生まれて初めての海外旅行だった。
 行くまでは、どうなることかと色々と心配していた。旅行代理店のトラブル、天候、ガイド、それに自分の腕。釣れないんじゃないか。お金の無駄遣いなんじゃないか。大体ちゃんと目的地に着けるのだろうか。英語だって話せないし。そんな不安な思いがしばしば頭をよぎった。
 でも、こうして全日程を終えた今、本当に行ってよかったと思う。
 天候にも恵まれ、六〇センチオーバーをドライでという夢も叶えられた。
 もっとも最初は、鱒が見えなくて苦労した。いくらガイドが指さしている所を凝視しても、どれが魚だかわからないのだ。ぼんやり見える底の石が、川面と一緒に揺れているだけだった。ひょっとして、ガイドがいい加減なことを言っているんじゃないかと、疑ったりもした。
 けれど、ガイドの言う通りの所にフライが落ちると、突然もやもやの中から、大きな魚が形となって現れた。今まで写真でしか見たことのない巨大な鱒が、フライに向かってゆっくりと浮上してきたのだ。
 黒い三角の鼻先が水面から突き出され、フライが消える。
 やったぁと、思いっきり竿を立てて合わせる。勢いよくラインが水から上がる。
 けれど手には何も感じられない。
 えっ?
 どうして?なんなんだよぉ。
 茫然自失でガイドを見ると、ダムッと吐き捨てるように言った。早すぎるんだ。早合わせで、せっかくのフライを鱒の口から引っこ抜いちまったんだ。そんなようなことを言われた。
 ネクスト、フィッシュ。スロー、スロー。
 ガイドが、左の握りこぶしをフライに、右手を鱒の口に見立てて説明する。下からゆっくり上がってきた右手が左手を包み、そのまままた沈んでゆく。
 バンッ!
 いきなり竿を立てる振りをして、笑った。
 わかっている。わかっているんだ。来る前に、色々な雑誌や本を読んで、頭には知識として入っているんだ。けれど、手がどうしても動いてしまう。普段釣っている山女魚ならそのまま縦に入りそうな口を、目の前で開けられたら誰だって冷静じゃいられない。そうだろ。
 そう言いたかった。けれど、僕の拙い英語では、なんともならない。
 魚を釣り逃がした悔しさに、言いたいことの言えないもどかしさが重なって、地団駄を踏みたくなる。
 けれど、そんな思いも、二度目のチャンスで綺麗に吹っ飛んだ。
 今度の合わせは完璧だった。手に、腕に、肩に、魚の重さがずんずんと伝わってくる。 そして、ラインが勢いよくリールから引き出された瞬間、頭の中から全てが消えた。
 鱒に引きずられて、河原中を走り回った。ガイドが何か叫んでいるが、何を言っているのかわからない。理解しようとする余裕なんてない。流れに乗って下流に行こうとする鱒のことしか考えられない。
 どうやって寄せたのか、よく覚えていない。
 ただ、浅場によろよろと入ってきた巨大な鱒を、ガイドが大きな網ですくった瞬間、僕はうわぁーと叫んでいた。そのことは今でもはっきり思い出せる。
 いや、それだけじゃない。あの白い口。鋭い歯。ぎょろりと動いた目。僕の親指よりも大きい脂ビレ。触れば指につきそうな鮮やかな朱点。握っても指が回らない太い尾。そして、両手で支えた重さ。
 ずっと、その大きな鱒を抱えていたかった。写真を何枚も撮ったあと、ガイドに促されて、ようやく流れに戻した。
 その後は、余裕が出たのか、ガイドの指し示す鱒が少しずつ見えるようになった。魚が鉤に掛かってからも、落ち着いて取りこめた。
 夢のような四日間だった。人里離れた山奥に、ヘリコプターで飛んで入って釣った。牧場の中を蛇行するスプリングクリークで釣った。ドライフライで釣った。ニンフで釣った。ウェットで釣った。ストリーマーで釣った。朝起きてから、夜眠るまで、釣りばかりの生活。四、五年分の釣りを、ぎゅっと凝縮して、一遍に堪能したような気分だった。
 最終日の釣りを終え、空港まではガイドが送ってくれた。帰らなければならない残念さはもちろんあった。けれど、とにかく腹いっぱい釣りをした満足感に浸されていた。
 滑走路を飛び立ち、空から僕が釣りをした川が見えると、思わず窓に顔をくっつけて覗き込んだ。ガイドの、また来いよの言葉が思い出される。
 来るさ。必ず来るさ。
 税関を通り、電車を乗り継ぎ、やっと懐かしい町に帰り着く。街路灯に照らされた道は、昨日まで夏の国にいたのが嘘のように、寒々としている。重い荷物を引きずって歩く。でも、心の中は温かった。
 ようやくアパートに戻ったのは、十二時ちょっと前だった。一週間ぶりだ。見上げると、窓に明りが灯っていない。真由美は眠っているのだろうか。しかし、カーテンは開けられたままだ。どうしたんだろう。
 ドアを開け、部屋の電気を付けて、ようやく様子がおかしいのに気づいた。
 改めて部屋を見回す。
 何だか、がらんとしている。
 はっと思って確かめてみると、真由美の荷物がない。彼女が宝物だと言っていた絵もない。それまで絵が掛けられていた壁に、白く日焼けの跡が浮き上がっている。タンスの引き出しも空っぽだった。下着も、シャツも、ハンカチも、何もない。押し入れを開けると、がらんどうのカラーボックスが積み重なっている。
 どうやら、出ていってしまったようだ。
 いつか、あるいはこんな日が来るのかもしれない。そう感じたこともあった。けれど本当になるとは思わなかった。
 まいったな。
 どうしよう。
 これだけ綺麗さっぱり荷物がないということは、ただの家出じゃない。もうここに戻ってくるつもりは全くないらしい。
 一緒に住み始めて、三年。これまでも喧嘩をしたときに、ぷいと飛び出してしまうことはあった。それでも着の身着のままだから、一晩が精々だ。しかし、今回は、どうやら違うらしい。
 せっかくこれまでで最高の釣りができて、ずっと舞い上がっていた気分が、そのまま宙に浮いて、落ちて、砕けた。
 仕方ないな。
 多分実家に戻ったんだろう。電話してみようか。
 ダイニングの隅の電話に目をやって、テーブルの上に白い封筒があるのに気づいた。
 手に取って、開けようかどうしようか、一瞬戸惑った。かなり厚い。
 中には、きっちりと折り畳まれた便せんが、数枚入っていた。
 椅子に腰を下ろして、読み始めた。

