高速を走る。
 気持ち良くクルーズしているとは、とても言い難かった。几帳面に制限速度を守って走っているトラックが一台、その後に五、六台も乗用車が連なっている。まるで幼稚園の先生とその後をお行儀よく歩いている園児みたいだ。
 追い越し車線はがら空きだ。アクセルを踏み込んで、とろい車の群れをごっそりごぼう抜きにしたい欲望に駈られる。
 ステアリングのシフトボタンに親指が延びる。
 ひとつギアをシフトダウンして、アクセル。ターボを効かせて、一息に回転を上げ、、、。
 そこまで考えて、止めておく。
 もう点数がないのだ。今度捕まったら、良くて免停、下手をすれば免取りを食らう。そうなったら、この一番美味しい時期に釣りに行けなくなってしまう。
 釣りに行けない釣り師は、ドブに落ちた猫より情けない。悶々とした気持ちで内側から張り裂けそうなのに、誰も同情してくれないのだ。よほど真っ黒なヘドロを被って、道端で泣いている方がましだ。それならば、まだどこかの心優しい女の子が抱き上げてくれるかもしれない。
 いらいらする気持ちを紛らわすために、CDを入れ、ボリュームを上げる。サブウーハーが腹の下に響く。
 今朝の釣りは、悪くなかった。いや中々面白かった。午後から仕事があるので、朝マズメだけしか竿を出せなかったけれど、それでも充分に楽しめた。
 薄暗い中にぼんやりと湖面が見えてこようかという頃、小さな小さな、本当に跨げるほどの流れ込みで、派手なボイルが続いて起こった。いいサイズのブラックバスが、多分ニジマスの子供か、ワカサギか、とにかく小魚を追って浅瀬で荒食いをしていたのだ。足音を立てぬよう、姿勢を低くしてそっと近づいた。フライは、もう結んである。柔らかく艶めかしくうねる灰色のマラブーの羽が尻尾に付いている。胴には灰色の毛糸を中が透けて見えるように疎らに巻いてみた。水に入れれば、ゆらゆらと泳ぐ小魚に化ける。
 ボイルの少し向こうに投げ、水がなじむのを待つ。
 竿先と左手を小刻みに動かして、気持ち良さそうに朝食のプランクトンを飲み込んでいる小魚を創り出す。
 ツ、ツ、ツ、ツ。
 ツ、ツ、ツ。
 と、フライラインの先、三メートルほどの所で、水面がモワリと盛り上がった。
 きたっ。
 竿を立てるのと同時に、でかい口を開けたバスが水面から飛び出す。
 派手な水音を立てて湖水に戻りざま、いきなり沖に逃げた。足下に溜まっていたラインが、するすると出ていく。あまりの勢いのよさにラインが大きく宙に踊る。
 やばい。
 一瞬、そう思った。危惧した通り、くるりとリールに回って絡みついた。
 でぇ、くそっ。
 慌てて、ラインをほどこうとする。が、ブラックバスはまるで何が起こっているのか判っているかのように、もう一走りする。竿があっけなくのされてしまう。
 あ。
 急に力が感じられなくなり、ラインが垂れた。
 ちっくしょお。
 リールに絡み付いたラインを解き、たぐり寄せる。なんの抵抗もない。糸の先には、魚はおろか、フライすら付いていない。切られてしまったのだ。フライボックスから、また同じフライを出して結ぶ。結び目に唾を付け、きつく締める。
 今度こそ、な。
 ボイルの間隔はもう大分間遠になっている。これを逃したら、今日のチャンスは終わりだろう。
 先程と同じように、波紋の先に投げ、ひと呼吸おく。
 美味しいんだぜ、美味しいんだぜ。
 そう心の中で呟きながら、ラインをたぐる。
 二メートルも行かないうちに、ぐわりと水面が渦を巻いた。ズンとラインが重くなる。竿が根元から曲がり、派手な水しぶきが上がる。
 ニジマスが空中ブランコで舞う砲弾なら、ブラックバスはロデオに乗った炸裂弾だ。弾け飛び、引っかき回し、爆発する。それも江戸っ子みたいに潔い。岩魚やブラウンと違って、ぬらくらと逃げ続けたりしない。自分の持てる力の全てを初戦から出し切り、そして果てる。
 ひとしきり暴れまくった後で、ブラックバスは丸いお腹を横にさらし、岸に寄ってきた。
 下顎を掴んで、鉤を外してやる。
 水に戻しても、すぐには逃げていかず、まるで肩で息をしているかのように、鰓をぱたぱた動かしている。
