かなものだ。二〇グラムか、三〇グラムだろう。ロッド五本分合わせたところで、どう多く見積もっても二〇〇グラムを越えはしない。末端価格はグラム三万円程度だから、たかが六〇〇万円。もちろん簡単に払える額ではないが、払えないものでもない。
 大体覚醒剤なら、漁船かなんかを使って、キロ単位で持ち込んでくるはずだ。こんなチンケな量を持ってきても商売にはならない。
 コカインにしたって、エクスタシーにしたって、似たような物だ。
 LSDだって、プリントした紙を丸めて入れても、一枚が精々だろう。そんな割の悪いことをするはずがない。
 だとしたら、一体、、、。
 バカヤロ、何をやってんだよ。中に何があるかなんて、どうでもいいじゃないか。今はここでそんな詮索をしている場合か。それよりも早くロッドを取り戻さないといけないんだろうが。
 あまりの事で動転してしまっていた頭を何とか回転させる。
 トイレに行き、汚してしまった服を着替えた。
 そのまま、走るようにして野村の店に行った。
 幸いなことにまだ売れ残っている。引ったくるようにしてロッドをラックから外した。
 適当なことを言って、野村から誰が残りのロッドを買ったのかも聞き出した。
 一本は、そのロッドを注文した客で、名前も住所もすぐに分かった。
 一本は、クレジットカードで支払われたから、名前だけは分かった。早速電話帳で調べて、住所を割り出す。
 すぐさま出かけていき、ロッドを取り返した。怪訝な顔をされたが、そんなことは知ったことか。奇人でも変人でも何とでも思え。
 だが、問題は、後の二本だった。
 どちらもごくたまに店に顔を出す客で、名前も住所も知らないらしい。
 分かっているのは、ロッドがロッドだけに、湖か海でのフライフィッシングをやっているだろうということぐらいだ。
 そんな訳で、俺は、以来毎日のように湖や海へ出掛けては釣り人の姿を血眼で追っている。
 あのブランドのロッドを持っている釣り人がいれば、それとなく近づいて話しかけ、ロッドを振らさせてもらっている。
 しかし、今のところ、皆持っているのは本物ばかり。あの偽ブランド品には当たっていない。
 何としても、本当にどんなことがあっても見つけださなければならないのだ。
 柴沼からは直接は何も言ってこない。
 けれど、やたら目つきの鋭く冷たい奴らが、いつも俺の周りに見え隠れするようになった。
 逃げられはしないのだ。
 それにしても、もし、とんでもない魚がかかって、あのロッドが折れたりしたら、、、。
 そう思うと、気が狂いそうだ。

(初出 フライフィッシャー誌1998年12月号)

 

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