トラウトバム日本語版        

DIARY

8月2日

内田氏からメールをいただいたので、その返事を書く。
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ごちゃごちゃと書き連ねましたことに、ご丁寧なご返事をいただき、どうもありがとうございます。

カヌーの語源が日本語のカノーだという説を唱えておられるのが商船大学の教授だということですが、大学教授だからその言っていることが信用に足るかというと、決してそうではないと思います。
たとえば、「新」の「にい」という読みは、古い時代には「にふ」と書かれておりました。これはまさに英語のnewと通じるものがあり、このことから英語を含むインドヨーロッパ語族と日本語は深い関係にあると言っている教授もおりますし(琉球大学教授 城間正雄氏)、またいくつかの語彙、並びに用法が似ているからということで、日本語とインドのタミル語を結びつけた教授(学習院大学 大野晋氏)もいます。しかし、もしこれらをすべて信じていたら、日本語は世界各地の言語と関係があることになってしまいます。
つまり、いくつかの語彙が似ている、あるいは同じだということだけで、二つの言語の間に何らかの関係があったとするのは、根拠として十分ではありません。偶然の一致ということがあるからです。
人間の各言語は、それぞれ数万の語彙を含んでいます。しかし、人間が発音しわけられる音の数は限られていますし、1単語の長さも実用という点から、あまり長くすることはできません。そのため、異なる言語であるにもかかわらず、似たような意味の言葉が似たような発音で表されることが起こるわけです。とくにその発音を文字という形で書き表してしまうと、一層、類似が際立ってしまいます(英語のlaughも日本語式に書くとラフとなり、こうすると「笑う(わらふ)」とさらに似てきます)。言語間の関連づけについて、寺田寅彦は、もう50年以上も前にこの方法の誤りを指摘しており、じっさいに日本語、とくに古事記をマライ語で解釈してみせ、もっともらしいことが言えてしまうことを提示しています。

どうして、こんなことをくどくどと書くかといいますと、内田さんの記事やカマ・ク・ラ号のことはそれだけでも素晴らしいのだから、わざわざそんなことを書く必要はないのではないか、それどころか書かないほうがよいのではないかと思ったからです。大きなお世話と言われれば、それまでですが。
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3時過ぎにトンガリロ川に釣りに行く。
このところ雨が降らず快晴続きなので、透明度は上がるわ、水位が下がるわで、底までくっきり見透かせる。
魚は少ないようで、いつもなら数尾並んでいるのが見える場所も、空っぽ。金曜日のせいなのか、やたらと釣り人の数は多く、どこに行っても人ばかりで魚の気配なし。誰に聞いても、あんまり釣れていないみたい。
そこで、一句。
白河の清きに魚もすみかねて、元の濁りの田沼恋しき

8月4日

オーストラリアに住んでいる知り合いのライターからメールが来た。今度、ニュージーランドに住むためのガイドブックを書くことになったので、協力して欲しい、とのこと。
ガーン。
ショック。 実はその本は僕も狙っていたのだ。機会を見て、こちらから出版社に話を持っていこうと思っていたのだが、遅きに期してしまった。あまりにもがっかりとしたこともあり、協力の話は断らさせてもらう。単なる協力で報酬はないというから、どっちにしてもこちらにはなんのメリットもないのだけれど、これまでにいろいろと仕事の世話などをしてもらったこともあり、さんざん迷った揚げ句の決断。
やっぱり、我が道を行くしかあるまいと、覚悟をしたのはいいが、さてその我が道とはどの道だったかと、ちと不安になりつつある今日この頃。

