僕は、この川が好きだ。 別に魚が沢山いるわけでも、大物が釣れるわけでもない。豊かな自然に彩られた山紫水明なる流れでもない。 片側は田圃、反対側にはコンクリート護岸と村道が走っている。幅も三メートルほどしかなく、有体に言ってしまえば、用水路に毛の生えたような川でしかない。それでもこの川が好きなのは、父が小さい頃にここで遊んだ話を、よく聞かされたからかも知れない。 父は、この川のほとりの農家に生まれた。次男坊の常として、家を出なければならなかったのだが、幸いにして父は勉強ができたらしい。まだ第二次大戦が華やかなりし頃で、中学の途中から陸軍幼年学校を受験し、村を出た。陸軍予科士官学校、陸軍士官学校と順調に進んだところで終戦を迎えた。一度は村に返り、地元の高校に通ったものの、それも一年だけで、都会の大学に進んだ。以来村に居を戻すことは二度となかった。 それでも父の心の中には、いつもこの村のことがあったのは間違いない。酔うと必ず、小さい頃のこと、特にこの川の話をするのだった。 なんでも父がまだ八才か九才の頃に、このあたり一帯が飢饉にみまわれ、欠食児童として、ひもじい日々を過ごしたらしい。その辛い思いが鮮明に残っているせいか、僕は食べ物に関しては厳しく育てられた。礼儀作法ではない。食べ物を粗末にしていけないということだ。食事を残すと怒られたし、食べられるものを捨てるなんて、もってのほかだった。だから母は、人参もジャガイモも洗うだけで皮を剥かずに料理していたし、その習慣は僕にも身に付いてしまっている。 父が欠食児童の話を始めると、決まってこの川の話になった。足りない栄養を補給しようと、カジカなどの小魚を突いていたのだ。しかし、皆が同じことをやるものだから、しまいには数が減って、獲るのに大分苦労したらしい。 その苦労話が終わろうかという頃になると、僕たち、つまり僕と弟と母は、目配せをして、出るぞ、来るぞ、と笑いを堪えるのが常だった。 「でな、ある日、天狗様が来られてな、食べ物を下さったんじゃ」 この話が出ると、母は、ハイハイと言いながら用事を済せに台所に立った。天狗様の話は、父の酔いが大分回っていることの信号だったのだ。 もし父がそこで話を止めず、更に川で溺れかけたところを天狗様に助けられたと言い出したら、酔い潰れてその場で眠るのも間近だった。 そんなことも、今となっては、本当に遠い昔の思い出だ。夏の夕暮れ時の入道雲のように、淡いピンクに染まって、はるかかなたで輝くばかりだ。 この川で釣りをしていると、たとえば田圃と川のわずかの隙間にある草叢に腰を降ろし、お握りを食べている時にも、そんな父の面影がそこかしこに感じられ、なぜか優しい気持になれるのだった。 いや、この川だけでなく、この土地の持つ雰囲気の全てが、僕を呼んでいる様な気がする。それで実は一昨年、とうとう生まれ育った都会での生活を捨てて、近くの街に引っ越してきてしまった。できれば、この川のほとりに住めればと思ったのだが、何分あまりにも田舎過ぎて仕事がない。それで、妥協策として、ここから車で三十分あまりの街を選んだのだ。 それでも、今まで年に一度か二度、数時間車を運転してここに来ていたことに比べたら天国だった。仕事が早く終わった日など、夕マズメを狙いに来ることすらできるのだ。 休みの日なら、ちょっと普段より朝寝坊して、それから家を出てきても、充分釣りになった。それに、暗いうちから争うようにしてポイントに入り、人を押し退けてまで魚、魚と目を血走らせて釣るのは、この川にそぐわなかった。 その日も土曜日で、いつもより遅めの朝飯をとり、川の傍に立ったのはもう昼近くだった。 田圃には、稲がすくすくと伸び、風に揺らいで青々としたさざ波が広がってゆく。あたりの山々も新緑が鮮やかで、とくに偏光のサングラスを通してみると、一面が浮き立って見えた。 草叢に腰を降ろし、フライボックスを開け、毛鉤を選ぶ。 夕べ巻いた小さなアリがいいだろう。黒い糸で丸く巻き上げた胴体に、見やすいようにと、白い羽根を左右に広げてある。羽アリだ。 