トラウトバム日本語版        

DIARY

7月1日

フライの雑誌の掲示板にて、カブラー斉藤氏の記事について、議論めいたことをする。議論めいたことと書いたのは、議論のようで、議論になっていないから。Shin Ohtani氏と僕の言っていることは、全く論点がすれ違っている。
僕が言ったのは、英語のスペル間違い、発音表記間違いなどは、誤字脱字の類(つまりケアレスミス)だから、声を荒げてあげつらうことではないということ。
それに対し、Shin Ohtani氏は、カブラー斉藤氏の記事は、有名釣り人に盲従する主体性の無い人たちに対する批判だから、良い、面白いというもの。
一目でわかるけれど、これは全く二つの別の論点だ。重なり合うところは、何もない。だからShin Ohtani氏の言っていることは、僕が言ったことに対しての反論でも返答でも感想でもない。ただ単に、僕がカブラー斉藤氏の記事になんだかなと思ったという、その部分に反応しただけだ。
邪推するならば、カブラー斉藤氏の今回の記事を全面的に支持する人たちは、彼が有名釣り人批判をしているので、鬱憤バラシとして読んでいて気持ちがいいと思うのではないだろうか。だから、僕がその部分とは全く関係ないところ(スペル間違い、表記間違いをあげつらう正当性)を批判しても、それがあたかもカブラー斉藤氏全体を批判しているかのように感じ、擁護して廻るのではないだろうか。しかし、もし、Shin Ohtani氏の言うところの「良心と精神の自由に基づく主体的選択が大事」であるならば、カブラー斉藤氏の書いた記事を読む際にも、正当な意見表示の部分、そうは思えない部分を読み分けるべきではあるまいか。カブラー斉藤氏万歳と持ち上げてしまっているから(つまり読み手としての良心と精神の自由に基づく主体的選択を放棄してしまっているから)、なんでも、カブラー斉藤氏の書くことはよいと思ってしまうのだろう。

ちなみに、Shin Ohtani氏の言う「良心と精神の自由に基づく主体的選択が大事。筋はオレが作る」だけれど、これだけでは、自分が世界の中心であると信じている幼児と変わらない。作った筋が、他人から見ても妥当なものであるかどうかを考慮に入れないなら、自分の欲求を通したくて、泣きわめいているわがままなガキと全く同じだ。
そんなガキには人は殺せても、社会は変えられないだろう。

新しい「言い訳」を書きながら、ふと思ったこと。
もう、ここ何年と新しい釣り竿、リールを買っていない。別に今持っているやつで魚は釣れるし、ちっとも困っていないから新しいものを買う必要性もない。第一お金もないし。
これって、ワイタハヌイ辺りで長靴履いて、ガイドも3つくらい無い竿で釣りしてるマオリのおっちゃんの言いそうなことだなと思った。
そういうわけで、これからは、ワイタハヌイ派フィッシャーマンを名乗ろうかしら。

 

7月2日

夕方、駄犬の散歩がてら、トンガリロ川まで様子を見に行く。スクールホリデーの週末ということで、とにかく沢山の釣り人。あそこのプールにもここのプールにも釣り人が並んで竿を振っている。鱒はちょぼちょぼ釣れている様子だけれど、湖から新しい群れが入ってきてはいないみたい。とりあえず、水曜日辺りにでも釣りに行こうかなと思う。その頃なら、今よりまだ少しはましだろう。明日、明後日と雨が降るみたいだし、群れも登ってくるかも知れない。ワイタハヌイ派の私としては、イクラのたっぷり入っている太めの雌を釣り上げたいところである。
 

7月3日

実家から小包みが届く。中身は頼んでおいた本数冊と、焼酎「かなた」。
本は、
  • 篠遠 喜彦+荒俣 宏「楽園考古学」
  • アラン・ソーカル+ジャン・ブリクモン「「知」の欺瞞」
  • 夢枕 獏「神々の山嶺」上下
  • 野矢 茂樹「無限論の教室」