 すっかり明るくなってしまった湖畔で、しばらくバスを見ていた。
 たったの二尾。しかも一尾はばらしている。しかしとても充実した釣りだった。忙しい中を盗むようにしてまで来て、良かったと思う。数でも大きさでもないのだ。自分でもよく分からないけれど、それ以外の何かが、心のへこみを埋めてくれる釣り。そんな釣りができた時ほど嬉しいことはない。
 あの瞬間のこと、ブラックバスがフライに出た瞬間のことを反芻していると、幼稚園の遠足のような高速の行列も、それほど苦痛ではなくなった。
 街に着いたのは、十時少し前だった。
 家に一端戻って、飯を食ってから出かけると、ちょうどいい時間だ。細い道を鼻先をこするようにして曲がってゆく。
 もうあとちょっとで自宅という所だった。
 突然、後ろから殴られた、様な気がした。
 景色が一瞬歪み、跳んだ。
 思わずブレーキを踏む。
 が、見回してみても何事もない。もちろん体のどこにも異常は感じられなかった。
 変だな。
 最近ちょっと仕事が忙しくて、睡眠時間が足りなかったから、ストレスでも溜まっているのだろうか。気をつけよう。俺も、もう四十だし、そうそう無理のきく歳でもない。今度ゆっくり休みを取ろう。
 昼飯は、ラーメンか何かで簡単に済ませるつもりだったのを、しっかりと食べることにした。
 事務所に着き、仕事を始める。クライアントの急な心変わりで、一度図面まで描いた家を、もう一度設計し直さなければならないのだ。こんなに狭い空間にこれだけのものを押し込んでおいて、広々と使いたいなんて、とぶつぶつ言いながら、線を引き、アイデアを練る。
 デッドスペースをうまく活かして、どうにか形が見えてきた頃に、電話が鳴った。親父だった。
「おい、浩。進がな、、」
「進がどうしたのさ」
「死んだよ、、、」
 そんな馬鹿な。俺は信じられなかった。
 進は俺の兄だ。兄と言っても、俺とたったの数時間しか違わない。進と俺は、一卵性双生児なのだ。
 遺伝子が全く一緒だから、当然顔つき、体つきは似ている。それだけではない。同じ飯を食い、同じ空気を吸ってきた。同志というより、分身に近い感覚があった。好みも似ていた。ワインなら赤、紅茶はアールグレイ、釣りはフライフィッシングといった具合だ。もっとも細部ではそれぞれの個性が出る。進は渓流の岩魚釣りを好んだし、俺は湖のブラックバスに走った。
「釣りに行ってさ、足を滑らせたかなんかで、溺れたらしいんだ」
「進が溺れた?」
「ああ、警察の話じゃ、どこかに頭でもぶつけたのかもしれないと言ってた」
 あの泳ぎの得意な進が溺れるはずがない。俺は、慌てて事務所を出ると、警察に向かった。
 警察の説明は簡単だった。今日午後五時頃に、釣り人が死体を発見した。深い淵の岩の陰に、水没していた。頭部に外傷があるものの、争った形跡や盗られた物もなく、不審な点は何もない。頭部の外傷は、足を滑らせて転んだか、高巻きをしようとして落ちた時にぶつけたものだろう。肺に水があったことから、死因は溺死。多分、頭を打って気を失ったまま、流れに飲まれたものと思われる。死斑、死後硬直、角膜の混濁などから、死亡推定時刻は、午前九時から十二時の間。死体発見場所からさほど遠くないところに、進の車が止められていた。以上の状況から単なる事故死として片づけられた。
 地下室に降り、進に会う。
 覆いを取り、進の顔を見た瞬間、一瞬、音が遠のいた。なぜか昼間の、頭への衝撃が思い出された。
 係官が、進と俺の顔を見比べ、ぎくりとした表情を見せた。
「双子なんです」
 そう言っている自分の声が、薄ぺらな重さのないものに聞こえる。
 自分の死体を見ているような妙な離脱間に包まれながら、俺はその時、確信した。進は事故死じゃない。殺されたんだ。なぜ、そう確信するのか自分でもよく分からない。でも、確かにそうなのだ。
 俺は、礼を言って警察を出た。よほど俺の確信を告げようかと思った。けれど、警察は何か証拠でも突きつけないかぎり動こうとはしない。そして俺にはなんの証拠もなかった。ただあるのは確信だけ。思い込みと笑われるのが落ちだ。自分で進を殺した奴を探し出すよりない。
