天国への階段を探して

 斉藤令介氏の「天国への階段」は、非常に興味深い問題を提起されていると思います。
 氏が問われている問題は、以下の三つに要約されるのではないでしょうか。

1 産卵場所の環境保護(事件その一)
2 成魚放流の是非(事件その二)
3 スポーツフィッシングとしてのルール(ハンディキャップを背負ったゲーム)

 釣りをする者にとって、そのいずれもがとても大切な問題だと思います。それで、一つずつ自分なりに答えと思えるものを考えてみました。

 1に関しては、比較的に明確な解決が得られると思います。氏が遭遇された事件の場合など、明らかにそこが産卵場所であることを知らないことから起こったものと思われます。ならば、立て看板、あるいは雑誌の記事などにより、川のどの辺が鱒類の産卵に使われるのか、どの時期にその場所に入ることが産卵された卵にとって一番ダメージが大きいのかなど、必要な知識を啓蒙することによって未然に防げるのではないでしょうか。また梅花藻がいかに鱒や水棲昆虫の生息にとって大切なものかを教えてあげれば、わざわざそれを踏みにじるような人も減るでしょう。あるいは更にワンステップ強化するなら、産卵によく使われる区間は禁漁にしてしまうということも考えられます。

 2の成魚放流ですが、これは1と3に関わってきますので、3を先に考えたいと思います。3の答えが出れば、自ずと2の答えも出ると考えるからです。

 3のスポーツとしてのルールですが、ここでルールというものについてちょっと考えておいたほうが良いかと思います。
 ルールには大まかに分けて、二種類あります。一つは、サッカーのルールのようなもの。もし例えばボールを手で持って投げてもいいとか、あるいは審判に当てると得点とかいうようにルールを変えてしまえば、サッカーというもの自体が違ったゲームになってしまいます。更にはルールがなければ、サッカーは存在しません。サッカーはルールを土台にして、成り立つ遊びだと言えます。ルールを破った者にペナルティがくわえられるのは、反則がゲームの存在自体を危うくするからです。
 これに対し、交通ルールのような規則もあります。これは、ルールを変えようが、あるいははたまた存在しなかろうが、車は走り、人は歩きます。交通は存在するわけです。ルールはあくまでも、交通が円滑に流れるためのガイドラインにしか過ぎません。ルールを破った者に対して罰則が与えられるのは、それが他の人の交通を阻害するからです。四〇キロ制限の町中を一二〇キロで飛ばしても、交通はあります。ただ、危ないだけです。
 この二つの違いを念頭に入れて、フライフィッシングのルールとは何かを考えてみます。  このルールを変えてしまえば、フライフィッシングが成り立たない、そんなルールがまずあるでしょうか。私はあると思います。
「人が、フライを使って、魚を釣る」
 これこそが、そして、これだけがフライフィッシングが成立するために必要なルールだと思います。
 これを変更して、「人が、餌を使って、魚を釣る」としても、「人が、フライを使って、女の子を釣る」としても、それはフライフィッシングではありますまい。
 ところで、このルールはよく見るまでもなく、成立するためには三つの条件が揃わなければなりません。
 まず、人がいること。次にフライがあること。そして、魚がいることです。  初めの二つに関してはなんの問題もありません。多すぎるくらいに釣り人もフライも存在します。肝心なのは、三つ目の条件、魚です。
 斉藤令介氏も例に出されているように、狩猟ではターゲットとなる鳥獣類の保護に心血を注いでいます。鳥獣類無くしては、狩猟そのものが成り立たないからです。そのために細かく厳しいルールが存在するわけです。決して、狩猟をゲームとして面白くしようという目的で、ハードルのように作られた規則ではありません。狩猟というゲームを成立させるために欠かすことのできない鳥獣の確保が規則の趣旨です。ですから良い悪い、面白い面白くないは別として、ルールを守らずとも狩猟はできます。となると、このルールは、先ほど述べた交通ルールと同じ類いのものだということが分かります。多くの人がお互いにぶつかり合うことなく、安全に、かつしたいことをするため守らなければならないガイドラインです。
 では魚類保護のためには、どんな規則が考えられるでしょうか。
 魚類の保護、確保としてまず思い浮かぶのは、産卵河川あるいは区間の禁漁、産卵時期の禁漁、キャッチアンドリリースなどでしょう。これらはすでに規則として設定されています。
 ここで斉藤令介氏は、さらにこれに加え、魚にかかる釣り人からのプレッシャーを軽減するルールもあってよいのではと提案しておられます。ドライフライのみという、釣り方の制限がそれです。  しかしよく見ると、この規則には多分に問題が含まれると思います。
 まず、この規則を実行するためには、河川、あるいはその一区間をフライフィッシングのみと限定し、その上でドライフライだけと制限しなければ意味がありません。餌釣りOK、ルアーOK、でもフライはドライのみというのでは、規則としての説得力がないでしょう。守ろうとするフライ釣り師も少ないでしょう。しかし逆にフライフィッシングのみと規制したのでは、斉藤令介氏の理想とされている「川の主のような爺さんや、餌竿を持った地元の子供と話をしながら釣りを楽しみたい」という世界をも否定してしまうことになります。つまり、「ドライフライのみ」というルールは、非常に成立の難しいルールだということが分かります。
