ふと見上げると、もう秋の空だった。 ついこの間まで強い陽射しに灼かれ、ふうふう言いながら釣りをしていたのが嘘のようだ。燃え立つ緑に輝いていた木立も、今では様々な色に染まり、静かに最後の幕が降りるのを待っている。 蒼穹。そんな言葉が浮かんでくるほどに、空が深い。 柔らかい温もりを首筋と背中に感じながら、フライを箱から選び出す。ころころと手の平で転がして、重さを確かめる。自分で巻いたものだから、どれくらい鉛を巻き込んであるのか分かっているはずなのに、確かめずにはいられない。幾重にも鉛線を巻かれて、フライは丸々と太っている。 この季節、魚達は夏の浮ついた気持ちを反省するかのように、底にへばりついてしまう。特に産卵を控えた型のいい魚はその傾向があるようだ。そんな魚を釣るには、とにかく魚の目の前にフライを流し込むしかない。底石をこつこつとフライが叩きながら流すようでないと、反応してくれない。しかもどこにいるのか分からないから、同じポイントをしつこく流す必要がある。魚の存在を信じることと、釣れるまで流し続ける忍耐。まるで、修業のような釣りである。 この釣り方は、父から教わった。父にとっての釣りは、ある意味で修業以外の何ものでもなかった。俗世間の様々なしがらみを全て打ち捨てて研鑽するもの、ひたすら自分の技を磨くためにあるもので、決して遊びではなかった。釣りに対するひた向きさは、父にとって血の中に埋め込まれた遺伝のように、運命として受け止めるより他ないものだった気がする。俺はそんな父の釣りに対する態度に反発を感じつつ、同時に釣りに対する情熱だけは負けないつもりだった。 いくらフライを重たくしても、それを結ぶ糸が太ければ、重りの意味は半減する。糸の抵抗で沈みが遅くなってしまうからだ。だからリーダーは一切使わない。それに、ドライフライのように軽いものだったらともかく、フライがここまで重くなると、リーダーを使う意味もない。 微妙なアタリは、水面に浮かんだ糸のふけ具合で取る。慣れないと、流れに揉まれたものなのか、それとも魚がくわえたものなのかが、見分けられない。だから糸がズイと引き込まれるまで気づかない。けれど、それでは遅すぎる。合わせようと慌てて竿を上げる頃には、糸の抵抗を感じた魚が鉤を吐き出してしまっている。毛糸の目印を結びつけてもいいが、今度はそれに頼ってしまって、その前に出るアタリを見逃してしまう。 釣りの細々としたことについて色々と教えてくれた父も、アタリの取り方だけは教えてくれなかった。いや、誰も教えることはできないだろう。それは言葉で表現するにはあまりにも繊細すぎるのだ。言葉は、様々な事象からある部分を取捨した、おおまかな共通項でしかない。けれど、風のささやき、雲の移ろいが毎回違うように、アタリはその都度、異なった衣装を纏って立ち現れる。どんな姿形をしていようとも、それが自分の探しているものだと見抜くには、流れの中に自分の身を置いて、自ら感じ取らなければならない。そうしなければ、決して掴むことのできないものなのだ。 夏の間は無視して飛ばしたような、少し流れの緩いところに狙いを付ける。瀬で沸き立った白波が、滑らかな曲線に延びようとするその際にフライを沈めてやる。流れに飲まれるラインをこまめに修正して、フライが自由に、自然に流れるようにする。 沈んでゆくフライに引かれて、糸が水中に消えてゆく。そのあるかないかの消滅点を目で追う。 何度も何度も同じところを流す。 ここには必ずいる。そう信じて投げ続ける。 何十投目かだった。 ふっ。 竿が自然に上がる。何も考えていない。 竿先でなく、竿の根元に来る手応えで、魚の大きさが分かる。左手で素早くラインをたぐり寄せ、糸を緩ませない。ラインを右手の人さし指にかけ、魚がぐいと引く度に、指の力を緩めてラインを出す。魚が止まったのを見計らって、リールにラインを巻き込み、後はリールでやり取りをする。もう頭が命令するまでもなく、体が自然と動く。これまでにこうして一体何尾の魚を釣り上げたことだろうか。 岸に寄せた魚は、鉤を外し、すぐ逃がしてやる。雄のいい山女魚だった。