新しいティペットをリーダーに結び、鉤のアイにティペットを通そうとして、毛鉤を落としてしまった。 あちゃ。 草と草の間に紛れてしまったようで、見当たらない。 四つん這いになって、草を掛き分けて探す。 五〇フィート向こうの鱒が何を食べているのか見分けられるのに、足元に落とした毛鉤は、一二インチ離れただけで見つけられない。釣りの風刺漫画にそんなのがあったけれど、まさにそのままだ。 ここに座っていたんだから、多分この辺に、と探り続け、ようやく草の根本にぽつりと転がっていた毛鉤をつまみ上げた。 ふと、毛鉤があったところに、臙脂色の円筒形のものが顔を出しているのに気づいた。 親指を一回り太くしたほどの大きさだ。 よく見ると、ワインのボトルのようだ。それも、封の切ってない。 父譲りの貧乏根性が、むくむくと湧き上がってきた。それで回りの草や土を少し掻き分けてみる。深くなるに連れ円筒形は緩やかに広がり、それはまさしくワインのボトルだった。 三分の一もボトルが顔を出したところで、首を握り、瓶をそろそろと回してみる。土にすっかりくわえ込まれて、なかなか動かない。それでもほんのちょっとだけ弛んだのを機に、割らないように注意深く力を加減して、回しながら引き抜いていった。 茶色い汚れだらけのラベルがまず、それからとうとう黒いボトルの全体が姿を現した。 土を手で払い落としても、剥がれたりかすれたりして、ラベルはほとんど読めない。しかし、どうやら日本のものではなさそうだ。Merlotという文字だけは判別できたので、赤ワインだろう。 川の流れで丁寧に濯ぐと、ほこりが洗い流され、黒いボトルが静かに輝きを取り戻した。 家に持って帰ろうかどうしようか迷った。しかし中に入っているものが何なのか、好奇心を抑えられなくなり、とりあえずコルクだけ抜いてみることにした。 ベストのポケットからアーミーナイフを取り出し、まず、封を切る。安ワインによくあるプラスチックでなく、薄い鉛の封だった。 ら旋状のコルク抜きを捻じり込んでゆく。 一杯にいれたところで、ゆっくりと引き抜いた。 ポン。 可愛らしい音と共に、柔らかなワインの香りが広がった。 思わず鼻を瓶に寄せる。 つつましく微笑む葡萄の後ろに、どっしりとした樫の影が見え隠れしている。そこには、全ての輪郭がぼやける夏の黄昏時に、向こうから歩いてくる彼女を見つけた時のような、人の心を浮き立たせる何かがあった。 瓶を傾け、手の平に少し垂らしてみる。 薄赤色の小さな水たまりが、生命線の上で、ふるふると揺れ動く。 真っ直ぐで透き通った香りが新たに立ち上り、どうしても堪えきれなくなってしまった。 恐る恐る、そっと舐めてみる。 絹のように柔らかでしっとりした味わいが舌の上に広がった。深く、厚い重みの中に、微かな甘さが残る。 また瓶を傾け、手の平に、先程より少し多めにこぼす。 今度は厚みの奥から、小さな薄紅色の薔薇を思わせる可憐さが顔を覗かせた。 もう一口。 舌に触れる度に、何層にも折り重なった中から、新しい味わいが一つずつ順番に扉を開いていく。今まで僕が飲んだワインなど、これに比べたら絞り糟でしかなかった。 陶然としながら、また少し、また少しと手の平から啜った。 四口目か、五口目だったろうか。啜ったワインが、突然口一杯に広がり、そのまま鼻を走り抜け、頭の中で飛び散った。 あっと思った時には、全ての物の輪郭が光り輝き始め、ついには眩しくて目を開けていられなくなった。 世界が、脳の頂点に向かって、凄まじい勢いで収束していく。頭を垂れて、口を手で押さえ、息を吐き出したまま、何もできない。 回りながら光の渦に溶けてゆく自分の姿が見えた。 青い青い空が広がっている。 茫茫の草が天に向かって伸びている。 いつの間にか、仰向けになって寝ていたようだ。 上半身を起こす。 どれくらい時間が経ったのだろう。随分と長い間眠っていた様な気がする。けれど腕時計を見ると、ものの数分も過ぎていない。眠りがそれだけ深かったということかもしれない。 うーんと伸びをした。ちょうどその時、田圃の横から小さな男の子が現れた。