  • この他に、夢枕 獏「陰陽師 鳳凰の巻」もたまたま同時に着く。これはいただき物。
    「無限論の教室」は、頼んでおいたことをすっかり忘れていた。おかげで、この間日本に行ったときに自分でも買ってきてしまったので、同じ本が二冊になる。相変わらず馬鹿だなぁと思う。でも、「人類生物学入門」なんか、半分くらい読んだところで、あれ、この本、読んだことがあるかも知れないと本棚を探ったところ、お見事もう一冊出てきたのだから、それに比べたら可愛いもんだ。

    ヒュームが言うように、人間は理性の生き物ではなく感情の生き物だということを改めて噛みしめる、今日このごろ。

    メモ

    「手の届かないブドウは酸っぱい」というが、どうしてそれがブドウだと判るのだろう。ひょっとしたらただのビー玉かも知れない。

    精神が、脳の神経作用によるものだとして。沢山の人を地べたに並べ(10億人ぐらい)、右足を叩かれたら、左手で左の人の足を叩くという規則のマスゲームをする。つまり神経のネットワークをシミュレーションするわけだ。この時、10億の民が作り上げた巨大脳はどんな意識を持っているのだろう。パタパタと手で足を叩く音だけが、大地を駆け抜ける。一人一人の人は何が起こっているのか、全く判らない。でも、確かにそこには考える巨大な脳が存在するという不思議。
    あるいは、これを今のインターネットで考えてみる。あるコンピュータが刺激を与えられると、隣のコンピュータに刺激を送る。隣といっても物理的に隣に無くてもいい。ケーブルで繋がれて、その間で情報の伝達ができるなら、隣と見なせる。何万というコンピュータを結んだネットワーク。それは今もう既にこの世の中に存在しているのだけれど、そのネットワークは意識を持っているのだろうか。
    個々の神経細胞が、脳全体で起きていることを知りようが無いように、僕たちもこのネットワークが何を感じているのか、知ることはできないのかも知れない。

     

    7月5日

    ひでぇ、ひでぇっす。どうして、そういうことをするんですか、もう。
    私が書いた原稿。
    「 釣り人というのは、嘘をつくものだ。
     釣リ逃した魚を大きく言うのは当たり前。釣りに出かけるためには、ありとあらゆる言い訳をでっち上げ、さらには高価な釣り道具をまるでお買い得商品だったかのように嘘をついて買い込む。
     そんなふうに世間一般では見られているらしい。いや、中には、釣り師と話をする時には両手を縛っておけだのと、自慢げに自ら吹聴する釣り人もいるくらいで、まったく始末に終えない。
     僕は何も全ての釣り人は嘘をつかないなんて言いたいのではない。確かに釣り人の中にも嘘をつく者もいる。しかし、それは世の中には一定の割合で嘘つきがいるという、当たり前の事実を反映しているだけのことで、なにも釣り人の皆が皆嘘つきであるということにはならない。」
    「フライフィッシャー八月号」に出たもの。
    「 釣り人というのは、嘘をつくものだ。
     釣り逃した魚を誇張して言うのは当たり前。釣りに出かけるためには、ありとあらゆる言い訳をでっち上げ、さらには高価な釣り道具をまるでお買い得商品だったかのように嘘をついて買い込む。
     そんなふうに世間一般では見られているらしい。いや、中には、釣り人と話をする時は両手を縛っておけだのと、自慢げに自ら吹聴する釣り人もいるくらいで、まったく始末に終えない。
     なにも僕は全ての釣り人がそうだと言っているワケではない。世の中には一定の割合で嘘つきがいるという、当たり前の事実を反映しているだけのことで、なにも釣り人の皆が嘘つきであるということにはならない。」