鉤を外そうと手に取ったら、白い精がこぼれた。 石に腰を降ろして、一休みする。 と、対岸の少し下流を釣り人が登ってきた。一つ下の淵尻で徒渉して、こちら岸に渡ってくる。やたらと長い竿を持っている。餌釣りだろうか。しかしそれにしては振り方がちょっとおかしい。 よく見ると、テンカラ師だった。フライ竿の倍はあろうかという長い竿を振り、毛鉤を流れに打ち込んでいる。 先程俺が夏のポイントと無視してやらなかった瀬脇の小さなスポットを狙っている。手際よく打ち返しては、竿先を細かく動かしている。一端沈めた毛鉤を、うまく躍らせながら水面に泳ぎ上がらせているようだ。 あれで釣れるのかなぁと思った矢先に、竿が跳ね上がり、銀色の山女魚が水面から飛び出した。 へぇ。 それからも男は、いくつかのポイントから、型こそ大きくないものの、まあまあの山女魚を数尾釣り上げた。 もう大分水も冷たくなってきているというのに、鮎タイツで立ち込んでいる。根性の入った釣り人だ。 俺は底にへばりついた魚を狙うつもりなので、彼に先に行ってもらうことにし、河原を数メートル下がって、道を譲った。 男は、ちょっと目で挨拶をすると、脇目も振らずにまた竿をだした。 その仕草に、ちょっと引っ掛かるものを感じた。せっかく譲ってやったんだから、もう少し嬉しそうに礼を言ってもいいだろうに。 けれど、釣りに夢中になっていると、あんなものなのかもしれない。俺だって、人のことが言えた義理じゃない。そう思い直して、腰を降ろして煙草に火を付けた。 今しがた俺が狙っていたポイントのすぐ上流を、男は狙い始めた。 後ろに振ったラインが、あるかないかの風に押されて横になびいた。 ラインがくしゃりと崩れ、毛鉤が俺の後ろに回り込んだ。 あっと、思うのと同時に、男が竿を振った。俺は慌てて体を倒し、毛鉤を避ける。 ひゅっ。 鋭く風を切って、耳のすぐ横を毛鉤が走り抜けた。 男は、後ろで何が起こったのか、まるで気づいていないようで、熱心に流れを見据えている。 テンカラ毛鉤のピアスをする気は毛頭ないから、もう少し離れようと、腰を上げた。 と、中腰になったところに、またラインが向かってくる。今度は毛鉤が真っすぐ俺を目がけて飛んできた。 体をかわしている暇もなく、右手に持っていた竿で、毛鉤を払いのけた。リールに毛鉤が当たって、小さな金属音が響く。 危ないじゃないかと言おうとするところへ、また毛鉤が襲いかかる。 左に半身をずらして後ろにのけ反り、やっとの事で毛鉤をかわした。毛鉤の届かない場所まで逃げようと、そのまま数歩後ろに下がった。 が、何としたことか、それでも執拗に毛鉤が降りかかる。ふと気づくと、男は相変わらず背中を向けたままだが、さっきより数歩後ろに下がっている。 毛鉤が顔のすぐ脇を、風を切って貫いてゆく。 タイミングを見計らって、一気に数歩飛び下がった。 男が初めてこちらに向き直った。じっとこちらを見据えたまま、しかし竿を振る手は、一向に止めようとしない。いつの間にか、また間合いを詰められている。右から左から、毛鉤が鋭い線を描いて顔面に集中する。 なんだ、こいつは? このままでは、顔面にテンカラ毛鉤が突き刺さるのも時間の問題だ。しかし、何度毛鉤の届く範囲から出ようとしても、男は一定の間を置いて食い下がった。 左斜め下から毛鉤が突き上げてきたのを、逆に左に寄っていなし、その瞬間に背中のランディングネットを掴んで、返す毛鉤に打ち降ろした。毛鉤が網目に搦め捕られ、男の動きが止まった。 しかしすぐ男は竿を勢い良く高く振り上げ、糸を切り捨てた。そのまま竿を横に倒し、鉤の切れた糸を素早く左手に掴み取る。その手を口に持って行ったかと思うと、もうすでに新しい鉤が指の間から現れた。 今だ。今しかない。毛鉤を結び終えたら、すぐまた攻撃してくるだろう。 俺は、リールからラインを出しながら、男に向かって竿を振り降ろした。 男は、横に二メートルほど飛んだ。俺の攻撃をかわしながらも、左手は忙しく動き、片手で鉤を結び続けている。手元は全く見ていない。時折、右手に持った竿をこちらに突き出して、牽制すらしてくる。