8月5日

内田氏よりお返事をいただく。
色々な意見はあるので、それをいちいち信用していたら大変だが、そういう意見があることを紹介することも大事だ。ジャーナリストというのはそういう仕事をするものだと思う。
そんな内容だった。
ある意見、考えを紹介するというのはたしかにジャーナリストの仕事だが、その意見だけでなく、それを取り巻く周りの状況(賛成、反対、疑念、検証など)を含めて紹介するのが真のジャーナリズムなのではないかと思う。
けれど、近ごろいろいろと目にするものを思い起こすと、何だかその辺が怪しくなってきているような気がしてならない。たとえば、 「体にいいマイナスイオン」。これなど、「マイナスイオンは体にいい」という一方の主張を紹介するだけで、それに対する反論、疑念には全く触れられていない。おかげで単なる業者のチンドン屋的記事に終わっている。もし、ジャーナリストとして紹介するのであれば、いろいろと関連の専門家に意見を聞き、全体像が見えるようにするのがプロの仕事というものではないのだろうか。ちなみに、この記事を読んで担当記者に対し質問を送った専門家の疑問や考えを読むと、「マイナスイオン」がどのような類いのものか、やっとわかる。
あるいは、天下のNHKの「奇跡の詩人」。脳に病気を持つ子供は、実は、その内部には素晴らしい人を隠し持っているのだが、ただ単にそれを外に表す術が脳障害によって奪われているがために、分からないのだ。それをある療法とコンピュータの助けを借り、子供の意志を母親が代わりにキーボードに打ち込むことによって表現できるようになった。というのが番組の大筋。この療法については、数年前にアメリカのニュース番組で観たことがある(「脳の中に囚われた人」とかいうタイトルだった)。が、そのアメリカの番組では、実際に子供が意思表示をしており、母親は単なる伝達の媒介としてパソコンのキーを打っているのか、それとも子供とは無関係に母親が自分の思うことを打ち込んでいるのかの区別がつかないという批判、また医学界では信ぴょう性に欠けるという判断がされていることなども合わせて紹介されていた(母親に、悪気がなく、本当に子供の意志だと信じ込んでしまってキーを打っているなら、どのような質問を母親に向けたところで、例えうそ発見器にかけたところで、「私は子供の意志を単に打っているだけ」と答えるだろう)。翻って、はたして「奇跡の詩人」にはその視点はあったか?

腰がちょっと、痛い。
なぜだ?なぜ?なぜ?なぜ?
釣りにもカヤックにも行けぬではないか。

8月10日

オークランドに行って、領事館に出頭。日本に置いてきた電話加入権を弟に譲ることになり、それには私の住民票がいると言われたのだが、そもそも住民票がない。それで、書類に捺印した人間が本当に私ですという証明書が必要になり、領事館までわざわざ出向き、領事館員の目の前で書類に記入するはめに。やれやれ。

オークランドでは、根岸さんにご案内してもらって、桟橋からサヨリ釣り。小さな丸浮きの下にちっちゃな鉤を二つ結び、それにイカ足を餌にぽちゃりと投げ込む。明確なあたりがほとんどだけれど、たまに微妙なやつもあったりして、どうしてどうして夢中になってしまった。ちょっとあたりが遠のいたときには、浮きを外し、底近くを狙えば、美味しそうなアジが来る。おまけに竿が延べ竿なので、アジが走るたびにキーンと糸鳴りなんかして、いやぁ、楽しかった。やっぱり釣りは面白い。これは是が非でも、海のそばに住まないといけないなぁと改めて感じた次第。
夜は、そのまま根岸さん宅に泊めていただく。黒木さんも来て、例によってワインのテイスティング。途中で黒木さんが帰ったあたりまでは覚えているのだが、ふと時計を見たらもう2時過ぎで、これはいけない、もう寝ましょうというまでの間の数時間の記憶が全くない。へべのれけに酔っぱらって、くだまいてからんだんだろうな、きっと。それもしつこく。
ちょっと、反省。

8月15日

オークランドに行った際に、整体で腰を揉んでもらったのだが、どうも調子が良くない。揉んでいるときから、やたらと痛む。「だぁ!」「うわぁ!」と声を上げ、身を堅くしても、おっさんは一向に気にするふうでなくぐいぐいと揉み込む。その痛みを我慢して治るのならともかく、もう一週間も経つのに、全く良くなっていない。
以前、腰をおかしくした際、香港でマッサージをしてもらったら一発で治った。去年、やはり腰が痛くなり一月近く長引いた際には、今回と同じ整体治療院で揉まれ、三日ほどで治った。で、マッサージの効果をある程度信じていたのだが、今度の経験でそれがちょっと疑念に変わりつつある。もっとも、整体という療法ではなく、行ったところが悪かっただけなのかもしれないが(そういえば、前回といい今回といい、診療所には僕以外誰の姿もみかけない。ひょっとして有名なヤブ?)。

8月20日

根岸夫妻、黒木さん、そのフラットメイトが来宅。例によって例のごとく、たくさんのワインを飲み干す。今回の目玉は、ロンドンのWine and Spirits Competitionで、ベスト・ソウビニョン・ブランに選ばれたVilla MariaのClifford Bay。なかなか海っぽい、藻のような味わいがそこはかとなく感じられるワインであった。
土曜日にボートを出して、タウポ湖で釣りをするも、当たりが全くない。トンガリロ川の流れ込みは、広く茫洋となってしまって、リップと呼ばれるポイントを形成していない。そのせいか、他には釣り人の姿は全くない。ツンともコンともなくただ穏やかな日差しが気持ち良いだけなので、ホールに場所移動をして粘り、なんとかここで一尾釣った。同じ日にトンガリロ川に入った友人の話では、川もあまり釣れていないようだ。この反動、ぶり返しが9月になってどんと来て、いや、釣れて釣れて、なんてことになってくれないかと密かに期待する私。