小学校の低学年だろうか。丈も袖もつんつるてんの、絣の着物を窮屈そうに着ている。今時こんな着物を着ているなんて珍しい。右手には小さなヤス、首からかわいい魚篭を下げて、川の中を一心に覗き込んでいる。足元に集中しているためだろうか、まだ僕の存在に気づいていない。 息を殺して見ていると、男の子は、ゆっくりと右手を上げて、突然勢いよく足元の流れに突き立てた。ぐいぐいと捻じって、感触を確かめている。水から上げられたヤスには、五センチほどの小魚が突き刺さっていた。鰍のようだ。男の子が嬉しそうに笑った。まだぶるぶる震える獲物を魚篭にいれようと、顔を上げた。 その瞬間、僕と目があった。男の子はぎょっとした表情になった。眼を見開いたまま、身じろぎ一つせずに、じっとこちらを睨み付けている。 数秒間もそうして、睨み合っていたろうか。声をかけようと、体を動かした途端、大声を上げて泣き出してしまった。 「あ、ごめん、いや、あの、ほら、別に脅かそうとか、そう言うんじゃなくてさ」 まいったな。 「ね、ね、泣き止んでおくれよ」 男の子に近づくと、更に恐怖が募ったのか、手の付けられないような有様になってしまった。ふと、ベストのポケットに、キャンデーが入っているのを思いだした。数年前に煙草を止めてから、口寂しくなるとキャンデーを舐める癖がついてしまったのだ。 「ほら、これをあげるからさ。美味しいキャンデーだよ」 袋から一つ取り出して、手の平に乗せ、男の子の顔の前に突きだした。 それでも男の子は、泣き止まない。 「ほら、これあげるよ」 それでも駄目なので、とにかく、男の子が泣き止むのを辛抱強く待つことにした。僕が悪い人でないこと、安全であることを分かってもらうには、それしかないような気がしたのだ。 随分長い間男の子の前に立ち尽くしていた。その間、誰かが見たら、僕が子供をいじめていると誤解して咎められるのではないかと、気が気じゃなかった。 ようやく泣き声が小さくなり、そのうちにしゃくり上げる程度に収まった。 肩をひくつかせながら、堅く閉じていた目を恐々開いた。きょろりとした目で、キャンデーをじっと見ている。 「ね、これ、君にあげるよ。だから、泣くのを止めてよ」 怖いくらいに僕を睨み付けてから、男の子が口を開いた。 「な、わに、こお、くれっど」 初めは何を言っているのか、分からなかった。もう一度聞き直して、初めてこの地方の方言で、これをくれるのか、そう訊ねているのだと気づいた。 「うん、そうだよ、君にあげるよ」 男の子は、それでも手を出そうとしない。面倒臭いので無理矢理あげることにした。男の子の手を掴んでキャンデーを握らせる。男の子は、かなり緊張した様子で、体をしゃっちょこばらせている。僕が手を放すやいなや、後ろも見ずにその場から走って逃げ出してしまった。随分とまた内気な子供だ。 でも、これで心置きなく釣りに専念できる。流れに目を移すと、いきなり本流の脇で、ぴしゃりと小さな波紋が広がった。 おほほ。 草叢の中を這うようにそっと近づく。すでに結んであった羽アリを投げた。 ぴしっと音がして、毛鉤が消えた。 すかさず竿を立てる。 尺を越える魚が、縦横無尽に流れの中を走り回る。チーッと甲高い音と共に、リールが逆転する。ようやく足元に寄った魚は、幅広の菱形をした、見事な山女魚だった。 そっと流れに戻してやる。 と、今ライズがあったのとほぼ同じ場所で、また水面が割れた。 なんか、今日はすっげぇついてるみたい。 毛鉤を振って水気を飛ばしてから、フロータントをまぶして投げる。 また一投目で来た。ずんぐりとした砲弾型の山女魚が宙を舞う。数回のジャンプの後で、ランディングネットに収まった山女魚は、惚れぼれとするくらいに肥っていた。 ネットから出そうとしている間に、又もや同じ場所で小さな水しぶきが上がった。 おいおい、ほんとかよ。 三尾目は、少し小振りではあったが、これまでの二尾に負けないくらい丸々と肥えていた。 漁協が放流でもしたんだろうか。でも、それにしては、どの山女魚も尾鰭がピンと張って、とても養殖ものとは思えなかった。