テンカラ竿の長さを活かしての防御だ。 眼だ。眼を狙え。重たいニンフだから、素早い攻撃には向いていない。一撃必殺だ。 ダブルホールをかけ、ラインスピードを思いきり上げて、ヘビーウェイトのニンフを顔面に叩き込む。 男は、上半身をひねって、ニンフをうまくかわした。 男のこれまでの身のこなしからして、避けることは、予想していた。そしてそれが狙いだった。ラインが伸び切る寸前に、竿を思いきり左に倒し、ホールをかけながらバックキャストに入る。うまいことラインが左回りの回転を始めた。ウェイテッドニンフの後ろにトレーラーで結んであった小さなニンフが、勢い余って左に飛ぶ。ちょうど男の耳の後ろだ。 竿を右斜め後ろに、放り上げるように掲げる。 男の顔が、一瞬こわばった。 よしっ。 そのまま、後ろに一メートルほど飛んで、同時に反り返るように左手のラインを引く。手応えが宙を走り、竿が大きくしなった。 男の右耳から、薄緑色の糸が延びた。ニンフが耳の後ろに刺さったのだ。ラインが撓む度に、ひらひらと耳が揺れる。 男は表情も変えず俺を睨みつけたまま、ラインを掴もうと左手を延ばした。 そうはさせるかっ。 男の手がラインに届くのより一瞬早く、竿の腰に力を矯めて、引き抜いた。 ビッ。 ニンフが飛んでくる。男の耳が奇妙な形に垂れ下がった。鉤先と糸で裂かれ、耳の中ほどまで深々と切れ込みが入ったのだ。マイクロフィラメントを縒り合わせた糸だから、耳を切るぐらい簡単なことだった。なにしろ防弾チョッキを作るのにも使われている繊維で、同じ太さの鉄線の十二倍の強度があるのだ。 赤い血がほとばしり出る。 男の首筋から肩が、見る見る間に鮮血で染まってゆく。 と、男の右手が高く上がった。そして長い竿をゆっくり左右に振り始めた。 なんて奴だ。耳が切れるのもかまわずに、鉤を結び続けていたらしい。男の目の前を、小さな毛鉤が八の字に飛んでいる。 男の次の攻撃に備え、俺も竿から出ていたラインを短くする。左手の親指と小指を使って、ラインを手の平にしまい込んでゆく。ニンフを前後に振っているとタイミングを読まれてしまうので、いつでも叩き込めるよう、頭上で楕円を描き続ける。 「さすが、上萬だな」 男が、突然、口を開いた。 「なぜ、それを知っている?」 男の唇が歪んで、笑いが漏れた。 「なぜ?馬鹿なことを聞くもんじゃないぜ」 「そうか。するとおまえは備前か」 「他に誰がいると思う、こんなことをするのは」 備前。正確に言うなら備前神苑流。古武道の一つである。それも決して表に出ることなく、極めて限られた人間だけがその存在を知っている裏古武道である。神苑流はもともとは、忍びの術であった。さりげなく釣りをしているような振りをして、諸国の情勢を探り、いざとなったら釣り道具を武器に戦う。備前波ノ丞宗睦が、その始祖と言われており、テンカラ釣りが原形となっている。彼らの使う小さな毛鉤には、強力な神経毒が塗ってある。ちょっとでもそれに刺されると、苦しみのあまり悶絶しながら死ぬことで、忍びの者から恐れられていた。 そして男が口にした「上萬」とは、上萬無尽流のことである。やはり裏古武道のひとつだ。もともとは鮎のコロガシから発達し、ずっしりとした重りを振り回すだけの単純なものだったらしい。敵の頭蓋骨をまっすぐに貫く、剛の技である。しかし種子島に鉄砲が伝来したのとほぼ同じころ、やはり西洋から伝えられた毛鉤に、四代目宗家の上萬夢水斎義詮が目をつけた。夢水斎は、これまでの力技だけだった無尽流に、西洋毛鉤の繊細さを組み合わせ、様々な技を編み出した。夢水斎の天才と努力があって、初めて上萬無尽流は、一つの武術となったと言えるだろう。それゆえ、夢水斎は、上萬無尽流中興の祖とも呼ばれている。俺は、十四代目になる。 上萬無尽流と、備前神苑流は、それぞれお抱えの藩が隣り合っていたこともあり、その初期から蛇蝎のように忌み嫌いあった。誰かが殺されると、その報復に相手を殺し、それがまた復讐を呼んだ。陰惨で、凄絶な流血の歴史である。そしてあわよくば相手をこの世から抹殺しようと、機会あるごとに画策し続けてきた。 