    まず「大きく言う」を「誇張して」と書き換えられたのは腹が立つ。どれほどの違いがあるというのだ。ま、しかし、それはいい。些細なことだ。でも、でもだよ。
    「僕は何も全ての釣り人は嘘をつかないなんて言いたいのではない。」と
    「なにも僕は全ての釣り人がそうだと言っているワケではない。」では、意味がまったく逆になるじゃないか。そもそも意味が通じなくなるじゃないか。
    直前の文章で、世間一般では釣り人は嘘つきといわれていると述べているのだから、「そうだ」の指し示す内容は、もちろん、「釣り人は全て嘘つきだ」になる。「そうではない」と書き換えるならともかく、これじゃ、まったく文章としておかしいだろう?それに、「確かに釣り人の中にも嘘をつく者もいる。しかし、」を抜いちゃったら、文意が通らなくなるじゃんかぁ。

    金属バットを持って殴り込みたい気分だが、ひ弱なのでできない。
    釣りにでも行こう。

    担当編集者と編集長にメールを送った。
    さて、返事は来るのだろうか。

    と書いて送った数時間後、編集長からメールが来た。
    私の改行の仕方が紛らわしかったので、担当編集の人が誤解して書き換えたのだそうな。
    というわけで、私の方にも落ち度があるということだ。
    でもとにかく謝罪していただき、これからは文章を勝手に書き換えず、その前にこっちに連絡を入れてくれるということなので、ちゃんちゃんちゃんと手打ち式。
    これだけ素早く対応してくれると、相手の誠意が感じられて、信頼感が増すよな。と思った。

     

    7月8日

    妻がPCを買うというので、いろいろと調べている。私個人としては、マックがいいじゃん、マックにしなさい、ね、ねと提案したのだが、一笑に付された。マックは嫌いらしい。
    日本から買って帰ろうかと言う話もあったのだが、デスクトップを考えているので、重いし、それに何かあった時の保証もと言うので、こっちで買うことになった。問題は、ニュージーランドで買ったPCを日本語で動かせるか、だ。
    あちこち人に聞いたり、見て回ったりした結果、インターネットをする程度なら、グローバルIMEをダウンロードして入れればいいということが分かった。WORD2000もそれで使えるらしい。
    ふーむ。
    ウィンドウズを日本語版に替えるのもほとんど問題はないようだ。タイでは、タイ語版ウィンドウズのPCを2万バーツくらいで買って、それにすんなり日本語版ウィンドウズを入れているみたい。が、OSの入れ替えには、ある程度の技術的知識がいると書いてある。だから、既に日本語に入れ替えたものも売っており、それは5万バーツもするとある。
    OSの入れ替えとかセットアップって、そんなに難しいんですか。マックなら、CDで立ち上げて、古いOSを捨て、新しいのを書き込めばいいだけなんだけど、、、。
    どっかに、「猿でもできるウィンドウズ、OSの入れ替えとセットアップ」なんてホームページはないもんだろうか。
     

    7月10日

    昨日は、随分と久しぶりに、トンガリロ川でカヤックをやった。アクセス10とよばれる区間で、最後にここを漕いだのは4、5年前じゃないだろうか。その間に大きな洪水もいくつかあったから、川の様子はかなり変わっていた。漕いだことのない3級の瀬を、下見もなしに下るのは、適度にスリリングで面白い。途中、先がどうなっているのかまったく分からないドロップが一つあって、落ちながら、ひょっとしてピンしたらかなり厭だなと思った。が、バウをガツンと打っただけで無事に通過。いやはや、なかなか楽しいカヤックだった。

    PCを買うので、いろいろと情報を漁っている。候補の一つだったヒューレット・パッカード社のページを見ていたら、こんなのがあった。皺一つない静水をスイスイ進む様子とか、荒波白波をものともせず豪快に突き進むイメージでつけたのかも知れないけれど、「素人が軽い気持ちで手を出すと、すっごい不安定で、すぐに沈する」という厳然たる事実については何も考えなかったんだろうか。
    もし、その上でつけたとするなら、あっぱれ。

     