「この手紙を読んでいるころには、あらかた想像はついているでしょう。
 家を出ることにしました。
 あなたと一緒には暮らせない。そう思ったからです。
 しばらく以前から、このことについて考えていました。きっかけは、あの流産です。
 あの件は、すべてあなたのせいだとは言いません。半分は私の責任と思います。一番大切な時期に、あなたの誘いに乗って一緒に釣りに出かけた私も悪かった、そう思います。
 
 妊娠がわかってすぐに、あなたは籍を入れようと言ってくれました。
 とってもうれしかった。
 でも、それ以来、あなたはどこかいつもいらいらしているように見えたのです。そんなはずはない、あなたも喜んでいてくれるはずだ。そう信じようと努力しました。
 赤ちゃんが駄目になってしまったときも、あなたはとても優しくしてくれました。
 でも、しばらくして、あなたのいらいらが消えてなくなっているのに、気づかずにはいられませんでした。
 あんなことがあったのに、お休みの度に嬉しそうに釣りに出かけるあなたの様子を見て、あなたの本当の気持ちを見てしまった様な気すらしました。
 わからなくなりました。
 本当にこの人は、私と一緒に生きてゆくつもりがあるのだろうか。
 この人にとって、私はいったい何なんだろう。
 
 しばらく前から、体の調子が良くありませんでした。病院に行ったら、子宮筋腫だと言われました。かなり大きなもののようで、手術をすることになりました。
 子宮を取ってしまうのです。
 そう、医者から聞かされたとき、真っ先に浮かんだのは、あなたの顔でした。
 あなたのうれしそうな顔でした。
 どうしてだか、わかりません。
 わかっているのは、もう、一生子供は産めない体になるということです。
 家に帰って、たった一人でいると、辛くて辛くて、気が狂いそうでした。考えないようにしよう、そう思っても、そのことが頭から離れません。
 あなたは今ごろ遠くの国で釣りをしている、そう思うと、よけい悲しくなりました。
 そんなとき、ふと、私はあなたにとって、魚に過ぎないのだと気づいたのです。
 あなたはよく、いかにあなたが魚を大切にするか、熱心に話してくれました。
 魚を釣っても、決して殺すことなく、流れに戻してやる。その時も魚を傷つけないよう、手を水に濡らしてから触る。鉤がすぐ抜けるように、鉤先のかえしは潰しておく。魚をすくうネットは、目の細かいものを使う。
 釣りをしない私でさえ覚えてしまうくらい、何回もその話を聞かされました。知らないうちに、私も、何だか、それが素晴らしいことであるような気になったほどです。
 でも、今の私にはわかります。それは違うと。
 あなたが好きなのは、魚でもないし、魚のためを考えているのでもありません。
 あなたは、あなたの楽しみだけを追いかけている、それだけなのです。
 自分の楽しみのため、そのための魚がいてくれないと困るから、そうしているだけです。
 あなたは魚のことなど、何も考えていないのです。
 そして、あなたが私に優しくしてくれたのも同じです。
 そうわかったとき、悔しいよりも悲しくなりました。

 赤ちゃんが駄目になってしまったことと、子宮筋腫は関係ない。そうお医者様はおっしゃいました。
 でも私は、そうは思いません。
 神様が私たちを罰したのだと思います。
 赤ちゃんのことをしっかり守らなかった私達への罰だと思います。

