僕が彼女に初めて会ったのは、半年ほど前のことだ。街から山あいに向かってしばらく走ったところを流れている、小さな川だった。 その日は天気のよい週末だったので、釣り人の数も多く、ここと思われるポイントには、必ず竿が何本か並んでいた。 人が多すぎるせいか魚の機嫌は今一つで、ライズは全く見当たらなかった。それでも、ニンフやストリーマーには出るらしく、しばらく見ているとまぁまぁの型の魚がポツポツと釣れ上がっているようだった。 僕は、魚を釣りたいのは勿論だけれど、それよりもライズを釣りたかったので、岸沿いの草むらに腰を降ろして、ライズを待つことにした。ポケットから煙草を出して、口にくわえる。寝転がって、火をつける。煙がゆっくりと青い空に消えてゆく。 煙草の美味しさは、煙の行方を眼で追うことにある。誰かがそんなことを言っていたけれど、確かに屋外で吸う煙草は、煙がすぐに消えてしまう分、部屋の中よりちょっと味が落ちるかもしれない。 そんなことをぼんやりと考えている時だった。がさごそと草を掻き分ける音がしたかと思うと、突然女の子が目の前に現れた。ショートヘアの下から、ピアスを付けた耳が覗いている。二〇歳くらいだろう。ジーパンに白いシャツを着て、その上にオレンジ色のジャケットを羽織っている。彼女は、そのまま僕の横に立つと、仰向けに寝ころんでいる僕を覗き込んだ。 「うーん、これなら、大丈夫よね」 僕は、どういう状況か全くわからなかったけれど、取りあえず挨拶した方がいいかなと思った。彼女は、結構可愛いかったのだ。 「えーと、こんにちは、かな」 彼女は、僕の挨拶に応えるかわりに、僕の横に膝をついて座った。一瞬間を置いてから、口を開いた。口の中でちょこちょこと柔らかく動く、ピンク色の舌がとても素敵だった。 「ライズ、買わない?」 僕は、彼女が何を言っているのかわからなかった。舌に見とれていたからかもしれない。それで、聞き直した。 「え、なに?」 「ライズ、買わない?」 今度は彼女の言っている言葉は全部聞き取れたけれど、それが文章として何を意味するのかわからなかった。 「え?」 「ねぇ。たったの二つの単語しか言ってないのよ。難しい構文もないし、専門用語もない。ライズ。買わない?ね、わかる?どう、買う?」 「ライズって、あの、ライズのこと」 「他にどんなライズがあるの」 彼女は、ふうと溜め息をついて、あたりを見回した。 「あなたなら大丈夫と思ったんだけど、外しちゃったかなぁ。また、おじいちゃんに怒られる」 「えーっと、ごめん。まだ、よく分からないんだけど、ライズを売ってくれるの?」 「だ、か、らぁ、さっきからそう言ってるんじゃない」 僕は、上半身を起こして、彼女の顔をまじまじと見た。一体、どうしたら、ライズを売れるっていうんだろう。あるいは、彼女の言っているライズと、僕の考えているライズとは、全く違うものなのかもしれない。パーティなんかで、たまに回ってくる新しいドラッグの名前だろうか。 「ハイになれるライズ」 あっても不思議じゃない。いかにもありそうな名前だ。でも、もしドラッグだとしたら、ちょっと売る場所を間違えている様な気がする。そりゃ魚が釣れなくて落ち込んでいる釣り人が、嫌なことを忘れたくて買うこともあるかもしれない。でも、それは、富士山の頂上で哲学辞典が売れるくらいの確率でしかないと思う。それとも僕が知らないだけで、最近は富士山のてっぺんで、存在することの意味について考えるのが流行っているのだろうか。もしそうなら、釣り場でドラッグを売っていても不思議じゃない。 「ねぇ、どうするの?買うの、買わないの?」 「う、うん。あ、そのライズって、いくらするの」 彼女は、すぐには僕の問いに答えなかった。しばらく僕の顔を見ていたかと思うと、腕組みをした。 「そうねぇ。あなたなら、二万円ってところかな。それくらいなら出せるでしょ」 確かに給料日直後で、懐は暖かった。払えない額じゃなかった。だからといって、軽々と出せる金額でもない。散々考えた揚げ句に、話の種に買ってみることにした。たとえそのライズがどういうものであれ、面白半分に買ってみよう。そう思ったのだ。後で釣り友達と、僕の馬鹿さ加減を笑いながら酒を飲む時の、いいつまみになるだろう。