 では逆に、「この河川で魚を釣る場合は、水中に鉤がなければならない」という規則だったらどうでしょうか。これで規制されるのは、ルアーならトップウォータープラグ、フライならドライと、それぞれの釣り方のごく一部です。餌釣りはこれまで通り、全く同じ方法で楽しめます。しかし、ドライフライというのはフライ釣り師にとって抗しがたい魅力があるものです。それなのに、「ドライフライ禁止」とされたら、どうなるでしょう。自ずとその川から足が遠のくのではないでしょうか。そうすれば、少しではありますが、釣り人からのプレッシャーが減ります。更にそれが定着すれば、魚達は少なくとも水面に浮かんでいる餌だけは安心して食べられるのだということを学習するかも知れません。こう考えると、「ドライフライ禁止」の方が、餌釣りの子供たちとも一緒に楽しめ、かつ魚達の保護という点では勝っているように思えます。
 しかし実際問題として、「ドライフライ禁止」ルールを支持するフライ釣り師は皆無でしょう。
 「ドライフライ禁止」ばかりでなく、釣り方の制限という形での規則が現実的に設立が難しいのは、この規則が、交通ルールと同じ類いのものだからです。
 まず規則である以上、全ての人に適用されるものでなければなりません。さらに、特定の人を排除するものであってもいけません。自転車あり、歩行者あり、車あり、オートバイありという現状を認めたうえで、そのいずれの人もが安全に目的場所にたどり着けるようにするのが交通ルールです。いくら、他の車や、自転車がウザイからといって、オートバイ以外禁止という規則を立てることは許されません。それと同様の理由が、釣りの規則の場合にも当てはまわけです。餌釣り、ルアー、フライ(ドライ、ニンフ、ウェット)など、全てを認めたうえで、それでどうやったら魚を皆が楽しく釣れるか、そこに的を絞らなければならないのです。そう考えると、釣り方の制限というルールが、非常に特殊な場合を除いて、成立しないことは明らかでしょう。
 そこで魚達へのプレッシャーの軽減という、ルールのそもそもの設立目的に戻って考えることにします。とりあえず釣り人の数の制限すればよいのではないでしょうか。
 これには、いくつか方法があります。まずは、一日に入川できる釣り人数の制限。この方法でまず思い出されるのは、イギリスでの鱒釣りでしょう。川がビートと呼ばれる区間に分けられ、入ることのできる釣り人も限られています。これはイギリスでの現状を見れば分かる通り、よほどうまく運営しないかぎり、鱒釣りがお金持ちだけのものになってしまう危険があります。一部の人(つまりこの規則ができても、絶対に釣りができる側に回れることの確かなお金持ち)を除いて、この方法を全国的にかつ全ての川に敷延しようとする人はまずいないでしょう。地元の子供が釣りをするなど、まず不可能なことになってしまいます。
 もう一つの方法として、年間釣り日数を制限するということも考えられます。つまり「いかなる釣り人も内水面で、年間三〇日以上釣りをしてならない」というふうに決めてしまうのです。三月一日から九月三〇日までの二一四日間、週末は三〇回しかありませんので、それほど非現実的な数字ではないと思います。この方法の利点は、入川数制限のように川を一部の人が独占する恐れはないということです。つまり子供でも、小さい時からルールさえ守れば、ゲームに参加し楽しむことができるわけです。
 釣りではありませんが、これと同じ発想の元に、石油ショックの折り、ガソリン不足に悩んだニュージーランドでは、自家用車を運転していい日が制限されました。偶数日に運転してよい車、奇数日に運転してよい車といった具合です。限りある資源を皆で有効に使うためには、こういう制限も致し方なくなるのかも知れません。
 釣り人の数の制限はどうもというのであれば、もっとお手軽にキープしていい魚の数を減らすという方法もあります。またまたニュージーランドの話で恐縮ですが、タウポ地区では、キープしていい魚の数が、一二尾から八尾に、そして現在では三尾に減っています。これは魚の数が減ったからではありません。そうではなく、釣り人の数が増えたためのルール変更です。増加した釣り人の数に合わせて、キープしていい魚数を減らしているのです。釣り人による水揚げ量は年間ほぼ二万から二、五万トンと一定しています。日本の漁協でも、釣り人の数に合わせて、キープしていい数を減らせば、ある程度の効果は出るのではないでしょうか。
 色々と考えてきましたが、魚へのプレッシャーの軽減は、非常に難しい問題で、そう簡単に最適解が出るとは思いません。様々な議論と模索を繰り返さなければならないでしょう。  しかし、先ほども述べましたように、規則を定めるとしたら、全ての釣り人に同様に適用され、かつ特定の人に有利に働くものであってはならないのです。もし、釣りをスポーツとして捕らえるならなおのこと、ゲームのプレーヤーが、同じ一つのルールの元で参加するのでなければ、フェアなゲームとは言えないでしょう。
 そしていつの日か、魚へのプレッシャーが減らせるならば、当然自然産卵、世代交代も行われるようになるでしょう。そうなれば、成魚放流もする必要が全く無くなります。もうお気づきだと思いますが、これが問題2への回答です。逆に言えば、自然産卵、世代交代が行われるまでは、暫定的処置として、成魚放流も止むを得ないと思います。

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