    7月12日

    タウポの町の、PCショップに行った。デバイスドライバーのことなどあれこれ細かい話を聞きに行っただけなのだが、ほいほいほいと話が決まってしまった。いや、やっぱり、Noel Leemingみたいな家電屋じゃなくて、専門店だけあって店員もよくコンピュータのことを知っているわな。持っている日本語版ウインドウズ98SEのCDを見せ、これを入れたいんだけどと言ったら、「じゃ、英語版はいらないから、となるとちょいちょいちょい」とカタログのWINDOWS98の所を線で消し、値段も200ドルほど引いてくれた。おかげでその分メモリを増やすことができた。
    今度の月曜日にもう一度店に出かけ、店員さんと一緒にウインドウズ98SE日本語版のインストールをする。
    それにしてもちょっと複雑な気持ちである。自分がわずか3年ほど前に買ったパソコンより性能のいいものが、その三分の一の値段で手に入るなんて、、、。
    それがパソコン界の定めと思って諦めるしかないのだが、心情的な悔しさは消えてはくれない。
    今じゃ二万三万で買えるワープロも、日本で最初のものはたしか数百万もしたはず。
    例えそういう事実を思い出したところで、この悔しさが拭われるものではないのだよ。
    ちっくしょー。

    が、バンドを作っていて、今度CDを出した。バンド名のNi:na Crageenaが、一体どういう意味なのかまったく知らないけれど、是非とも売れて欲しいものだと思う。すっげぇ有名になって、テレビにもバンバン出てくれないものかと思う。そうなれば、「あのNi:na Crageenaのギターの兄」ということで、こっちにもなんか、お金とか仕事とか、あるいは若い女の子とか、そういう余禄が回ってくるのではないかと期待しているのだ。
    頑張ってください。
    兄は、あなた達の成功を、切実に、心の底から、真実お祈り申しております。

     

    7月13日

    畑にコンポストを入れた。それ以外は、何をするというのではなく、のんべんだらりと一日を過ごす。
    本当は、こんなことをしていちゃいけないんだよな。
    しなくちゃいけないことがあるのに。
    そう、分かっていながら、犬の散歩をしてみたりパソコンで遊んだりして、無駄に時間を潰す。
    足元をチリチリと炙られるような焦燥感と、にもかかわらず、ずるずると怠惰に流れる日常。
    こぶしを握りしめて、がぁっと叫びたくなる。

    明日は、もう少しマシな一日にしよう。

     

    7月16日

    「些細なことに喜ぶのは、些細なことに悩まされているからだ」と言ったのは、パスカルだっけか。

    今日の夕飯は、スパゲッティ。めん類がとにかく好きで、しかもしっかり腰のあるやつを食べたくて、このところ手打ちに走っている。うどんはもちろん、スパゲッティも自家製だ。デュラムセモリナ粉を買ってきて、卵を割り入れ、ひたすらこねくりまわして延ばして切るだけ。すごく簡単。パスタ切り機も130ドルくらいで売っているけれど、特に必要はない。この冬にはラーメンにも挑戦してみようと思う。蕎麦は、新鮮な蕎麦粉が手に入らないから無理だろうな。

    ジョン・D・バロウ「科学にわからないことがある理由」を読み終わる。翻訳がひどく、日本語になっていない箇所が多々あって、意味をとるのにかなり苦労したけれど、なかなか面白い本だった。

    アラン・ソーカルの「「知」の欺瞞」を読み始める。これは、随分前からネットなどでも、いろいろ取り沙汰されていたので、興味があった。まださわりしか目を通していないけれど、なかなか面白そう。

     