この川の上流にも下流にも釣り堀はないから、そこから逃げてきたわけでもない。 いぶかりながら、川を眺めていると、またライズがある。 けれど、なぜか、どこかしっくり来ないものがあって、竿を出せない。 何か、変だ。 ふと顔を上げて、それが対岸の景色であることに気づいた。 あれぇ?護岸がない! くすんだ灰色の、古びたコンクリート護岸が、いつのまにか石積みの土手になっている。 近自然工法とか言って、これまでのコンクリート剥き出しの護岸から、自然石などをうまく配して、あたかも自然の川のように見せる場所が増えている。けれど、この川には先週末に来たばかりだ。その時には、確かにいつもの無粋なコンクリート護岸だった。それを壊して新しく作り直すのに、いくらなんでも一週間では無理だ。 何がどうなっているんだ。 違っているのは、護岸だけではなかった。よく見ると、護岸の上にあった村道のガードレールがない。電信柱も、コンクリートではなく、モルタルを塗られた木製のものになっている。白い笠の下に裸電球がぶら下がっていた。 事態を理解できないまま、川を渡って、石積みの土手を登ってみた。 ええっ? そこには、見たことのない風景が広がっていた。遠くの山は同じだが、手前の眺めはまるで違う。第一、足元の舗装道路がなくなって、その代わりに砂利道が続いていた。 道路の向こうにあった新築の家もない。田圃に囲まれて、どこか居心地悪そうなくらい小綺麗にしていた家が、どこにもない。庭先の屋根だけのガレージで、いつもぴかぴかに磨かれて輝いていた赤い車もない。そこにあるのは、一面の田圃だった。黄色く、どこか頼りなく風に揺れる、稲ばかりだった。 何がなんだか分からないまま、怖くなってしまった。あまりの恐怖にいたたまれなくなって、走って石堤を降りた。 草叢に小さくうずくまって、一体これがなんなのか、必死で考えようとしていた。 その時、頭の上で、ガラゴロと音がした。 なんだろうと顔を上げてみると、荷車を馬が引いていくところだった。荷車の上では、煤けた着物の男がキセルをくわえている。見つかってはまずいような気がして顔を伏せた。 しばらくすると、二人の女の子が歩いてきた。十五、六歳だろうか。セーラー服に紅のスカーフをしている。おさげ髪に、頬が赤い。草叢に隠れたまま、二人の会話に耳をそばだてる。 「よっちゃん、東京さ、いぐて、ほんどか」 「うん。女学校さ、いぐ」 「東京かぁ。おらも行っでみでぇなぁ。ハイカラだべな」 「でも、おら、ちょっと怖い」 「よっちゃんなら、大丈夫だ。もす、なんかあったら、これだ。ハァア、踊り踊るなぁあら、ちょいと、東京音頭」 「ヨイヨイ」 「きゃはははは」 「あはは、ああ、おかすぃ」 大きな声で歌いながら消えてゆく二人の後ろ姿を草の隙間から見送った。 これは、どういうことなのだろう。 頭の中で、色々な考えが入り乱れる。フライボックスをひっくり返したように、取り留めもない思考の断片が、辺り一面に散らばる。 ふと足元に、くしゃくしゃに丸められた古新聞があるのに気づいた。中には、生ゴミでも入っているのか、しみだらけだ。広げずに、外の汚れていないところだけを拾い読みする。字体がなんだかとても古めかしい。 「渋谷にハチ公の銅像、立つ」 んん?一体いつの新聞だ。 どうにか日付を探し出す。 昭和九年九月弐拾弐日。 おい、嘘だろう。どうせタンスの底か、畳の下に敷いてあった古新聞だろう。 とにかく草叢から出て、また流れを横切って、田圃側へ帰ろうと思った。そうすれば、このおかしな世界から、出られそうな気がしたのだ。 泳ぐようにして流れを渡り、今さっきまでいたところに戻った。が、振り返ると石堤も木製電柱も、そのままだ。 ふと、あのワインのことを思いだした。そう言えば、眠りから覚めたときに、ワインを片付けた覚えがない。そこらに転がっているのかと、目で探してみたけれど、どこにも見当たらない。しかし、それ以上真剣に探す気にはなれなかった。惜しいと思うより、それどころではない気がしたのだ。 草叢に腰を降ろして、茫然としていると、がさごそと人の近づく音がした。 