 葬式が済みしばらくしてから、遺留品が帰ってきた。その一つ一つを調べてゆく。
 その中に進がいつも釣りに行く時に持っていくデジタルカメラがあった。もちろん水没して壊れていた。メモリーカードを取り出そうと蓋を開けたら、中から水が零れだした。カメラは駄目でも、取った写真がカードに入っているはずだ。ティッシュで丁寧にカードの水気を拭いて、タッパーに入れる。その上から、シリカゲルの脱水剤をざらざらと一杯になるまで入れて蓋をし、暖かい所に置く。知り合いのカメラマンから教えてもらった水没カメラの蘇生法だ。これで三、四日すれば水分が完全に飛ぶはずだ。
 釣りベストのポケットに入っているものも全部出してみる。フライボックスが三つ、フロータント、メジャー、ティペット、フォーセップス。どれも進のものばかりだ。どこと言っておかしいところはない。
 もう一度、よく確かめてみる。
 ふと、ベストの背中に小さなフライが刺さっているのに気づいた。
 十八番ほどの大きさのパラシュートだった。キャスト中に風でも吹いて背中に引っかけたのだろうか。よく見ようとして抜こうとするが、鉤のカエシが引っ掛かってうまく取れない。
 カエシぐらい潰しておけよな。
 そう思って、はっとした。
 そんなはずはない。進が自分の鉤のカエシを潰さないはずがない。いつも自慢するがごとくに言っていたのだ。俺は全部カエシを潰したバーブレスしか使わないんだって。
 これは進のフライじゃない。じゃ誰のだ。
 進は細かいことに気を使う奴で、毎回ベストの中身を確かめ、手入れも釣りから帰る度にしていた。もし背中にフライでも刺さっていたなら、真っ先に抜くはずだ。となると、これは最後の釣り、つまり進が死ぬ直前に刺さったことになる。あの日、進と一緒に釣りをしていたと名乗り出た人間はいない。犯人とまでは言わないまでも、何か隠したいことがあるに違いない。まずは、そいつを探しだすことだ。
 俺は、布地をカーターナイフで解し、フライを傷つけないように、そっと外した。フィルムの空き箱に入れ、引き出しにしまう。
 数日後、タッパーからメモリーカードを出し、俺のカメラに入れてみる。大丈夫だ。使える。早速、再生してみるが、何も写っていない。手がかりにも何にもならない。
 となると残っているのは、この小さなフライだけだった。思い悩んだ末、ふと雑誌で見た筆跡鑑定を思い出した。筆遣い、書いた時の癖から人間を同定できるなら、同様にフライの巻き方、材料の使い方でそれを作った人間が分かるんじゃないだろうか。
 電話帳で探し、片端から電話をしてみた。筆跡鑑定には、資格はいらない。誰でもできる。ほとんどの場合、私立探偵が副業でやっているか、警察の鑑識課を退職したものが小遣い稼ぎにやっている。電話で事情を話すと、皆一様に苦笑し、ひどい場合はいきなり電話を切られた。それでもあきらめずに当たってゆく。今の俺には、これしか手がかりがないのだ。
「はぁはぁ、なるほど。それで、そのフライでしたか、その釣り道具を誰が作ったか調べたいと、、」
「はい、そうです」
「うちじゃぁ、ちょっとね。あ、でも、待てよ。あいつならできるかな。いや、筆跡鑑定をしているんだけど、本業そっちのけで釣りばっかりしている奴がいてね、そいつなら何とかなるかも、、、」
 紹介してもらった事務所に電話をすると、もそもそとしゃべる男が出た。
「筆跡じゃなくて、フライ、ですか、、、。多分、できる、と思いますが、、、。それにはそのフライと、それと比べるフライを、用意していただかないことには、、、。それなら、同一人物が、巻いたものかどうか、判定できるのではないかと、、、」
 俺は、進の知り合いの釣り人からフライを集めることにした。別に誰を疑ってのことではない。とりあえずできるところからということだけだ。進がよく通った釣具屋に行き、手向けの花代わりに皆からフライを一つずつ貰いたいと告げた。店主は快く承知してくれ、進と一緒に釣りをしたことがある人に連絡を取ってくれた。
 数日後には二十あまりのフライが集まった。それを持って、鑑定屋の事務所を訪れた。男は、フライを一つずつ手に取っては矯めつ眇めつしながら、ぼそりと金額を口にした。決して安い料金ではなかったが、やむを得ない。了承した。