 私は、この苦しみを一生負って生きます。
 それが私の犯した罪への償いだと思うから。
 
 あなたにも責任があると思います。

            真由美   」

 三度、読み返した。
 流産のことは、確かに僕にも責任がある。彼女の妊娠がわかってまだ間もないある日、夕マズメ狙いで近くの川に行くのに、真由美を誘った。僕も、そして彼女も妊娠に関する知識がまだあまりなく、妊娠初期は特に注意する必要があることなど、全く知らなかった。
 パラパラといつまでも続くライズに夢中になってしまい、気づくと、あたりは真っ暗だった。真由美は何も文句を言わず、河原の石に腰を下ろして、じっと待っていてくれた。
 ごろた石の転がる中を、頼りないペンシルライトで足下を照らし、二人で駐車場に向かって歩き出した。
 二人でしゃべりながら歩いていた様な気がする。何の変哲もないところだった。
 突然、真由美がつんのめった。
 僕が手を差し出す間も無く、真由美は前のめりに河原に倒れた。慌てて抱き起こした僕の腕の中で、真由美はお腹を押さえて呻き続けた。河原の石にしたたか打ち付けたらしい。
 その晩、赤ん坊は、流れてしまった。
 だから、僕にも半分責任があると言われれば、確かにそうだった。
 でも、僕にどうしろというのだ。今更、僕に何ができるというのだ。
 子供ができれば、今までのようにふらふらとは遊んでいられなくなる。釣りにもあまりいけなくなる。そう考えたのは、本当だ。でも、真由美の手紙を読むかぎりでは、まるで僕があの流産を内心望んでいたかのようだ。そんなことはある訳ないじゃないか。
 あのことについては、僕はなるべく触れないようにしてきた。それがいけなかったのだろうか。
 何度真由美の手紙を読み返しても、僕には彼女の考えていることがわからなかった。
 翌朝目が覚めるとすぐに、彼女の実家、友達の家など、思い当たるところは片端から電話をしてみた。けれど、誰も彼女の行方は知らないと答えるばかりだった。本当に知らないわけはない。知っているのに、僕に教えないよう真由美から口止めをされているのだろう。
 もうしばらく時間をおいて、改めて尋ねた方がいいかもしれない。そう思って、しばらく放っておくことにした。
 彼女の荷物が無くなった部屋は、相変わらずがらんとしたままだった。けれど、空っぽの引き出しに僕の物を入れるのは、真由美のいない生活を肯定してしまうような気がして躊躇われた。
 平日は、残業が続き、アパートに帰ってきても、眠るだけだったから良かった。しかし、週末に部屋にいると、あちこちの空洞が気になって、どうにもやるせない気分になった。それで、気晴らしに釣りに行くことにした。
 近くの駐車場に車を取りに行く。ドアを開けようとして、変な紙が貼ってあるのに気づいた。手のひらほどの大きさの古い和紙で、何か書いてある。漢字のような、サンスクリットのような文字で、ヒゲがあちこちから延び、人が踊っている風にも見える。
 どうせ、子供の悪戯だろう。はがして、破って捨てた。
 家を出たのがもう昼近かったから、遠出はせずに、山一つ越えたところにある小さな川を行き先に選んだ。
 くねくねと続く峠道を運転しながら、ふと、真由美の手紙を思い出した。
「あなたにも責任があると思います」
 でも、どうしろというのだ。
 たとえば、あの日僕が彼女を釣りに誘いさえしなければよかったのだから、死んだ赤ん坊のために、僕に釣りを辞めろとでも言うのだろうか。
 全ての竿を折り、リールを皆たたき壊せば、逝ってしまった赤ん坊が帰ってくるのか。