緊張して身構える。草の中からひょっこり出てきたのは、さっきの男の子だった。 黙って、こっちを見ている。 今度は、僕が口を開く先に、男の子の方がしゃべった。 「な、てんぐさまで、おいだるか」 僕の目を見つめたまま、もう一度同じことを言った。 顎が細く、頭の鉢が開いている。逆三角形の顔の真ん中で、目だけがぎょろりと光っていた。頬はこけ、痩せている。日に焼けて色が黒い分、余計痩せ細って見える。男の子が、今何を言ったのか、理解しようと考えながら、ぼんやりとその顔を見ていて、はっとした。 まさか、そんなことはないだろう。そんなはずがない。 「ね、君、名前はなんて言うの」 恐る恐る訊ねた僕に、男の子は、きりっとした顔を向けたまま、名乗った。 その名を聞いて、愕然とした。 父だった。 つんつるてんの絣の着物を着た男の子は、僕の父だった。 「な、天狗様で、おいだるか」 三度目に聞かれたとき、僕はようやく男の子の、つまり父の言っている意味が分かった。 ごちゃごちゃと色んなものがぶら下がったフィッシングベストに、偏光のサングラス、そしてベースボールキャップ。これまで見たことのない格好の男に、てっきり僕を天狗だと思ったのだろう。 「ああ、そうだよ」 半ば、焼けになって、そう答えた。 男の子が、右手を突き出した。 「こお、かさまい」 握りこぶしが開かれると、小さな手の平に、四角い箱が乗っていた。日の丸と、ほっぺたの赤い兵士の絵が描かれている。その横に大きく、「満蒙アメ」とある。 食べろということだろうか。それで、一つ取ると、男の子は満足そうに笑った。お返しに、キャンデーをあげる。ぴょこりと頭を下げて、瞬く間に走っていなくなってしまった。 草叢に取り残された僕は、そのままひっくり返った。目を閉じると、小さな光の粒が、まぶたの裏でふわふわと飛び交っている。 何がどうなっているのか、よく分からない。けれど、どうやら、僕は時間を飛んで、父の幼少時代に来てしまったらしい。 どうしたらいいんだろう。 しばらく思い悩んでいるうちに、それまで出鱈目に飛びまわっていた光の粒が、徐々に一定方向に回り始めた。次第に速度が早くなり、思わず手を握り占める。 だんだん気持が悪くなってきた。耐えられない。胃が持ち上がり、中身を出そうとしている。 だめだ。 上体を起こし、草叢に手をついて吐いた。二度、三度吐くと、もう出るものがない。それでも、まだ胃が突き上げる。空になった胃が引き攣って、よじれる。 ようやく、胃の痙攣が収まった時には、口だけでなく鼻からも汚らしく胃液が垂れ、糸を引いていた。 鼻に入った胃液のために、咳き込む。とにかく顔を洗おうと思った。 流れに目をやって驚いた。 コンクリートの護岸がそこにあったのだ。 コンクリートの電柱も、ガードレールもそこにある。 そして、足元には、例のワインボトルがあった。 なんだ、そうか。これを飲んで、ひどい悪酔いをしてしまったんだ。変な薬、幻覚剤でも入っていたんだろう。 三半器官をやられたようで、まだ世界がまとまって感じられない。それでも、原因が分かったお陰で、不安は消え、ほっとした。 ひどい目にあっちまった。父譲りの貧乏性も、ここまで来ると災いのもと以外の何物でもないな。もう、拾ったワインなんて飲むのはよそう。 そう思って、顔を洗おうとして、なにかを握りしめているのに気づいた。 手を開いてみると、出てきたのは、紛れもない「満蒙アメ」だった。 以来僕は、休みの日は必ず、例の川に出かけている。 あのワインを口に含み、タイムトリップをしているのだ。 そして、父を草叢から見守っている。 いつ、父が水に嵌まっても助けだせるように。いつ、父が川で溺れかかっても手を差し伸べられるように。 もし、もし僕が父を助けられなかったら。それを思うと居ても立ってもいられなくなるのだ。その時、僕はどうなってしまうのだろうと。
(初出 フライフィッシャー誌1999年6月号)
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