 翌日男から電話があリ、事務所に出向いた。
「九割九分、間違いなく、このフライを巻いたのは、これを巻いたのと、同じ人物でないかと、、、」
 そう言って、男は二つのフライを差し出した。一つは例のパラシュート、もう一つはハンピーだった。フライを集めた時に、巻いた人間のリストは作ってある。それと照合すれば、すぐにそれが誰だかわかる。
 重松という男だった。早速会うことにした。
 待ち合わせの喫茶店に現れたのは、俺より一回り年上の、風采の上がらない男だった。
べたりとなで付けた髪に、のっぺりとした顔。縁なしの眼鏡の底には、爬虫類のようなよどんだ眼があった。
 当たり障りのない話から始め、色々と聞き出していく。あの日、どこにいて、何をしていたのか。
「あの日は、釣りに行ってましたわ。夜明けからやったんだけど、釣れなくってね。早上がりしましたわ。そうそう、十一時ちょっと前にはもうコンビニのある所まで戻ってきてましたっけ」
 そう言って、コンビニの店名を口にした。
 翌日コンビニに行って訊ねると、確かにその時間に重松はそこで買い物をしていた。弁当を暖める時にやたら細かい注文を付けたので、店員が覚えていたのだ。
 そのコンビニから、進が見つかった川までは、どんなに飛ばしても三時間はかかる。進の死亡推定時刻には間に合わない。殺しの前でも後でもだ。
 となると、別人か。
 筆跡鑑定でさえ間違えることがあるのだから、フライ鑑定など当てにならないのも無理はない。
 振り出しに戻った。
 雲をつかむような話。どこから取り掛かっていいのか、糸口すら見えない。酒でも飲まずにはいられなかった。酒屋で、缶ビールとラムを買い込み、そのまま事務所に行く。
 誰もいない暗い事務所で、缶ビールを飲む。照明代わりにコンピュータのスイッチを入れる。赤や黄色の派手な色の魚達が、スクリーンを行ったり来たりしている。
 どれくらい飲んだのだろうか。自分でもよく覚えていない。目を覚ますと、すっかり明るくなっていた。九時前ちょっと前だった。ラムのボトルがすっかり空になっている。頭が重い。
 起き上がると事務所の中はまるで竜巻が通り抜けたように散らかっていた。ごみ箱が転がり、机の上に引き出しの中身が空けられている。
 昨夜、酔っぱらって暴れたのを、朧げながら思い出した。
 四十にもなって、馬鹿なことをやってるよな。
 吐きそうになりながら、一つずつ片づけてゆく。
 付きっぱなしになっていたコンピュータを切ろうとして、はっと思い出した。暴れる直前に、確か、俺はとんでもないことをやったような、、、。
 マウスをクリックして、愕然とした。
 何もない。
 仕事の図面から、会計の数字から、なにもかも全部消えてしまっている。
 すっと血の気が引いた。流しによろめきながら行き、吐いた。
 あの中には、来週提出しなければならないものも入っている。もし、もう一度作り直すとしたら、最低でも三週間はかかる。
 くらくらする頭を抱え、ソファに倒れ込んだ。
「おはようございます」
 男の声で目が覚めた。いつの間にか眠っていたらしい。石川だった。
「あ、浩さん、なんすか、こんなところで寝て。あ、わかった。また飲み過ぎたんでしょ」
 石川は、俺の事務所で働いてもう長い。俺のこんな姿を見るのには慣れている。
「石川さぁ、俺、とんでもねぇ事しちまったみたい」
 石川は俺の話を聞いて笑いだした。
「笑ってる場合じゃねぇよ、このくそったれ」
「いや、浩さんらしいと思ってね。でもそれ、どうにかなるかもしれないっすよ」
 石川はそう言うと、コンピュータに向かった。どこに入っていたのか、俺が見たこともないソフトを走らせている。
「大丈夫っすよ」
 あっけなかった。
「大丈夫って、お前」
「ええ、全部戻ってきました」
 見れば確かに書類も何もかも元通りにある。手品のようだった。
「ファイルを消すって言っても、実際に消してしまうんじゃなくて、その上から書いてもいいって言う風に信号を変えるだけなんすよ。だからその信号をまた戻してやればいいんす」