 子宮を取ってしまう、子供をもう産めなくなってしまう。男の僕には解らない苦しみだと思う。たとえば、僕の男根を切り取ってしまうようなことに近いのかもしれない。だから彼女の痛みを僕は癒すことができないかもしれない。
 でも、でも、、、。
 考えはまとまらないまま、もやもやとあたりを漂い続ける。目的の川に着いても、手紙のことが頭の後ろに纏わりついて、すっきりしない。
 真由美のことを忘れるために、真由美がいない現実から逃避するために釣りに来たというのに。
 思いを振り払うようにして、竿を継いだ。
 釣り上がり始めて間もなく、淵の開きで、控えめな波紋が広がっているのを見つけた。緩やかな流れのほぼ真ん中あたりで、泡が一つの筋となって、右に左にうねっている。魚は、その下に陣取って餌を食べているらしい。
 双眼鏡で水面を覗くと、小さなカゲロウがぽつぽつと浮かんでいた。
 これだけ流れが遅いから、魚はじっくりフライを見てかかるだろう。
 前半分が水面に浮かび、後ろが水面下に没するフライを選んだ。水棲昆虫が羽化をしようとして、古い殻を脱ぎ捨てた瞬間を模したものだ。
 波紋が広がっているポイントの五〇センチ上流にフライを落とす。
 小さく、白い点となったフライが、泡に紛れてゆっくりと流れてゆく。
 すっと、フライが消えた。
 素早く、けれど軽く合わせる。
 ぐいぐいと引っ張る割には、逃げ足が遅い。山女魚でなく、岩魚のようだ。
 ようやく足元に寄った岩魚は、三〇センチを越えるいい魚だった。魚に触れないようにフライを掴んで、鉤を外す。
 流れの中に消えてゆく岩魚を見送りながら、また、真由美の言葉が頭に浮かんできた。
「あなたは魚のことなど、何も考えていないのです」
 そうなんだろうか。
 確かにそうかもしれない。
 でも、だからといって、どうしたらいいんだ。やはり、釣りを辞めろというのか。
 その日は、一日竿を振りながら、しかもまあまあの数の魚が釣れたというのに、ちっとも楽しくなかった。ほんの少しのすき間を見つけては、真由美の言葉が頭に入り込んでくるのだ。そして、彼女の不在が、小指の先に刺さったトゲのように、ことあるごとに痛みを呼び起こして、僕を苦しめた。
 それからさらに一週間たっても、真由美からはなんの音沙汰もなかった。
 週末になると、やはり部屋にいるのがどうしてもいたたまれなくなって、また釣りに出掛けてしまった。けれど、やはり同じことの繰り返しで、魚が釣れても心は一向に舞い上がらなかった。
 真由美の行きそうなところ、居そうなところは全て当たったものの、手がかりは得られなかった。それで仕事の早く終わったある日、わざわざ真由美の実家を訪ねたりもした。けれど、義父母は知らぬ存ぜぬを繰り返すばかりだった。
 これだけ僕が努力しても、真由美は応えようとしない。それならもう、真由美のことは忘れよう。
 ついに、そう決心した。
 いつまでも、過去のことにうじうじしていても仕方ない。
 僕には何もできないよ。真由美が隣にいるなら、何かしてあげられるかもしれない。少なくとも努力できる。でも、どこにいるのか分からない人間に、僕は何もできない。アラスカの奥地で溺れかかっている人を、僕は救えない。そう言うことだ。
 そう自分に言い聞かせた。いくらか、気持ちが軽くなったような気もしたし、同時に、してはいけないことをしてしまったような後ろめたさも残った。