「理由などない」 ある日、父はそう言った。この戦いに目的などないし、理由などない。上萬無尽流は、備前神苑流を倒すためにあるのだし、備前神苑流は、上萬無尽流に潰されるためにある。 そんな馬鹿な。 それを聞いたときに、俺はそう思った。戦国の世の中ならいざ知らず、この平和な時代に何を言っているんだ。 父は、俺のそんな言葉を聞き流した。 「おまえにもわかる日が来る。悲しいことだが、必ずわかる時が来る」 そう、ぼそりと呟いただけだった。 それから数年後のある日、父は釣りに出掛けたまま、帰らぬ人となった。数日後、下流で発見された父の死体は、醜く膨れ上がって、無残なものだった。警察は、父が釣りに行って、足を滑らせて、頭でも打ち、それで溺れたのだろうと言った。俺も、それを信じようとした。 いや、今の今まで、それを自分に信じ込ませていた。 しかし、違う。父は、死んだのではない。父は、殺されたのだ。父は、備前神苑流に敗れたのだ。今、それがはっきりと分かった。 そして、父を倒したのは、俺の目の前にいる男だ。 突然、心の底から、怒りが湧き上がってきた。自分でもどうしようもないくらいの憤怒が、塊となって身体を駆け抜けた。 つま先を蹴って、男の懐に飛び込んだ。 テンカラ竿は、長い分、どうしても近距離に入られると弱い。毛鉤にスピードを付けにくいのだ。男は、それを嫌って、後ろに逃れようとする。身体を引きながらでは、竿を矯めて、毛鉤に力を伝えることはさらに難しくなる。男は守りに回るよりない。 俺は、なおも前進しながら、竿を下からえぐるように振り上げた。左手に掴んだラインを腰の後ろまで一気に引き、手の中にしまい込んでいた分を吐き出す。 鋭く風を切って、ラインが男の胸に向かって延びてゆく。もう少しでターンしそうなラインを、竿であおる。左手でラインを引く。 勢い余ったニンフは、下から突き上げるように男の顎に飛び込んでゆく。 男は後ろにのけ反りながら、右手を前に出す。ニンフを竿に搦め捕るつもりだ。 が、トレイラーのニンフが、男の首に刺さってくれたおかげで、ウェイテッドニンフの動きが止まった。 その一瞬を逃さず、俺は竿を横ざまに引き抜いた。男の腕の下をかいくぐって、トレイラーのニンフが空に舞う。首から顎に、一筋の赤い線が浮かぶ。ニンフが皮膚を切り裂いたのだ。 畜生っ。もうちょっとで頚動脈だったのに。 と、突然目の前に、男の毛鉤が浮かび上がった。攻撃に夢中で、隙ができていたらしい。 しまった。 避けきれる距離ではない。 くそっ。 一か八かの思いで、毛鉤を睨みつけたまま、突き進む。 ガチリ。 鋭い音とともに、毛鉤が偏光グラスにぶつかった。 次の瞬間、毛鉤が視界から消え、帽子を宙に飛ばされていた。 捨て身の動きが功を奏して、毛鉤の攻撃を防げた。しかも毛鉤は帽子に突き刺さり、死に体になっている。 よし。 バックキャストで、竿にパワーを乗せる。同時に男が、テンカラ竿をひねり上げた。くるりとラインが回って、帽子が宙に踊る。男が竿を下に軽く振ると、毛鉤は帽子からするりと抜け、あっという間に俺の頭上に舞い上がった。 そうか。さっきちらりと見えた感じでは、鮎掛け鉤を使っていたようだが、カエシも潰してあるらしい。 数歩後ろに飛び下がって、男の攻撃を外す。 目の前を、男の毛鉤が上から下へ乾いた音をあげて突き刺さる。 そこへ、わざと絡めるようにフライラインを躍らせた。 男は避けようとするが、毛鉤はフライラインにくるくると巻き付いてしまう。俺は竿を男の方に向けたまま、左のラインを引きつつ、一息に下がる。 男が腰を落として、竿を矯めてこらえる。 馬鹿が。竿ごと折ってくれるわ。思いきりラインを引きながら、さらに後ろに飛び下がる。 と、急に男は矯めていた手首をかえして、糸を緩めた。そして一歩踏み出して、俺のニンフを足で捕らえた。 バシッ。 いくら強い繊維でも限度がある。俺が後ろに下がったものだから、ニンフの結び目から糸が切れてしまった。薄緑の糸が力を無くしたふわふわと泳ぐ。 仕方ないので、ラインをそのまま引いて、男の毛鉤の動きを制する。