腰は、高島さんに教わったストレッチや、自己イメージに基づいた自己流腰延ばしを頻繁にやっているせいか、徐々に快方に向かいつつある兆し。

8月22日

映画「Rabbit Pfoof Fence」を見る。重い。映画の直接的な内容そのものより、内容の背後に横たわるものがずっしりとくる。実話を元にしたストーリー自体は、非常に単純である。1931年のオーストラリアが舞台で、当時の政府はアボリジニと白人の間に生まれた子供を強制的に親から引き離し、収容所に入れていた(これはなんと1960年代まで続いていた!)。ある時、そこに入れられた14歳の女の子が、8歳の妹と10歳のいとこを連れて逃げ出し、1200マイル(1900キロ)もの距離を9週間かけて歩き通し、母親のところに戻るという、ただそれだけなのだ(ちなみにタイトルのラビットプルーフフェンスは、大陸を横断しているウサギよけのフェンス沿いに彼女達が歩いたことにちなんでいる)。スリルもサスペンスもなければ、変に盛り上げるところもなく、ただ淡々と物語は進んでいく。やっと苦難の末、追っ手もまいて、無事母親のところに戻るというある意味ハッピーエンドの映画ではある。しかし、最後の字幕でどんと重くなる。その後彼女は官憲から逃れて流浪の生活をしながら結婚までするものの、結局は捕らえられ、収容所に入れられてしまう。そこからまたしても彼女は逃げ出し、歩いて帰ってくるのだが、彼女の娘は取り上げられたままとなり、再び姿を見ていないという。
白豪主義、先住民、善かれと思ってしていることなどについて、しばらく、考える。

映画といえば、先日見た「Amelie」は、いかにもフランスの洒落たセンスと初期の村上春樹の小説をどことなく思わせる不思議な感覚が混ざり合い、とても面白かった。ストーリー展開も予想を次から次へと気持ち良く裏切ってくれ、全く退屈しない(そのしばらく前に、ビデオで「ニューシネマ・パラダイス」を見て、結構がっかりしていたのだ)。
タウポの映画館がスクリーン数が増えて5つになったので、これからこんな風なメジャーウケはしないけれど気になる映画がもっと見られるはずだ。今、早くタウポに来ないかと思っているのは、NZ映画では「Rain」と「Price of Milk」、そしてイギリスの「Bend it like Beckham」。見たい映画がなかなか来ないというのは、田舎の住んでいることの一つのデメリットかも。

腰はだいぶいい。この調子なら、来週中に釣りとカヤックに復帰できそうだ。しめしめ。

8月29日

昼過ぎに、女房と犬二匹(一匹は友達から預かったジャックラッセル)を連れて、トンガリロ川に釣りに行く。いつものポイントにはもう既に一人立ち込んでいて、ちょうど魚をかけたところだった。見ていると、魚はちっとも釣り人の近くには寄らず、それどころかじわじわと下流に下り、とうとう瀬に入って逃げられてしまった。きっと鉤が腹か尾びれにすれでかかったか、あるいは2メートルを超える大きな魚かのどちらかだろう。そこで後者を期待して、釣り人の下流に入り、しばらく粘る。しかし当たりもなにもなし。その後、彼はもう一尾小さめの魚を釣っていたけれど、僕にはかすりも何もないので、1時間であっさりと諦める。
それにつけても、雨の欲しさよ。

アメリカがイラクに侵略するかも知れないというニュースを、テレビでぼんやりと眺めながら思ったこと。
戦争は、きっと、とてつもない大きな出来事が、津波のように来るぞ、来るぞ、来るぞ、ほらぁ来たぁ、と起るのではなく、ごく当たり前の日常生活が少しずつ僅かずつながらずれていき、いつものように生活しているつもりが、いつの間にか戦争への道をどんどん進んで行っているという風にして起るのかもしれない。特に、ニュージーランドや日本、さらにはアメリカのように、自分の生活している場所が戦場にならない確信があると一層その感が強くなる様な気がする。僕の住んでいるこの場所がイラクなら、とてもこんな暢気なことは言っていられないはずだ。
それにしても、自由の国アメリカなんて言うけれど、単に、アメリカが好き勝手自由に振る舞っているだけのことなのではないかと思ってしまう。