それに、何度も言うようだけれど、彼女は結構可愛かったのだ。可愛い女の子に話を持ちかけられて、無碍に断るのは、かなりの勇気がいる。僕にはそんな強い意志はない。これが怪しげな男の申し出だったら、躊躇することなく断っていたはずだ。 「うん、じゃ、そのライズを買うことにするよ」 彼女は、嬉しそうに、にっこりと微笑んだ。それを見ただけで、まるでなにかとても良いことをしたような気になれる、そういう笑顔だった。 「じゃ、こっちに来て。ここじゃ、他に人がいて見られてしまうから」 そう言うと彼女は、草むらの中を先に立ってずんずんと一人で歩き出した。 僕は、慌てて竿を掴むと彼女の後を追いかけた。彼女の後ろを歩きながら、段々と後悔の気持ちが湧いてきた。ライズがドラッグとは限らない。人目を避けようとするなんて、ひょっとして、この辺の子達は、援助交際のことをライズと呼んでいるんじゃないだろうか。もしそうなら、どうやって断ろうか。ここまで来て、彼女の気持ちも僕の自尊心も傷つけることなく、にっこり手を振ってさようならを言うなんて、不可能な相談だ。いつもながら、好奇心に駆られてつい馬鹿なことに巻き込まれてしまう自分の軽率さが恨めしかった。 彼女はそんな僕のためらいには一向にかまう様子もなく、小暗い薮の中に入って行った。いよいよこれは、このまま踵をかえして逃げ出したほうがいいんじゃないか。そう考えていると、急に彼女が振り返った。 「この先なら、ちょうどいいはずよ」 そう言って、また、にっこりと笑った。 その笑顔を見て、なんだか逃げられなくなってしまった。 困ったな、どうしようか。 ええい。ごめんなさい、そう謝って帰ろう。 そう決めたのとほぼ同時に、僕達は薮からぽんと抜けだしていた。流れのほとりだった。上流にも下流にも木が大きく迫り出し、そこだけぽっかり穴が空いたように空間が広がっている。その下を、速い流れが浅瀬となって波立っている。さして魚が居そうにも見えないので、誰も見向きもしない小さな何の変哲もないポイントだった。 彼女は、流れの脇に立つと手で合図をした。 「うん、その辺に居てね」 彼女は、僕からちょっと離れた草むらに跪くと、一心に流れを見つめだした。 何が何だか分からないまま、彼女の熱心さにつられて、僕も思わず流れに目を向ける。どうやら、ライズは、ドラッグでも援助交際でもないらしい。ちょっと安心したような、がっかりしたような気分になる。 ふと気づくと、草むらに座った彼女の身体が前後にゆっくりと揺れていた。時折右に左にぶれながらも、ほぼ同じリズムで上半身が動いている。いつの間にか目は閉じられている。 両腕は身体の脇にだらりと垂れ下がっている。それが、手の平だけが静々と上に向けられた。あたかも、なにかを下から支えているかのようだ。 その手が、地平線から昇る朝日のように、徐々に上がってゆく。身体は相変わらず揺れているのに、手の平は微動だにしない。けれど、よく見ると確かにさっきよりも僅かだけ高いところにあるのだ。 何か大切で壊れやすいものを、捧げ持つように、ゆっくりとゆっくりと手が掲げられてゆく。 随分長い時間そうしていたような気がする。そろそろと持ち上げられていた手が、肩のちょっと上まで来たところで、動きを止めた。顔は俯いたまま、まるで賞状でも受け取るような格好だ。 と、彼女は、後ろにのけ反りながら、大きく息を吸い込んだ。 倒れんばかりになったところで、動きが固まった。一瞬、間を置いて、今度は手の平を丸くさするように動かしながら、深く深く息を吐き出してゆく。 いつまで息を吐き続けるのだろうと心配になったころ、もう一度、背中を反らして、息が吸い込み始めた。そして、さきほどと同じように、手を動かしながら静かに吐き出してゆく。 小さくなっていった吐息がいつのまにか聞こえなくなり、彼女は顔をうつむけたまま、じっと沈み込んでいる。 そんなことを何度か繰り返したあとで、突然、フッと息を吸い込む音がして、顔が上がった。今までの真剣さはどこかに綺麗さっぱりに消え、草むらから現れた時の小生意気な表情に戻っている。 「なにしてんの?そんなとこに、ぼさっと突っ立って」 「え?」 「ライズよ。ライズ」 彼女は、流れを指さした。 