同時に、竿を小さく弧を描くように横で回し、ラインにパワーを吹き込む。ラインが宙を円となって、男目がけて向かってゆく。もちろん、ニンフは付いていない。しかし、ラインの先には、男の毛鉤が絡みついたままだ。 男は自分の毛鉤が向かってくるのに気づき、竿を上げて止めようとする。しかし、一端弛めた糸が、勢いの付いた俺のラインに勝てる訳がなかった。 ラインはするすると延び、男の胸元をぴしゃりと叩いた。そのすぐ後から、毛鉤が襲いかかる。 男は、右手の竿を上げ、持ち手のところで、かろうじて毛鉤を食い止めた。 俺は、竿先を男の顔に突き立てるようにして、テンカラ竿の下に飛び込んでいった。 竿の切っ先が、男の眼の脇を切る。すぐさま横に振って、ラインと竿でちぎれかかった耳を挟んだ。ラインを引きながら、竿を振り上げる。ぶわりと耳が吹き飛んだ。 男は顔をゆがめて、テンカラ竿を振り降ろす。それを横にかわして、俺は一気に間合いを詰めた。 背中のランディングネットを左手に取り、男の額に打ち降ろす。 男は、身体をひねって避けながら、蹴りを出した。 俺は左にステップを踏むが、一瞬遅れる。脇腹に、いい蹴りをくらう。ウェーディングブーツにウェーダーでは、どうしても鮎タイツに比べ、動きが遅い。 河原にもんどり打ってひっくり返った。竿が砕ける。頭が白くなる。脇腹が喚く。 男が上から、飛びかかってきた。 俺は、横に逃げながら、胸のフォーセップスを掴んで、落ちてくる男の顔に突き立てた。 男は顔を僅かに背けることができただけだった。男の頬に深々と、銀色のフォーセップスがのめり込んだ。 がぁ、と男が呻いて、飛び退いた。 胸のピンオンリールが弾け、男の頬のフォーセップスからぶら下がる。 男がひるんだところに、すかさず、膝に蹴りを入れた。 男が蹌踉めく。俺は脇に回って、男の右腕を取る。そのまま地面に倒れ込んで、後ろから捩じ上げる。 グシッ。 鈍い音がして、腕の抵抗が無くなった。肩の関節が壊れたのだ。 とどめに後頭部に膝蹴りを入れようとしたときだった。 視界の端から、黄色いものが飛び込んできた。 咄嗟に、河原に転がる。 今まで、俺がいた場所に、小さな毛鉤が突き刺さった。 いつの間にか、対岸の草やぶの中に、小太りの眼鏡を掛けた男がいた。眼鏡の男は、竿を横から回し込んで振り、バックキャストをすることなく、そのままラインに力を込めた。水面に落ちていたラインが、宙に巻き上げられ、楕円を描きながら俺に向かってくる。 俺は、横っ飛びに毛鉤から逃れた。 その隙に、テンカラ男は、右肩をがくりと落としたまま、起き上がり、川下に走り出した。 追いかけようとすると、容赦なく、眼鏡男のフライが空から舞い落ちる。テンカラ男の追跡は、諦めるより無かった。 テンカラ男が川を渡り、薮に消えるのを見届けると、眼鏡の男もふっと姿を消した。 くそ。 厄介なことになった。今の眼鏡の男は、テンカラではなかった。とすると、あいつは、備前神苑流でなく、備前裏陰流に違いない。裏陰流というのは、備前家六代目の庶子、備前巻衛門が飛騨の山奥に篭って始めたものだ。備前神苑流の毒に、西洋毛鉤釣りを編み込んだ恐るべき流派である。裏陰流と神苑流は、ある時はいがみ合い、ある時は手を貸す、非常に微妙な関係にある。しかし今はどうやら手を結んでいるらしい。 となると、俺は、非常に不利な立場にある。 やらなければ、やられてしまう。 俺は、父の言った言葉の意味が初めてわかった。 この戦いに意味など無いのだ。 そして、歴史の歯車に巻き込まれてしまった以上、もうどうしようもない。 上萬無尽流をこの世から消すわけにはいかないのだ。俺は生き残らなければならない。俺には、一子相伝の奥義を伝える子供すらまだ居ないのだ。 そのためには、まだまだ修業が必要だ。 負けるものか。負けてなるものか。 俺は、歯を食いしばって、流れを見つめていた。
(初出 フライフィッシャー誌1999年8月号)
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