 金曜の夜に、しばらく会っていなかった友達が遊びに来た。翌日は土曜日ということで、二人で朝まで飲んだ。随分と久しぶりの痛飲だった。ラベルに椰子の木と荷馬車が描かれた、封を切ったばかりのラムが、すっかり一本空いてしまった。うっすら夜が明ける中、友達がふらふらと帰っていったのをぼんやり覚えている。 
 目を覚ましたら、もう昼近かった。外の明るさが、カーテン越しに部屋に溢れている。
 部屋の明るさとは裏腹に、僕の頭は、脳味噌を雑巾で包み、目玉の後ろに鉛の重りを付け、ドブ泥の中に沈めたようだった。
 キッチンに行って水を一杯飲み、またベッドに倒れ込む。
 次に目を開けたのは、三時過ぎだった。大分、二日酔いも抜けていた。しかし、何もする気になれず、そのまま仰向けになっている。
 ふと、天井の一角に赤い点があるのに気づいた。
 あれ、あんなところにあんなものあったけか。
 そう思う間もなく、赤い点はじわじわと大きくなり始めた。ついに葉書ほどの大きさになったその中から、今度は、文字が浮かび上がった。
 どこかで見たことのある文字。
 あっ。
 それは、いつだったか車に貼ってあったお札の文字だった。
 茶色のお札が、赤いシミの中から現れる。
 と、その背後から、今度は二つの目がぼんやりと覗いた。
 青白い中に虚ろな瞳が、次第にはっきりと見えてくる。こちらをじっと見つめている。
 鼻と唇がその下から輪郭を取り始めた。
 真由美だった。
 額にあの札を貼り付けた、真由美の顔が天井から抜け出てきた。
 続いて肩、腕、手が順番に形となる。
 両手の上に、何か赤い小さなものを乗せている。
 突然、その赤い小さな塊が動いた。
 それは、臍の緒がまだ付いたままの、小さな赤ん坊だった。握りこぶしほどの大きさもない。頭ばかりが大きく、胴体はきゃしゃで、腕など鉛筆のように細い。血まみれのまま、四肢を弱々しく動かしている。その度に真由美の指の間から、赤い血がとろりと垂れる。
 真由美が口を開いた。
「行きなさいよ。釣りに、行きなさいよ。どうしたのよ。行けばいいじゃない」
 真由美は、問い詰めるようなきつい目で僕をにらみ続ける。
 しばらくそうした後で、真由美はまた天井に埋もれるようにして消えていった。
 僕は、金縛りにあったまま、まばたき一つすることもできず、じっとその様を見ていた。
 何か、悪い夢でも見ているんじゃないか。そう思った。ずっと思い悩んでいたことと、二日酔いの相乗効果で、幻想でも見ているんじゃないか。そう疑った。そう思い込もうとした。
 ようやくのことで、ベッドから起き上がり、カーテンを開けようとして、絨毯の上に、数滴の血が垂れているのに気づいた。
 真由美が現れたところのちょうど真下だ。 あれは、夢でも幻想でもなかったのだ。
 それ以来、休みの日に釣りに行かないと、真由美が必ず現れて、僕を問い詰めた。
 部屋の中に現れるだけではなかった。街に買い物に行く途中、電信柱の陰に身を寄せて、なじるような目でこちらを睨んでいたこともある。そればかりではない。テレビドラマの通行人に紛れて、画面の向こうからじっとこちらを見つめていたことすらある。
 逃げようはなかった。
 釣りに出掛けたために起きた不幸を、こうして僕は、釣りに行くことで償わなければならなくなった。
 雨の日も、風の日も、たとえ熱があろうとも、怪我をしていようとも、出かけなければならないのだ。

(初出 フライフィッシャー誌1998年12月号)

 

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