あっ! 見ると、そこには、いくつかの波紋が広がっていた。彼女を一心に見つめていたものだから、全く気づかなかったのだ。 ひとつ、ふたつ、、、。多分、四尾くらいの魚がライズしていそうだった。 「そ、そんな。ばかな」 「何が、馬鹿な、よ。だって、あなたがライズを欲しいって言ったのよ。だから、こうして売ってあげたんじゃない。それとも私が詐欺でもすると思ったの」 「いや、そうじゃなくて、、、」 あまりのことに、次の言葉が出なかった。だって、いくら何でも、ありかよ、こんなの。 彼女は、膝をぽんぽんと手で払いながら立ち上がると、右手を突き出した。 「ハイ、二万円」 僕は、どうしていいのか、まだ分からなかった。騙されているのだろうか。けれど、目の前の流れでは、相変わらず控えめな波紋が広がっていた。これは、どう見ても現実だ。 「払わないつもり?」 彼女が、きつい目で僕を睨む。 僕は、慌ててベストのポケットから財布を出して、一万円札を二枚取りだした。 「毎度あり」 彼女はおどけた口調でそう言うと、僕の手からお金を受け取り、無造作にジーパンのポケットに突っ込んだ。 僕の脇をすり抜け、いましがた通ってきた薮に向かって歩き出す。もうあと数歩で薮に入るというところで、あ、そうそうと言いながら振り返った。 「今のことは、誰にも言わないでね。約束よ。もし約束破ったら、結構あたしって執念深いんだから」 「うん、うん」 「それから、もうひとつ」 小学校の先生を思い出させるような口調で、彼女は付け足した。 「せっかく高いお金を払って買ったんだから、早くあのライズ釣った方がいいと思うよ」 「あ、うん」 「そうね。あなた、いい人みたいだから、サービスしておく。フライは二〇番くらいの小さなものがいいわよ。コカゲロウだから。じゃね」 そう言い残すと、彼女はさっさと薮の中に消えていってしまった。彼女の後ろ姿を見えなくなるまで目で追いながら、何かが頭の中に引っ掛かっていた。それで、彼女の言った言葉をもう一度反芻してみる。 「フライは二〇番くらいの小さなものがいいわよ。コカゲロウだから」 あっ。 なんだよ。そうか、そんなことか。 彼女は、コカゲロウの羽化が始まるのを知っていたんだ。多分、地元の短大の生物部かなんかに入っていて、この辺の水生昆虫のことを詳しく調べたことがあるんだ。それで、川沿いを歩いて、引っ掛かりそうな釣り人を探す。カモがいたら、適当な場所に釣れていって、羽化が始まるまで、あの不思議なダンスを踊る。それで客の目を流れから離しておいて、羽化とライズが始まったら、ハイお金って訳だ。 そうか、ちっくしょう。まんまと、二万円くすねられちゃったわけか。 悔しさもあったけれど、それよりも彼女のやり方があまりにも見事だったので、感心してしまった。 ライズを狙いたい釣り人の気持ちをくすぐるなんて、痛いところをついてくるよなぁ。 それにしても羽化の時間と場所をかなり正確に予測するんだから、水生昆虫にすごく詳しくないといけないはずだ。それだけでなく毎日この川に通って、常にたくさんのしかも新しい情報を集めていないとできないことだろう。 そう考えると、その努力に対して二万円というのは、さほど無茶苦茶な値段の付け方でもないように思えてきた。 騙されたのに、なぜか、大笑いしたいようなすがすがしさすら感じる。 僕は、いつになく弾んだ気持ちで、流れに向かい、フライを彼女が奨めた二十番の小さなものに結び替えた。 そして、「売ってもらった」ライズを狙った。 それから数週間後、僕はまた同じ川に釣りに出かけた。いくつか場所を替えながら様子を見るものの、どこに行っても川面は静かなまま波紋は広がらない。それで仕方なく河原に腰を降ろして、ライズを待つことにした。 ぼんやりと流れを見つめる。あの瀬の脇あたりがくさい。それともこっちの岩の横のよれだろうか。 ふと、視線を感じて振り返ると、土手の上に彼女がいた。ライズ売りの女の子だ。 僕は手を上げて、挨拶をした。 彼女は、しばらくそこに立ってどうしようか迷っていた風だったけれど、土手を下りると僕の方にすたすたと歩いてきた。ジーパンに赤いスニーカを履いて、紺のトレーナの下には、白いシャツを着ている。