    7月18日

    PCである。日本語版ウインドウズのインストールは無事に終了した。ワープロ関係の英語版ソフトもパッケージで付いてきたのだが、残念ながら日本語は受け付けなかった。まぁ、とりあえずはネットが日本語で出来ればいいというので、妻の希望する日本語版ネスケ(ネコミ)をダウンロードしようとする。が、どうしても、うまくいかない。かなりしつこくトライしたけれど、駄目なのでとうとう諦めた。仕方なく英語版をダウンロード。しかしインストールして走らせてみると、これもうまくいかない。送るつもりで書いたメールを保存しようとした途端、「不正な処理が行われました。だから、このアプリは終了するよん」と言い張る。ええ?そりゃないじゃん。あちこちいじってみるが、糠に釘、のれんに腕押し、まったく埒が明かない。そればかりか、ネコミ自体を終了させると、しばらくしてやはり同じダイアログが出てくる。
    妻は、それなら、IEとアウトルックを使うと言っているのだが、僕は我慢ができない。いや、別にそれらのアプリが嫌いだというのではない。「不正な処理が行われました」の一文が気に入らないのだ。そういうことを、買ってきたばっかりの新品のパソコンに言われたくないじゃないか。使い古しの、あちこちファイルも破損し、ディスクもすり減り、CPUも熱で溶けたようなパソコンならいい。でも、お前は違うだろぉ。さっき、買ってきたばっかりだろ。中国でおぎゃぁと生まれ、そのまま真っ直ぐ家に来た、まだまだうぶなパソコンじゃないか。どうして、そういう訳のわからないことを言うのだ。
    ネスケ、ネコミ用のユーザーファイルが怪しいのではないかと睨んでいるのだが、いまだそれがどこにあるのか探していない。それよりも、いっそのことCドライブを初期化して、OSからなにからまったくの再インストールをしようかと考えてしまう。抗いがたい誘惑である。

    夕飯は、手打ち煮込みうどん。

    「「知」の欺瞞」は、非常に面白い。これを読むと、クリステヴァを読み始めたものの途中で投げ出したのは、僕の頭が悪かったせいばかりではないのだなと、少し気が楽になる。

     

    7月20日

    ネコミは、ダブっていたユーザーファイルを消して、問題解決。
    しかし、56kモデムの接続がスムーズでない。ただ単に家の電話回線が悪いだけで、マックでも同じ症状が出ている。ネットで遊ぶには、接続スピードは速いほうがいいのだが、メールくらいしかやらない妻は、とにかく一発でつながって欲しいらしい。というわけで、あちこちネットを走り回って、モデム、ATコマンド、ウインドウズ98のお勉強。まさに、泥縄式付け刃的一夜漬けで、どうにかモデムをV30(33.6k)に落とす。お陰で接続ミスはなくなった。

    三時過ぎにトンガリロに釣りに行く。昨夜雨が降ったのに、水位はほとんど変わらず。いつものポイントで、すぐに一尾あげ、もう一つばらす。あげた鱒は、雄の50チョイのもの。アベレージより小さい。
    「こういう小さいのが、また子供を作って増えても困るよな」
    と理屈をこねてキープ。
    キープするのにいちいち言い訳をするところが、まだまだ純正ワイタハヌイ派になり切れていない証拠。精進あるのみ。

     

    7月21日

    昨夜かなりの雨が降り、トンガリロ川はまっ茶色。水位も1メートルくらい上がっているだろうか。これで新しい群れが湖から昇ってくるだろう。楽しみである。

    アップルが新しいコンピュータを発表した。面白いデザインだなぁとは感心したけれど、別に欲しいとは思わなかった。でもスペックを読んで驚いた。G4 500MhzはPentinum 800Mhzの2.2倍も速い!?これを見た途端、無性に欲しくなった。今の私の稼ぎでそんな余裕はないとわかっていながら、欲しいのだ。だいたいワープロとしてしか使わないのだから、今のG3で充分すぎるほど速いと承知の上で、欲しいのだ。
    田舎の砂利道をとろとろ走るだけなのに、ただ速いというだけでフェラーリを欲しがるようなものかも知れない。
    宝くじでも当たらないもんだろうか。

     