 それを聞いてはっとした。それなら、あのデジカメのメモリーカードも同じだろうか。
「そのはずですよ。うちじゃちょっと無理だけど、ここなら、、」
 慌てて流しで水を二杯飲み、石川が教えてくれた会社に行く。データサルベージの看板が出ていた。
「すみません、この中に写真が入っているはずなんですが、、」
 応対に出た男は、カメラの機種を訊ね、カードを機械に接続した。
「えーとだいぶ沢山入ってますが、全部ですか?」
「はいお願いします」
 これもあっという間だった。ものの三十分もかからなかった。事務所に帰り着くのも待ち遠しく、画像をコンピュータに読み込む。
 魚の写真ばかりが、数十枚あるだけだった。
 進らしいな。景色も何もない。
 覗き込んでいた石川がつぶやいた。
「あれ? この魚。他のと違って、模様がないですね」
 そこに写っていたのは、四十センチほどの岩魚だった。確かに言われてみれば、のっぺりとしている。姿形は、他の岩魚そっくりなのに、岩魚特有の背中の模様がないおかげで、ぬるりとした印象を受ける。
 進が死んだ日に撮られたものを見ていくと、他にも数枚同じような魚がいる。図鑑で調べてみると、無斑岩魚というらしい。稀にしか見つからないと書いてある。
 ふと気になって、釣具屋のおやじに電話してみた。
「無斑岩魚?いや、話は聞くけど、実物は見たことないですね。確か、うちのお客で釣ったって噂のある人はいるけど、口が堅くてね、いくら聞いても教えてくれないんですよ」
 その客の名前を訊ねた。
「重松さんです。何でもあの人、無斑岩魚に入れ込んでいて、そればっかり追いかけてるみたいなんですけどね」
 あの重松だろうか。
「ええ、その人ですよ」
 試しに、進が見つかった川に無斑岩魚がいる可能性があるかどうか聞いてみた。
「うーん、ないでしょうね。あの川は、すぐ上に大きな堰堤があって魚の自然産卵はないですから。あの川で釣れるのは、放流もんの山女魚ばっかりですよ」
 進が見つかった辺りでは、無斑岩魚がおろか、普通の岩魚すらいない。
 となると、進はこの写真をどこで撮ったのか。写真の日付から、最後の無斑岩魚の写真は、明らかにあの日のものだ。岩魚の好きな進が、無斑岩魚を釣った後で、わざわざ山女魚しかいない川に出かけるだろうか。そんなはずはない。
 そうか。
 進が死んだのは、あの川ではないのだ。どこか別の場所で、殺され、死体をあそこに捨てられたのだ。
 進が死んだ場所、それは無斑岩魚のポイントだ。
 あちこち釣り歩くうちに、偶然無斑岩魚の、しかも型のいいのが釣れる場所を見つけたのだ。そして、そこは重松のポイントでもあったのだ。
 あのベストに刺さっていたフライは、やはり重松のものなのだ。
 多分、自分が秘密にしていたポイントで、次から次へと無斑岩魚を釣る進を目の当たりにして、かっとなった重松は、、、。
 いや、進を殺したのは重松ではないかもしれない。あるいは警察が言うように事故死かもしれない。しかし、いずれにせよ、重松は、無斑岩魚のポイントがばれるのを恐れ、進の死体をわざわざ関係のない所まで運んで捨てたのだ。
 それだけでも許せなかった。
 まずは、進の死んだ場所を探しだすこと。そうすれば、重松のアリバイは崩れる。証拠を揃えて出せば、警察も動き出すだろう。
 そのためには何としても無斑岩魚のポイントを見つけなければならない。
 しかし、それだけでは気持ちが収まりそうにない。何としても重松に復讐したかった。
 よし、もし見つけたら、重松の何よりも恐れていたことをしてやる。
 そのポイントを、釣り雑誌、釣り番組、インターネットを通じて、ばらしてやるのだ。進の死をもってしてまで隠そうとしたそのポイントを暴いてやるのだ。
 俺は、今、進の巻いた沢山のフライを持って、あちこちの渓流に入っている。
 薮沢だろうが、水無し沢だろうが、一本一本全ての川をしらみつぶしに釣ってやる。
 無斑岩魚のポイントを見つけるまでは。
 そしてそれを公表するまでは。

(初出 フライフィッシャー誌1999年11月号)

 

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