ライズ売りにふさわしい服装というものがあるかどうか知らないけれど、もしあるとしても、彼女の今の格好は、ちょっと違うような気がする。 「また、ライズ待ってるの?」 「うん、そうなんだ」 「売ってあげようか、ライズ」 僕は、ここでちょっと考えた。このまま、彼女の例の商売に乗ってもいい。けれど、それよりも彼女が持っている知識の方が僕にははるかに美味しそうに思えた。水生昆虫の羽化が始まる時間と場所を予測するのに彼女が使っている基礎データと法則だ。フライフィッシングをやっている者にとって、これほど欲しいものはないだろう。 「ライズを買ってもいいんだけどさ、それより君の弟子にして貰えないかな」 「弟子?」 「うん。いや、君の商売の邪魔をするつもりなんかない。ただ、そのやり方を教えてくれないかな。もちろん、お金は払うよ」 彼女は、僕を睨むように見つめて、考え込んだ。 「そうねぇ。うーん、あなた、確かに筋はよさそうね。でも、一端この道に入ったら、二度と抜けることはできないのよ。そんなことしたら、私はもちろんのこと、おじいちゃんが許してくれる訳ないわ。それでもいいの?」 彼女の言っていることの意味がよく分からなかった。でも、まぁ、それほど危ない組織がからんでいるとも思えないし、なんとかなるだろう。 「うん、どうしても教えて欲しいんだ」 彼女はそれでもしばらく考え込んでいた。 「わかったわ。じゃ、教えたげる。でもとにかくまずあなたの力がどれくらいのものなのか、見極めないとね」 そう言うと彼女は、河原を横切ってすたすたと流れに向かって歩き出した。僕は、遅れないようについてゆく。 流れのほとりに立つと、彼女は振り返った。 「そうね、ここならちょうどいいわ。ここに座ってくれる?」 僕は、彼女に言われるままに、河原の石の上に腰を降ろした。 「そうじゃなくて、流れの方を向いて膝まづいてね」 彼女は僕の後ろに回ると、僕のこめかみを両の手の平で挟むように抑えた。 いったい何が始まるのだろう。水棲昆虫のことを教えてもらうのに、こんな儀式のようなことが必要なのだろうか。けれど、彼女の振る舞いがどんなにおかしなものであれ、その向こうには桃源郷が待っているのだ。水棲昆虫の羽化をぴたりと読める知識が手に入るのだ。変に彼女の機嫌を損ねてしまって教えてもらえないのでは元も子もない。ここは、じっと我慢だ。それに、彼女の手は、柔らかく暖かく、とても気持ちが良かった。いつまでもこうしていたいような気にすらなった。 「流れの、そうね、あの辺を見てちょうだい」 彼女は、瀬から頭を出した石の脇あたりを指さした。石の後ろが深みになっていて、反転した流れが小さく渦を巻いて淀んでいる。 柔らかい手が、ゆっくり円を描きながら、僕のこめかみをなぜ始めた。 しばらくそうしているうちに、彼女の手の暖かな感触はいつの間にか溶けて、そこにあるのかどうかすら分からなくなった。ただ動きだけが、純粋にエネルギーとして伝わってくる。ゆったりとしたうねりが、次第に僕を満たしてゆく。そこにあるのは、川の流れと、たゆとうようなうねりだけ。彼女も僕もその中に果てしなく拡散してゆき、しまいには消えてなくなった。 滑らかなうねりが次第に大きくなってゆく。同時に、そろそろと後ろに引かれるのを感じた。そしてまた前に戻される。 何度目かの揺らぎで、後頭部に柔らかなものが触れた。ふわりと包み込むような感じで沈み込む。また前に押し戻される時、それが彼女の胸だと気づいた。その途端、僕はうねりから弾き出され、河原に膝まづいてドキドキしている自分に戻っていた。 「ダメよ。よけいなこと、考えちゃ。ちゃんと真剣にやらないなら教えないわよ」 そう彼女は言うと、ぴしゃりと僕の頭を叩いた。 「ごめん、ごめん」 彼女はまるで僕の心の中を覗けるようだった。不思議に思いながらも、とりあえず深呼吸をする。 また、彼女の手が、ゆるゆると円を描き始めた。大きな波に、静々と入ってゆく。高く高く持ち上げられ、それからゆっくりと底に滑り降りてゆく。深い闇の中に吸い込まれるように降りてゆく。そして、眩しいくらいに輝いている光の世界に舞い上がってゆく。何もかもがうねりと同調し、高まり、沈み込む。 「どう、何か、見える?」 