    7月26日

    ま、その、なんだ、速いコンピュータなんてものは、グラフィックデザイナーみたいにCPUをガンガンぶん廻すような人でないと必要ないし、僕なんかワープロとネットくらいだから、これでいいのだ。いくら速いコンピュータを持っていても、家の中でポルシェを乗るみたいなもんだし。
    そう自分に言い聞かせて諦めた途端、友達から「ダイアルアップを辞めてケーブル回線にした」というメールを貰った。なんでも、僕が44kとか33kとか、ひどい時には14kでよたよたネットをやっているのを横目に、300kから400kくらいですっ飛ばしているらしいのだ。
    つうことはなんですか、僕が一時間もかけてダウンロードしているファイルを、ひょっとして5分弱で手に入れてるってこと?それじゃ、MP3の音楽ファイルでも、ほとんど落としながら聞けるではないか。椎名林檎の違法海賊版コピーのMP3も、欲しいだけ持ってこれるんじゃん。
    うきーっ。ぐやじい。
    改めて、田舎に住んでいるのだなと実感させられた。いつかは、ここにもケーブルが引かれる日も来るかも知れんが、その頃には都会ではもっと速いもんが手に入るんだろうしなぁ。

    閑話休題。
    この間の雨が良かったのか、トンガリロにはかなり沢山の鱒が昇っている。今日の午後釣りに行った近所の大工は、60センチクラスの鱒を20尾近くも釣ったと言っていた。明日、仕事を終えたら僕も行ってみよう。

    と、せめて田舎に住む利点を強調して友達を悔しがらせたいのだが、友達は釣りをしないので、こう言われてもなんとも思わないに違いない。そう思うと余計に悔しい。

     

    7月29日

    今月の頭から、家計簿をつけ始めた。正確に言うなら、収入はつけず出費だけを記録しているので、支出簿だ。ニュージーランドに来て14年、借金にも喘がず、かといって貯金もできず、まさに手から口への生活を綱渡り的に楽しんできたのだけれど、具体的に一体どれくらいのお金を使って生活しているのか、まったく掴んでいない。もちろん税金の支払いなどがあるから、年収はちゃんと知っている。それがこの国の平均年収を大きく下回っていることも承知している。でも、そのお金がどこに消えているのか、それが謎なのだ。この支出簿をちゃんとつけておけば、一年後には、ある程度大まかなことがわかるはずだ。
    わかって、どうするって?うーむ、そこまでは考えていない。

    すっげぇ速いコンピュータをすっげぇ速いケーブルに繋いでいる友達 に対抗するべく、僕も新兵器導入した。まさか、こんなもん、持ってないとは思うのだが。持っているとしたら、惨敗である。

    「「知」の欺瞞」を読み終わる。かなり面白い本だった。文系の、訳のわからん言い回しを好んでする人には、良いお薬になるんじゃないだろうか。
    鈴野藤夫「峠を越えた魚 アマゴ・ヤマメの文化誌」平凡社を読み進める。博引旁証、博覧強記、物凄い量の文献を漁って書いているなかなかの力作。「釣りの言い訳」を書くときの資料、ネタの起爆剤として使えそう。

     

    7月31日

    4時に仕事を切り上げ、釣りに行こうとするが毛鉤がないことに気づいた。慌てて重たいニンフを3つ、イクラフライを5つ巻いて、それを握りしめて川に出かける。駐車場から歩くこと30分。いつものポイントにフライを投げると、すぐに来た。55センチほどのアベレージだ。が、なんたることか、あっさりバレる。目茶苦茶風が強く、自分に鉤が刺さるのが恐かったので、鉤の返しを潰しておいたせいかも知れない。気を取り直して投げると、またすぐに来た。「逃がさへんで、逃がさへんで」と念仏のように唱えながら、ランディング。やはり55ほどの雌。そこから10メートルほど上流に移動すると、またヒット。おほほほ、ついておるわいと思う間もなく逃げられる。やはり、返しを潰しておいたからか。しばらく粘るも、ヒットはなし。5時半頃に諦めて帰る。
    結局ついているのかついていないのか、良くわからない釣りだった。でも、ワイタハヌイ派としては、雌でイクラがあったので、よしとしよう。