彼女の声が、空から降りてきた。 「えーと、特に、何も」 「本当?よく見て」 けれど、普段と同じ流れが目の前をさらさらと過ぎていくばかりだ。それに、一体何が見えるというんだろう。 「本当に見えない?」 「うん」 「じゃ、あたしの読み間違いだったのかしら。あなたに素質なんてなかったのかしら。だったら、またおじいちゃんに怒られちゃうわ」 と、その時だった。石の後ろの深みの奥で、紫色の光の玉がぼんやりと揺れているのに気づいた。 「あれ?あれ、なんだろう?」 「どれ?」 「ほら、あの石の後ろにある、ぼんやりとしたものさ」 「あれが、見えるの?」 「うん」 「ああ、良かった。やっぱり私の読みは当たってたのね」 「読みって?それに、あれ、何なの?」 「今に分かるわ。あれをじっと見ててね」 彼女はそう言うと、僕の横に座った。そして、前にも見せた、あの変な踊りを始めた。 彼女の身体が、前に後ろにそろそろと揺れている。両腕はだらりと垂れている。そのうちに、壊れそうな物を支えるように、手の平がそっと上を向いた。そしてゆっくりと持ち上げられてゆく。 彼女の手が上がるにつれ、石の後ろの深みの底で揺れていた光の玉が、徐々に浮かび上がってきた。 彼女の手が肩の高さまで上げられた時には、光の玉は上半分を水面から出し、ちらちらと燃える炎のように揺れていた。 彼女は息を深く吐きながら、手の平をゆっくりと回してゆく。その動きに共鳴するかのように、光は次第に強度を増していった。玉の中心部も、それまでの紫色から青白い光へと変わり、今では真っ白に光って眩しいくらいだ。 突然、白光の中から、オレンジ色の光がぬめりと放たれた。それと同時に、水面に波紋が広がった。 「あ、ライズッ!」 ふうと息を吐いて、彼女がこちらに顔を向けた。 「どう、わかった?」 「え?じゃぁ」 「そう。こうやって、ライズを起こすの」 ライズを起こす?信じられなかった。でも、今、僕は確かに見てしまったのだ。 「あの紫の玉はね、お魚の何か食べたいなって、気持ちなの。それを、そおっと壊さないように持ち上げてね、それからゆっくりゆっくりそれを強くしたげるの」 そんな説明を聞かされても、全く納得できなかった。でも、見てしまったのだ。 「始めのうちは、見えるだけ。でも練習すれば、そのうちに上に動かしたり、力を吹き込んだりできるようになるわ」 彼女は、そう言って、優しく笑った。 その日家に帰っても、ずっとぼうっとしたきり何もできなかった。考えれば考えるほど、泥沼にはまってゆくようで、出口が見えない。けれど、時間が経つにつれ、じわじわと何が本当に起こったのか、僕の身体に染み込んできた。頭で理解したのではない。僕の身体が、うんと言ったのだ。 それから、週末になると、彼女と川で待ち合わせて修業に励んでいる。今では、彼女の助けを借りなくとも、自分の気持ちを集めるだけで、紫の光を見られるようになった。 ただ困ったことに、釣りには全く役に立たない。紫の光を見つけ、よし、と竿を握ると、光はことごとく消えてしまうのだ。彼女に言わせると、それは当たり前のことなのだそうだ。光が見える、それは、僕と魚の間にチャンネルが開いたことを意味する。だからこそ、魚の食べたい気持ちが光となって見えるのだ。そこで僕が竿を握れば、僕の釣りたいという気持ちが、このチャンネルを通って一気に魚になだれ込む。魚は、驚いて隠れてしまうというわけだ。だから、釣りには全く使えない。 だったら、習うのを辞めてもよさそうなものなのだが、そうはいかない。 まだ、一度も会ったことはないけれど、彼女のおじいさんは、どうやら彼女以上に強い力の持ち主で、魚はおろか、人まで操れるらしい。しかも、かなり短気な人みたいだ。今逃げ出せば、怒り狂って、二人で世界の果てまで僕のことを追いかけてきそうな気配がある。考えただけでも、気が滅入る。 そんな訳で、一人前のライズ師になるまで、僕は毎週川に通わなければならない羽目になってしまった。 とんでもない道に足を踏み込んでしまった。 今は、そう後悔している。
(初出 フライフィッシャー誌1999年9月号)
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